大西 ライフ・クリエイト・アカデミー

身の回りから、世界のさまざまな問題に至るまで、根本的な解決ができる道である文鮮明先生の思想を、その根拠と共に紹介します。

ホントに科学は答えてくれないの…?

2014-03-24 00:12:27 | 学問
 心や魂の存在について、さらには、あの世のことなどについて考えてみましたが、果たしてそれは本当に非科学的なのか。気になるところです。もしこれらが本当に存在するのであれば、現在の進んだ科学の成果の中に、何らかの証拠があってもおかしくはないのではないかということを考えてみたいと思います。
 アインシュタインは、有名な相対性理論で、まず光と時間、空間の関係を明らかにしました。それは私たちが、普段当たり前に感じるのとは違っていて、光の速さは何があってもどんな状態にある誰にとっても変わることはなく、同じなのです。光の速さは、一秒に約30万キロメートル。地球をだいたい7周回半する距離です。実際はありえないですが、たとえば秒速20万キロメートルの乗り物で移動しても、そこから見る光の速さは約30万キロメートル。それを横から見ている人がいたとすると、秒速20万キロメートルの乗り物と、乗組員は長さが縮んで、さらにスローに見えるのです。つまり、時間や空間は、光の速さに対して、そのおかれた状態によって十人十色、人それぞれということです。つまり時間の進み具合や、空間の広さは時と場合によって違うってことですね。不思議ですけど…。でも当の本人は、まわりの環境みたいなのとセットで変化するので、横から客観的に見ないとわからないのです。短くいうと時間と空間は相対的に変化して、片や光は絶対的なのですね。 
これは、それまでの物理の考え方とは全然違っています。中でもニュートンが重力を中心にしてまとめた歴史的な一冊「プリンキピア」の考え方は、時間、空間は絶対に変化しないで存在して、そこを舞台に、物質やエネルギーというものが、それぞれ総量においては変化せずにそれぞれ法則にのっとって運動するはずでした。そしてこれは、普通に私たちの感性にも合っていると思います。
 しかし、それから200年ほど後に、光に関する見方を変えなくてはならない実験結果がもたらされたのです。マイケルソン・モーレイの実験がそれです。当時は光は波であるとする見方が優勢で、波であるならば、それを伝える物質がなくてはならないと考え、宇宙はエーテルという物質で満たされているとされていました。そして、われわれの地球はその中を、人間の日常的な感覚からすれば、たいへんなスピードで移動しているのです。それならば、波である光は、その速さを測った場合、地球の進行方向に向かう光と、進行方向とは垂直の向きに向かう光では違いが出るはずです。そのための正確な実験が、マイケルソン・モーレイの実験です。そして、その結果は、全く速さは違わなかったのでした。この結果から、オランダの物理学者ローレンツは、、ローレンツ変換という、進行方向に対して物体が収縮するという仮説を考えたのです。
このローレンツ変換は、実験の結果を正しく説明するものではなかったのですが、相対性理論のひとつの複線となったのでした。
 光の速度と時間、空間の関係に対する理論である特殊相対性理論は、空間(正確には時間も一緒になった時空といいます。)のなかに、何も存在しないような特殊な状態のときで、普通私たちに身の回りには、いろいろものが存在しています。
中でも星やなんかは、とっても大きくて重たいので、引き付ける力である、重力が無視できないのです。アインシュタインは重力というのは、空間(ホントは時空)が曲がっていることで起こると考えたのです。人間の力では、直接見ることはできませんが、後ほどイギリスの探検隊は、皆既日食のとき、本来は太陽の影で見えない星が、太陽の巨大な質量によって曲げられた空間のために見えることを確認して、世界を驚かせたのでありました。こちらが一般相対性理論です。
 というようなところで、難しいし、長い話になりそうなので、つづく…



心は、脳の中には見つけられなかった?

