yasumaroの石造物めぐり

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10/29 立川市古村を歩く

2009-10-29 18:01:14 | インポート

Pa250313 公園の中に石碑が建っている
諏訪神社は廣仁2年(811)長野県諏訪大社より勧進されたと伝えられるがこれ以降近世にいたるまで歴史は不明。
天正14年(1586)野火があり、全焼
江戸時代に寛文10年(1670)再建現在の諏訪ノ森公園にある「舊宮跡」の碑の場所に建てられた。
Spa250315 その後現在地に寛延3年(1750)に遷った。
平成6年10月に不審火により諏訪神社は
拝殿、本殿、八幡神社本殿と共に全焼。平成12年に再建された。
三殿からになっていて、中央に諏訪神社、右稲荷社、左八幡神社

境内の片隅にSpa250316 目の神社が祀っていた。
Spa250320 当日は古物商の骨董市が開かれていたが雨のため、
賑わいはなかった。

八幡神社が近くに有ったが明治40年に諏訪神社に遷宮された。

柴崎分水 柴﨑村の飲料水や灌漑用水として元文2年(1737)玉川上水より引かれた。取り入れ口は西砂川の松中橋のたもとにある。現在は道路拡張工事などで殆ど暗渠になっているが柴崎分水の流れを見ることが出来るのは富士見町と柴崎街の一部だけとなった。
常夜灯 いつごろ誰が建てたのか不明

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お屋敷の庭園に五輪塔が見えた。垣根外から撮ったため詳細は不明。

玄武山 普済寺(ふさいじ) 臨済宗建長寺派 多摩一円に末寺18ヶ寺を有する同派屈指の格式高い古刹である。文和2年(1353)開祖立川氏の居城の一隅に一族の菩提樹として一宇を建立
平成7年4月に放火により本堂・庫裏・客殿・書院のほか重要文化財等のほか建物・寺宝を焼失した。沢山の板碑が熱と、放水で欠け落ちてしまい今は一部が歴史民族資料館で見るのみと成ってしまい残念です。

Spa250339 Spa250347                         Spa250353

寺院前に巨大な石灯籠がある。
山門横に閻魔堂があり覗いて閻魔様を写しました
平成16年落慶式と晋山式が行われた。
Spa250351

 立川氏館跡
本堂の東側と西側に高さ2m長さ約40mの土塁が残されている・立川氏が活躍した鎌倉時代で武蔵国を本拠地(本貫)として武蔵七党の内西党の一族、日奉氏の末裔といわれている。

Spa250358_2 首塚 何故このように呼ばれているか不明
「六ッ星」の紋の入った石板は立川氏の墓所の石扉の一枚ではないか
明治14年(1881)この塚を開墾したところ60枚の板碑が発見された。板碑は浄土宗系の板碑で普済寺が建立される前立川氏の塔婆であった。
六面石幢 延文6年(1361)造立 国宝
板:高さ1.815m 幅0.4665m全ての面に像が掘り込まれている
「阿金剛」「
吽金剛」仁王像と四天王「時国天」「増長天」「多聞天」「広目天」
ただ全体が見れないのが残念。歴史資料館にレプリカがあるのでそこで確認
Spa250372 Spa250381 Spa250388 仏法護持と寺内鎮護の為に当時の住僧や外護者たちによって造られたもの。普済寺は創建当時は禅寺であったが、その後真言密教との兼修的な寺として性格を示した。そのような時期にこの六面石幢が造立された。
普済寺を裏門から出て残堀川(根川)の川沿いに川には鴨が沢山いるのを横目に山中坂 地蔵堂(昭和20年防空壕に爆撃に遭い避難者42名が犠牲になった)。
歴史民族資料館に到着13時半 小雨の中の散策でしたが白川先生のガイドを聞きながら半日楽しい日でした。
立川市は軍需産業が多かったため空襲が多く被害が多いためか石造物が少ないそうです。(資料館談)


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