奥州初老カメラ小僧

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秋に聴きたい音楽 NO.1 (Ⅲ)

2012-09-27 18:03:29 | インポート
ブラームスのピアノ協奏曲第2番第2楽章の特徴を、吉田秀和著「世界のピアニスト」(新潮文庫 1983 64~69頁)から引用してみよう。

「ブラームスの『ピアノ協奏曲』の極点の一つは、第2楽章スケルツォのトリオにあり・・・ラルガメンテという表情記号が指定されています。・・・ラルガメンテは幅広くひくことを要求こそすれ、おそくして楽想をひきずるのを求めはしない。しかも、ヴァイオリンの奏する三拍子の旋律はレガートでなく、乾燥したベン・マルカート。旋律はけっして上品なものではなく、むしろ娯楽場の騒々しい呑気なふしであって、センチメンタルになってはいけないのです。・・・初めの楽段が一段落すると、独奏ピアノがはいってきます。そこには、ソット・ヴォーチェ、低音で、しかも両手のオクターブのユニゾンで全音符がレガートに動きまわる。これは、この難曲の中でも格別に至難の箇所(です)。・・・(主要部の副主題に関して言えば)・・・この副主題はのち(377小節以下)スケルツォ主要部が反復されるときにも出てきますが、そのときは、ピアノは分散和音を奏し、そのうえを二本のホルンが旋律をうけもちます。いかにもブラームスらしい楽器法です。・・・(この箇所)につづく歌は、ブラームスのピアノ書法の中にどのくらいショパンの影響があるかの一つの例として意味深い箇所なのですが、それはすでにピアニストたちの注目をひいてきたことでしょう。ルービンスタインも、それから、日本では不当に低く評価されているようですが、・・・クラウディオ・アラウのようなピアニスト(引用者注:1969年アラウがハイティンクと録音したものは、ドイツレコード賞を獲得しているにも拘らず評価が低いのはその例?)も、それをまるで聴き手に『ショパンがでますよ』と目くばせでもしているような具合にひいて、僕たちを微笑ます。(以下略)」

吉田秀和氏は、引用した箇所に続き、バックハウスの演奏の素晴らしさを語るのだが、それは今回の私の趣旨ではないので、省略します。興味ある方は是非続きをお読み下さい。

この第2楽章があるおかげで、第3楽章冒頭のチェロの滋味ある旋律に心の平安を感じる方もおられるのではないでしょうか。

さて、ルービンシュタインの1958年録音のブラームスピアノ協奏曲第2番である。

その前に伴奏者について記して置きたい。

指揮者は、ヨーゼフ・クリップス。オケは、RCAビクター交響楽団。

このオケは録音の為に編成された覆面オケ。いろいろ調べてみたが実態は不明。

指揮者クリップスは晩年にはモーツァルトの交響曲の演奏では定評があったが、「彼の資質は完全にウィーンのローカリティに根差していて、強力に自己を打ち出すのではなく・・・」(レコード芸術第25巻第8号付録 1976 28頁)と評されている。しかし、このCDで聴く限り、協奏曲の伴奏指揮者としては並外れたポテンシャルを持っていたのかも知れない。

さて、ルービンシュタインは、1887年生まれなので、録音当時は71歳。

しかし、CDで演奏を聴いてみると、これが71歳の老人かと思われる程、若々しいのである。コンサートと違い、レコーディングは最初から最後まで通して演奏される事はなく、途中休憩を挟み、ベストテイクを求めて何度も録音が繰り返されるだろうが、それにしても録音で聴く限り、パワフルでエネルギッシュなのである。だけど、「私はヴィルトーゾよ!凄いでしょう!」とこれ見よがしのところがなく、また、ベトベトしたくどさながなく、実にサラッと演奏しているのである。

CDジャケットを見ると、1958年4月4日ニューヨーク・マンハッタンセンターで録音されたとある。という事はたった1日だけで録音完了。たった1日だけで、こんな録音を軽々とやってしまう、その素晴らしさには、唯々驚嘆するばかりである。
(それとも、当時は、「観客の抜き」の通常コンサートと同じような雰囲気で録音していたのだろうか?)

この演奏を、いかにもアメリカ的で、どこか大衆受けを狙ったミュージカルショー的な要素があると評する方もいるだろう。

しかし、私は、この演奏を聴いて心にイメージするのは、ナチス・ドイツに祖国を追われたポーランドの飛行兵達が、バトル・オブ・ブリテンの時、多国籍軍として参戦し、イギリスのスピットファイヤー・ハリケーンという戦闘機に乗り、孤軍奮闘しながら、ナチス・ドイツの編隊を組んだ戦闘機・爆撃機の大群に向って、行くシーンである。しかし、ルービンシュタインは祖国の為に戦うのではなく、時代の風潮に流されず、また、悲哀とか言った先入感とも無縁で、自分の信じる音楽の神に従って戦っているように思えてしまう。

それにしても、この演奏を聴いていると、一見病弱なそうに見える風貌とは違い、若々しい男としての健康な「色気」を発散させながら、ピアノに向い、ひたむきに演奏する姿を、ついつい想像してしまうのである。

コーヒーブレーク:ピアノの音だけを比較してみると、ルービンシュタインとバックハウスがそれぞれ使用したピアノメーカーが違っているのではないかと思う。録音された年も録音したレコード会社も異なるので、想像でのモノ言いで恐縮なのだが、我が家の「オンボロ」再生装置(1975年前後のT社製R/L独立のパワーアンプ構成の一般家庭用アンプ+M社製20cmウーハー使用の2ウエイ・バスレフ型SP)で聴いてみても、明らかに違う。多分、ルービンシュタインはスタンウェイで、バックハウスはベーゼンドルファーではないかと思う。この文脈で言えば、ルービンシュタインの方が現代的でバックハウスの方がブラームスが生きた時代というか北ドイツ風の音に近い、と言えそうである。(余談:「ベーゼンドルファーの音」をレコード・CD等で聴いてみたい方は、リヒテルのバッハ作曲の平均律【RCA盤】を是非お聞き下さい。)

最後に、吉田秀和著「世界のピアニスト」から、ルービンシュタインの演奏に関する記述を引用して・・・。

「ルービンスタインは、あらかじめ用意された下心のある情緒というようなものとはほとんど無縁である。彼はむしろ、音楽はその種の情緒を突破して、生命のリズムに忠実に従うことによって、その充実感を獲得する道をゆくものだと告げているのだし、それが、私たちに幸福感を満喫させ、私たちのの気づかないうちに微笑みを誘いだす。」(前掲書 399~400頁)

「ルービンスタインの偉大さは、完全な職人芸に終始しているように見えながら、きくものの心に彼だけしか与えられないものを残してゆく点にある。そうしてかれは、それを、ごく自然に音楽からひきだし、私たちに惜し気もなくふりわけてくれる。」(前掲書401頁)

「私はルービンスタインが何をひいても完全な演奏するなどと主張しない。あれこれの作曲家の作品について、不満がある人はそれなりに正しいのであろう。だが、私は、彼の演奏に、《音楽》をきく。そうして、そこには悲哀のあとはほとんどないのに気づく。」(前掲書 410頁)




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