2014-03-20 01:06:01 | 人生
 脳科学からさかのぼること数十年。実際の人間の脳に向きあって、その働きを調べた方がいらっしゃいます。千数百人に及ぶてんかん患者の脳を、意識のある状態で手術を行った脳神経外科医のワイルダー・ペンフィールド博士です。脳自体には神経がなく、痛みを感じることがないそうですが、それ以上に、てんかんの治療を確実に、そして後遺症や障害を残さずに手術を行うための方法であったのです。
てんかんの発作は、脳のある箇所に生体電気の異常な放電がおこって、正常な機能を失うことで起こります。そこで、意識のある脳に微弱な電気の刺激を行うことで、発作の時と同じ状態を再現して、問題の箇所を正しく探り当てようとしたのでした。刺激する箇所によっては、手足が勝手に動いたり、過去の記憶が自発的な回想どころではない鮮明さでよみがえったりするそうです。そして、そのいずれにおいても、患者は自分の意志でではなく、電気の刺激によって勝手にそうなったことを、混乱することなく見分けていたのです。また発作の箇所によっては、意識を失う直前に行おうとしていたことを、自覚なく、記憶も残さずロボットのように行う自動人間という状態になってしまうそうです。さらには、電気の刺激によっては、ついに心の働きと思われる現象にはであうことができなかったのです。ただ、ほんの二例のみ、心の働きと考えられるかもしれない、という程度の反応があっただけでした。
 このような結果をふまえて、心は脳の機能であるとする一元論でもって証明できるであろうと出発したぺンローズ博士の心に対する探求は、脳とは別に心が存在するという二元論の方が合理的ではないかというところに行き着いたのでありました。
しかし、科学者としては、これらはあくまで二元論に対する消極的な証拠であるため、断言するにはいたらないとされています。しかし、そうでありながらも、キリスト教徒の家庭に育った人間としては、心が脳の生体のエネルギーとは別のエネルギーによるもので、人と神との交わりということがあるのかどうか、また、死後、心が魂として存在し続けるために、外部の源からエネルギーが供給されるのかどうか、― こうした問題には、わたしたちは各自に答えるしかない、科学はそれには答えてくれないのだ。と著書を結ばれているのでありました。



心はどこにある?

2014-03-01 23:00:23 | 人生
 あの世の話などを何度かいたしましたが、あの世の存在を考えると、はたして心とか魂が、身体とは別に存在するかどうかが、とっても気になるところです。そのような存在がなくては、あの世があったところで、人間にとっては何の関係もありません。
医学的には、心は脳の働きによって生み出されているという考え方が一般的のように思うのですが、はっきりそのように証明できるのでしょうか?
脳科学という分野の学問は、本来、ボケの防止や脳トレというよりは、心、すなわち人間の意識が脳の機能のどの部分から、どのように生み出されるのかということを目的として始められたと聞きます。
そもそも、心を科学で扱うというのは、かつてタブーであったそうで、それは哲学や心理学の扱うべき分野であるとか…。心理学というのは、大学では医学部ではないのですね。
脳科学者の茂木先生がおっしゃるには、今のところ脳科学は脳に関しての多くの成果を挙げている。しかし、一方では意識、あるいは心が神経細胞の集まりである脳からどのようにして生まれてくるのか全く分かっていないということを、”錬心術”という言葉で表現されています。
かつての錬金術は、今日、私たちが思うようには怪しげなものではなく、ニュートンが晩年に最も力を注いで研究したテーマでした。現在では、化学変化では決して金を作ることはできず、原子核に変化をもたらさなくてはできないことがわかっています。そうして金をつくることは、現在のところ全くコストに見合わないことも事実です。そして、現在の脳科学において心を解明することは、かつてニュートンが真剣に錬金術に取り組んだのと同じような状態であるのではないかということから、錬金術ならぬ”錬心術”という言葉こそふさわしい、ということにたどり着かれたようなのです。
 とにかく、今のところ、脳を調べても、心がどこにあるのか分からいってことですね。ちゃんちゃん!


