誠の心で謝りなさい。
初めて「誠」という言葉を意識したのはお山の神様のことを山さんから聴いた時でした。
私が誠だと思ってても、神様からみて誠ではないとされたらどうしよう。。
神様は全てをお見通しだから、私の精一杯の気持ちが、神様からみて誠とは違ってたら、何をすれば良いんだろうと心配でたまりませんでした。
そして、覚悟を決めて謝りに行った時は、もし私の中の最高だと思う心が、神様の思う誠に到達してなくて許してもらえなくても、今ある精一杯の心で謝らなければいけないと思いました。
兎に角謝りたい、それだけでした。
そして、神様への不敬を謝りに行った当日、何もその場の状況は変わってないのに、神様が笑ってくれたと教えてもらって、何とか精一杯の真心は通じたんだと心底ほっとしました。
そして、現状が申し訳なくて涙がでました。
そもそも誠って何だろう。。。
あの時からマコトが気になりだしました。
調べてみると、誠の心と書いてあります。
マコト。真言。真心。
産経国際書会より
「誠」は、偽のない、真心を表あらわす形声文字です。
「言」(言葉ことば)+「成」(成)=「誠」であり、ここに「物事を成す偽りのない言葉」の意味を持ちます。まごころが、誠ということです。
金文篆書(きんぶんてんしょ)に見みられるように、「言」が形、「成」が読方を表しますが「成」は武器の「戈ほこ」に飾をつけて清めること。
その清められた心で神に誓いの言葉をいうような真心を表す意味があります。
その後「中庸」を知り、その思想の根幹は「誠」だと知りました。
「中庸」は、孔子が最高の徳として説いた概念です。
孔子は15歳のときに立派な人間になるために学問を始めますが、70歳になってやっと、自らが思うままに言動をしても道理に背かなくなったと語ったそうです。
「自分が思ったままに行動しても、道徳からはずれない」そんな自由な境地が誠の境地であり、そこに到達することが中庸を学ぶ目的といえます。
その中庸では「天命を知る」という教えがあります。天から与えられた性を育むことが人として完成する方法(誠の人になる。。)とされているのです。
生まれながらに与えられた天命を知らなければ、どのように進んでいくかわからず、道を踏み外してしまいます。
目標を達成するために進む過程のことを道といい、その道をはずれないように学問を通して天命を知ることが、中庸を学ぶ意義であるとされているのです。
天の命これを性といい、性にしたがうこれを道といい、道を修むるこれを教えという。
天が人に授けたものが人の本性であり、その本性に自然に従うことを人の道という。人が歩まねばならない道を修めるのが教育である。
誠の人になろうと何もしないのではなく、聖人の辿った道を学び、求め、歩み、そして自ら掴んでいくものなのですね。
色んな書物を読むことと、坐をして静かな境地を感じることは大切だと感じています。
中庸においての「誠」とは
自分にも他人にも嘘偽りのない心
「真心」に近い言葉をいうようで、孔子は誠の心こそが天の道であると説いています。
誠は天の道なり。これを誠にするは、人の道なり。誠は勉めずして中(あた)り、思わずして得、従容(しょうよう)として道に中るは聖人なり。これを誠にするは、善をえらびて固くこれを執る者なり。
誠というものは天の道である。天の道を素直に受けるのが人の道である。
真に誠の人は、特に勉強したり思索したりしなくても正道を得ることができる。
ゆったりと構えて道をすすむのが聖人というものだ。誠の人となろうとする者は、善の道を選んで、それを固く守るものである。
なかなか誠は奥が深いのですね。
『論語』の中に
「子曰わく、
吾十有五にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、
六十にして耳従(したが)う、
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。」
とあります。
口語訳によると、
「先生がいわれた。
わたしは15歳で学問に志し(志学 しがく)、
30になって独立した立場を持ち(而立 じりつ)、
40になってあれこれと迷わず(不惑 ふわく)、
50になって天命をわきまえ(知名 ちめい)、
60になってひとのことばがすなおに聞かれ(耳順 じじゅん)、
70になると思うままにふるまって道をはずれないようになった(従心 じゅうしん)。」
とあります。
50歳を前に、天命をわきまえる歳となりました。天から与えられた自分の使命を悟るようになりなさいという事だと思っています。
人生がいつまで続くかなどわからないから、誠の人になり神様の元へ還れるよう、残された人生精進しなければと思います。