ホットな樋口先生の主張

2014-02-19 23:39:46 | 人生
 先回、パスカルの言葉を紹介したのですが、パスカルがそういったからといって、頭でお茶が沸くぐらい(古い表現!)、懸命に考えても、分かるという保証はないし…。それでもって、精神に異常が、という事態になっても。私は保障する力はないしということで、そのようにならないための、安全な方法というものを考えてみたいと思います。
 私、尊敬しております考古学の先生がいらっしゃいます。樋口清之先生です。静岡の登呂遺跡を発見したりという、すごい方なのですが、その昔、子供電話相談室のコメントもされていました。ずっと前から、この世にはいらっしゃらないのですが、「梅干と日本刀」という有名な本があります。戦後に植えつけられた価値観から、西洋から入ってきたものこそ合理的で素晴らしい、といった考えが強くなっていた時代に、日本人の伝統や技術の素晴らしさを堂々と見直そうといった本だと思うのです、これが…。
 本の中で、若き日に四国巡礼にゆかれたときに、ハンセン氏病の方をたくさん見かけたのに、帰って間もなくハンセン氏病は伝染病であるということが分かり、香川県の小島に強制的に収容、隔離されることになった。人間のもっている自由を根こそぎ、突然に奪われてしまった。ということに出合って感じられたところを抜粋させていただきます。
「私たち人間全部が肯定したもの、それが科学的真理だが、人間の真偽の判別能力には限界がある。見えないものもあるし、聞こえないものもあるからだ。その不完全な人間の説明だけが科学的だとなると、自分でよく確認できないことについても、”そうだ、そうだ”と、多数決で、それを真実にしてしまうことがあるだろう。しかし、真実は他にあるかもしれない。科学というものが、一日で全く別の真実を言い出すものだとすれば、とてもではないが、西洋の科学的発想だけに頼っていては、真実など発見するのはむずかしいと思った。科学的真理というのは、つねに相対的でしかない。… たとえていえば、先ごろからオカルトが流行していて、それが真実かどうかを議論している。それはいい。だが、私はいろんな不思議な現象はあり得ると思う。その理論を私は知らないだけで、その他にもわからないことはいっぱいある。それを、オカルトは科学的に説明できないと理由で、言いかえるなら、自分がわからないことについて ”それはありえない”という言い方をするのは、不遜だと思う。科学は絶対的であっても、万能ではないのだ。」
 今日のテーマに、都合の良いところを抜き出しましたが、気になる方は、読みやすい本なので、お勧めです。
他にも「米と日本人」という本では、カッパ信仰に触れられていて、これはひとつには、子供を危ない場所に近付かせないための知恵であり、現代ではそのような信仰は失われているが、どちらのほうが幸せなのかということを問いかけておられます。
 しかし、何ですね…。今日の結論は、わからないものはわからないということになってしまうのでしょうか。それでは、あんまりですし、最初のところの問題提起に対しての答えも、いまひとつ出ていないという感じでしたので、今回の話では、否定的な感じを覚えてしまうような科学について、今後考えてみたいと思います。


熱きパスカルのテーゼ

2014-02-16 00:16:22 | 人生
続いて、パスカルの話です。
パスカルの著書といえば「パンセ」が有名であり、「人間は、考える葦である。」という一文は有名ですが、当然、もっといろいろなことが書かれています。
かつて、戦場に向かったフランスの若者たちが、共にたずさえた本で一番多かったのは「パンセ」という伝説をもっているとか。
その「パンセ」の中で、私が一番心に響いてしまったところを紹介したいと思います。
最近もはやっているのかどうかは、分かりませんが?そのままだとかなり長いので、超訳っていう感じで紹介します。
「だれか他人の小さな問題ではなく、われわれの全部にとっての問題。霊魂の不死といことは、われわれにとって非常に重要な問題であり、感情を全てなくしでもしない限り、無関心ではいられないはずだ。それは永遠の幸せという希望があるのかないのかの問題であり、それによっては、われわれの考えや行動がまるで違ったものになる。その究極の目的である一点を定められなくては、正しく一歩を踏み出すことはできない。この問題にまじめに悩み苦しみ、最も重要な課題とする人々には、ひたすら同情する。考えても分からないからといい加減にしている人に対して、私はいらいらさせられる。または、哀れみというより憤りを覚える。」という感じに理解しています。ちょっと超訳とも言い切れないかも…。
 パスカルは17世紀のフランスの哲学者です。科学や数学においても優れた才能を示し、優れた業績を残し、社交界にも身をおいたことのある方です。そのパスカルの晩年に「パンセ」が執筆されました。39年の生涯に最晩年のことです
本来は、キリスト教弁証論としての著書の準備をしている途中、39才で亡くなった後、断片的に残されていた原稿が「パンセ」という名で出版されたのだそうです。
 本来は、それを元にちゃんとした一冊へと推敲を重ねてまとめあげ、洗練されてゆくはずであったものが、作者の死のために、途中で取り残された文章は、より作者の熱い思いのまま世に出されることになって、命懸けの場にゆかなくてはならなかった多くの若者に愛され、心の支えになったのではないか。そんなふうにも思ってしまいます。




内村ルツ子さん、最期の一言

2014-02-14 00:25:09 | 人生
 札幌農学校、現在の北海道大学の二期生に、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾(敬称略)という、そうそうたる方々がいらっしゃったのです。
新渡戸さんは、戦前、太平洋の架け橋にあろうとした方で、一時期、お札の肖像にもなっておられました。宮部さんは…、初代の道知事さんでしたか? よく分かりません…。すみません。
その中で、内村さんはキリスト者としての生涯を貫かれたのでした。そもそも当時の札幌農学校の初代教頭は、「少年よ、大志を抱け。」のクラーク博士でした。実質的には学長のような立場で約1年間の在任中に、キリスト教に改宗した一回性の強力なプレッシャーによって、かの三名もキリスト者になったのでした。
 内村鑑三は、あれやこれやの経緯を経て、「聖書の研究」という雑誌を創刊し、それを通じて参加者を募り、夏季講談会という合宿的な勉強会を行ったのでした。全国から集った参加者に理想とする教育を行い、その教育を受けた参加者がそれぞれの地元において影響を与えて、さらにその理想を広く行き渡らせようという大志を抱いての計画と、私は理解しております。
しかしながら、内村鑑三にとって、最も理想に近い若者であった、娘のルツ子が若くして、天に召されたのでありました。息をひきとるまぎわの一言が、「もう。ゆきます。」であったことから、鑑三は黄泉の世界の存在、つまりはあの世の存在を確信したのでした。さらに、自分がどんなに懸命に教育を行っても、死は簡単にその存在を連れ去ってしまうことをも悟ったのです。
ルツ子の埋葬の場で、鑑三は土をつかむと、その手を高くつき上げ、娘は黄泉の国へと嫁いで行くのであると、『ルツ子さん、バンザイ!」と叫んだのでした。その場に参席した、当時の弟子、矢内原忠雄はその叫びに、雷に打たれたようになったそうであります。
 自らの力の限界を強く悟った鑑三は、その後再臨運動へと向かうのでありました。
参考文献は、岩波新書の「内村鑑三」です。ずいぶん前に何回か読んだままなので、ちょっと心配ですが…。ありがとうございました。





臨死体験とエリザベス・キュブラー‐ロス

2014-02-13 00:37:14 | 人生
 エリザベス・キュブラー‐ロスという方がいらっしゃいまして、この方はフロイトの教えを受け継ぐ心理学者だそうです。
先回、予告したかのようになっいました内容については、またそのうちにということで、今回は臨死体験を考えたいと思います。
臨死体験というと、心霊の研究家が懸命に調べたりして、世に送り出したイメージをもたれている方が多いのではないかと思いました。何を隠そう、私がそのように思っていました。一面においては、そういう発展の方向もあったのではないかと考えられます。しかし、キュブラー‐ロスさんの場合、心理学者で、臨死体験を世に広めたお一人なのですが、医療の方面から入ってゆかれたのでした。ココで、心霊研究家の場合とは違うと言える点は、はじめから目的を持った積極的なアプローチではなく、思いがけず偶然の出会いが積み重なった、ということが大きな意味を持つのではないかと思うのです。
キュブラー‐ロスの先生というのは、心理学者であり、精神分析の創始者であるフロイトです。フロイトは心のさまざまな働きを仕事と考えました。その中の一つに喪の仕事というものがあります。近親者などを亡くした悲しみを癒すことや、死にゆく人を安らかに送るなどのことですが、キュブラー‐ロスは後者の実践をすることになったのでした。
 かつてのイギリスの医療は…、ずっと昔のですが、…、医学的に治る見込みのない患者に対しては、さばさばと冷たいものであったそうです。そのような患者を、せめて安らかに送ってあげたいという行動は、現在のホスピスに精神的には通じる活動といわれています。その結果、今日、臨死体験と呼ばれる多くの体験談が、期せずしてキュブラー‐ロスの元に集まるようになったのでした。
実際、患者は医者にもそのような体験を伝えたりしたものの、脳の機能低下などによる幻覚だろうということで、真剣には取り合ってもらえなことがほとんどだったようです。
最近では、お迎えという現象が死に対する恐怖をやわらげてくれるというので、医療の世界でも注目されているみたいに聞きますが、臨死体験でも同じような効果が報告されています。実際にあるかどうかは別にしても、人間にとっての必要性はまちがいがなくあると言えるように思います。


心の癒し

2014-02-09 17:56:45 | 人生
 昨年、NHKで放映された番組です。東日本の震災で、身内の方、お母さんやお子さん、奥さんなどをなくされた四組くらいの方々の体験談が、紹介されていました。どう考えても、どうしようもなかったと思える状況だったにもかかわらず、何とか助けられなかったかという思いに、さいなまれ続けておられる方や、もうどうにも会うことができなくなったわが子に対して、気持ちのやり場がなくなってしまった親や夫。しかし、ずっと思い続けた相手の姿に、確かに再会を果たしたり、その人以外からは考えられない、しるしを受けとることで、明らかに心の変化…、もちろん良いほうに変化、されているのを紹介していました。それは、当人の話を信じる以外、客観的な証拠はないと思われます。しかし、心の癒しは、確かとしか思えません。
現地にボランティアとして訪ね、カウンセリングを行ってこられた方は、自分たちが何回も面談を重ねても、このような出会いにはかなわないといったことを、語っておられました。
 心理学者のユングは、現代に生きる我々は、かつて人々が心の支えとした神話を、科学の発展などの代わりに失ってしまったと考えたのでした。そこで、共通の神話の代わりに、個人の神話をもつことが必要だと考えたのでした。個人の神話とは、スピリチュアルな体験のことです。そして、そのような考えは、現代の社会で、さまざまな依存症という症状に苦しむ多くの人々の支えになる方法を提供することになるのです。それにつきましては、また次回に…
 



生きるということ

2014-02-08 23:26:21 | 人生
 「生きていることの意味について」、などと申しますと、ナニやら哲学的になってしまいます。
しかし、いざという時、例えば生きることがピンチに陥ったときには、おおいに支えとなるのではないかと思います。
「死ぬ」という前提を考えると、生きることの意味が見えやすいなどということを聞いたりします。といいますか、そんな感じのことを誰かが言っていたのを聞いた覚えがあります。
もう一歩進んで、死んだあとのことを考えるというのも、大切ではないかと思います。これは、生き方ということでの価値観に関わってくるのではないかと…。
死んだあとに…、この世での死ぬということです。あの世、死後の世界があるとするならばどうでしょう。これは一般的には、はっきりとした答えが示されてはいないと、私は認識しております。
一作年、お亡くなりになった、流通評論家の金子哲雄さんは、生前に準備されていた、自身の葬儀の参列者への挨拶状に、「第二の現場では、全国どこでもすぐに行くことのできる『魔法のドア』があるとうかがっております。」 と、その存在を思わせる内容を残しておられます。
他にも、身近な人を事故や不幸な事件でなくされたような方々が、せめて天国でしあわせにあって欲しいと願われるのをニュース映像などで目にすることがあります。このような心情に対しては、全くそのとおりと感じるのが、人情というものではないかと思うのです。いや、人情だけでなく、なにやら、そこはかとなく天国はあるのではと感じているからではないかと…。でも、別な深刻さで、亡くなり行こうとする人に、本当に死んだあとに行くべき世界があるのかと問われたらどうでしょう。とりあえず不安を取り除けたらと、「きっと、あるよ。」などと調子よく言いながら、心が痛みを覚えてしまうということになりかねないか…、などと思ってしまいます。
と言うところで、長くなりそうなので、続きは次回に…



共に世の中を天国に変えませんか。

2014-02-06 23:45:34 | 人生
 全ての人が。しあわせに、安心して生きてゆくお琴のできる世界。それを一言で言うならば、天国という言葉が最も相応しいと思います。
何かあったときのために、老後のためにと、保険に入り、たくわえを考えなくてはならないということが、常識となった社会に生きている私たち。それは、不安と戦い、不安を少しでも取り除いて、来るべき将来に備える。そのために、現在は多少の苦労や辛さを耐えてゆく…。そこには何かが抜け落ちているような気がします。それは、私たちは何のために生きているのかという問いかけではないでしょうか。どうやって生きていくのかということが、現実に生きてゆくことの困難から、全てになってしまっているような気がします。忙しい日々の中にあっては、難しいことであると思います。
そして、そのような問いかけは、答えのないどうどうめぐりへの入り口かもしれません。しかし、その答えを示されたのが、文鮮明先生です。ある方は、全ての問題を解決する方程式である、と言いました。
明確な目標を持ち、不安や心配もない世界。ただただ歓びと、幸せとを感じて生きてゆく。妄信ではなく…。これは単に信じることではなく、現実のさまざまな問題に即しているのであり、そうであるならば、さまざまな学問の分野においても、未解決であったり、間違っているところの全てを解決することができるはすです。
 これから、その実際を少しずつ示してゆきたいと考えております。


全ての問題を解決することのできる方程式

2014-01-28 23:47:06 | 人生
 私たちを取り巻く世界を見まわすと、そこは解決が不可能に思えるような困難な問題に満ちています。個人や家庭内のことから、会社や学校のような組織の中、さらには国や世界全体に及ぶこと、地球規模の環境問題など。これらは結局人間自体が原因となっていることが、ほとんどではないでしょうか。
 過去において、歴史に名を残すような義人や聖人と呼ばれるような方々の努力にもかかわらず、現在に生きる我々は、このとおりの有様の中に生きています。
しかし、そうした全ての問題といえるものを解決することのできる方程式こそが、文鮮明先生の原理をはじめとするみ言です。人間的な力や努力のみでは、解決が現在に至ってもできていない問題。全ての人が、幸福を感じて生きてゆける世界、環境を実現することのできる方法がここにあります。それは人間の力のみでなく、神様のみ業によらなければ実現されないものです。非科学という言葉によって現在、その存在を信じ依り頼むことは困難なことかもしれませんが、その存在を明らかに示すことのできる力を持ったものこそ文鮮明先生の原理をはじめとするみ言です。
これから、そのことを明らかに証明してみたいと思います。乞うご期待!!



ブログ人、はじめました。

2012-01-21 13:56:48 | 学問

訪問いただき、ありがとうございます。

 

人生のすべてに答えることはできるのか?                           

私は、すべてはなぜ、何のために在るのか?それとも、そもそも目的などないのか?

科学的という言葉の、本当の意味は?

 アインシュタインによって明らかにされた私たちの住む世界は、全てを説明してしまうものではないものの、宇宙の真実は光の速さが絶対で、どのような状態に置かれた人にとっても等しいというものでした。一方不変であり一定の状態で流れ存在すると思っていた時間や空間は、それぞれの置かれた状態によって変化するものであったという、一般的な感覚からすると信じがたい真実であったのです。現在、最先端の科学は、すべての物質や宇宙を説明する究極の理論の候補として、果たしてこれが科学と思いたくなる、黄泉の世界のような存在に頼らなくては、答えが出ない有力な仮説が現れたり、心や精神の謎に挑む脳科学の出現などがあります。

一番大切なものとは?

 私たちが、現実に生きている世界は、素晴らしくもありますが完全に解決することは不可能と思えるような格差や不公平感、さまざまな心配や不安をそれぞれに抱えて生きていかなくてはならない世界、社会というシステムを人間自身が築いてきたものではないでしょうか。老人や子供、繊細な心の持ち主の一部のウツや自殺など、弱い立場にある人にしわ寄せが行くことは、その証拠であり、時には耐え難いような理不尽な出来事に出会ったり、見たりする苦痛を抱えた世界でもあります。そこは私たちが人間である以上、避けることのできない仕方のないことであると考えがちですが、本当は何か一番大切なことについて知らないために、願いもしない不幸を生みだし、抱え込んでしまっているのかもしれません。

 それがいったい何であるのか、本来は人間や世界はどうあるべきであるのか、どうすればその理想的な状態へと至ることができるのかを、理論的、実証的に明らかにしたのが文鮮明先生であり、その思想こそが唯一それを可能にしているものであることを主張し、そのことを多くの方に知っていただきたいと思いました。

本当の答えはあるのか?私たちはどうするべきか?

 人間は、一番大切な生まれて生きていることの目的や、地上での人生を終えた後のことなどを明確にすることが、現在でもできておりません。科学や学問の発達などが、目に見えないものの大切さを、分かりにくくしているようにも思えます。その結果、人間としての根本となるような宗教や道徳、倫理が価値観を見失い混乱や不安を抱えて生きてゆかなくてはならなくなってしまったのが、現在の私たちのおかれている立場ではないかと思うのです。

 いまだ、決定的な答えには到達できていない科学や様々な学問の行くべきところを示し、私たちの願う答えを示すことのできるものが文先生の思想であり、現在、人類の抱える全ての問題解決のための方程式であり、人類共通の根本的な価値観を見つけることのできるものであると確信しております。

これらのことに対しては、物理学、数学、心理学、脳科学、哲学など、それぞれは完全な答えを持ちませんが、それについても比較検討、成果を検証しつつ、その正しさを確かめたいと思います。