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勉強って何?その268

2019-02-23 06:35:37 | 日記

言葉それ自体に、「意味」というものは、あってないようなものだとおもうのです。といいますのは、

例えば、国会での質疑、身近には、時に言い放つ「がんばるぞ!」なんていう言葉を浮かべてください。これらの「言葉」に意味があるんでしょうか?

「かんがえておきます」とあなたは言います。ある品物を勧められたときあなたが発する言葉ですが、あなたが発するその「かんがえる」とは、ならば、

辞書に記載されているような、我々がふつうに使っているような意味合いなのかといいますと、その真意=ほんとうの意味とは、「要らない=買わない」

なのであって、「よく考えてみたら、自分には必要ないから買うのを止めます」という意味深なものが込められているわけです。

ということは、言葉が意味を持つのは、裏付けとしての「行為=おこない」によって千変万化する、すなわちどうにでもなるということを示しているわけ。

そんな言葉を記憶・定着させる発明品が「文字」であります。その文字において、漢字は「表意文字」として生まれた。ですから、その字形がもっている

形には「姿=様子=行為」があります。したがって、本来的意味を知ろうとすれば、その語源において「どのような使われ方がされていたか=語彙を知る

とその語意がわかる仕掛けが施されている。

 勉強というコトバの中で、ひときわ異彩を放つ「商人が値引きをすること」という意味がありますが、「産道から子どもが産れ出ようとしている」という姿

が、商品自体がもっている「儲け」その一部を、値引きという行為によって吐き出す様子と重なるからこそ、「べんきょうするよ!」という掛け声になって

でるのであります。と、みていただくなら、きっと、みなさん「へえ~」なさるのではないでしょうか。「べんきょうするよ!」このかけ声は江戸時代に既に使わ

れていたそうで、商売において、売り手と買い手の間では、勉強するのはあたりまえだったのではないか、そんな姿が浮かびます。

 勉強というコトバが、今日のような使われ方になったのには、おそらく、子どもの教育つまり子育ての中の「寺子屋教育=よみ・かき・そろばん」が

学校に取って代わったことによるのではないでしょうか。それまでは家庭や親がしていた(子育ての一部である)「教育」が「学校教育」に委ねられた

のです。それにともなって、「勉強というと、学校との関係でかんがえるのがふつう」になったのであります。ですから、「勉強=学校のべんきょう=学習」

とみなされて、辞書にあるような「意味」になったようにおもうのです。

 勉強って言葉を耳にすると、何となく「おかあさん」を連想しませんか? その昔、幼かった頃、しばしば耳にした言葉それって「勉強しなさい!」

じゃありません?不思議なことに、いまでは、教育ママという言葉はほとんど耳にしません。死語になっている。なぜ?ボゥ―と生きてちゃだめよ!

おかあさんはその立場上教育ママでなければならないから、このコトバが死語となったのですよ。その代りが「お受験ママ」なんです。

「お受験」とは、まさに、いまを象徴する言葉であります。べんきょうする=がくしゅうする。その目的は?そうです。いい成績=いい学校。

つまり、受験であります。学習塾に通うその目的は?人づくり?いいえ、いい学校に合格するため受験のためでしょ!

そんなことのために、莫大なお金が費やされて消費されています。一考に値するように思うのですが???!!!!

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勉強って何?その267

2019-02-20 20:56:03 | 日記

  勉強って何やろ? 勉強ってどういう意味? 何で子供は学校で勉強するんやろ?

 大人は勉強してるん? 勉強は頭のいい子と悪い子つくっているやん。悪い子は仕事したり高校行ったりでき辺し、バカにされるやん。

 誰か、勉強とは何か教えて

 2003年の読売新聞。大阪版に掲載され、大反響を呼んだという「中学校3年の女生徒の投稿」です。

この投稿を見つけたのは、奈良県の教育委員会のHPですが、その後このHPから削除されたようです。

(すでに15年経過ですから,投稿した女学生はお母さんになっているでしょうね!)

 

言葉の意味ということであれば、誰もがすることは、辞書をみることになります。そこで、国語辞典を開きますと

 1 学問や技芸などを学ぶこと。徹夜で勉強する。音楽を勉強する

 2 物事に精を出すこと。 努力すること。

      何時までこんなことにーするでもなし (福沢・福翁自伝)

 3 経験を積むこと。今度の仕事はいい勉強になった。

 4 商人が商品を値引きして安く売ること。      GOO国語辞典より

 

① (形動)努力して困難に立ち向かうこと。熱心に物事を行なうこと。励むこと。また、そのさま。

② 気のすすまないことを、しかたなしにすること。

③ 将来のために学問や技術などを学ぶこと。学校の各教科や、珠算・習字などの実用的な知識・技術を習い覚えること。学習。

  また、社会生活や仕事などで修養や経験を積むこと。    日本国語大辞典より

 

  ①  学問や技芸を学ぶこと。学習。 勉強部屋 遅くまで勉強している

  ② ある目的のための修養や経験をすること。 何事も勉強だ

  ③ 物事にはげむこと。努力すること。

  ④ 気が進まないことをしかたなくすること。     大辞林より

 

遊ぶことをやめ休む時間も切りつめて。当面の学業や仕事などに身を入れること。

将来の大成・飛躍のためには、一時忍ばなければならないつらい経験

利益を無視して、商品を安く売ること.       新明解国語辞典・三省堂より

 

「勉強とはなにかおしえて」といわれましても、これじゃね!?そうはおもいません!!

でもって、別方面から探索です。

  ものすごく学識のある教師や親だったら、「なぜ勉強しなければならないか」を説明できるかもしれない。

人類とは何か、歴史とは何かについて話をし。さらに、近代はどのように成立し、近代的な人間(個人)の理念が、

どのように構成されたかを説明し、人間と啓蒙のつながりから教育の必要を解き明かせるかもしれない(それにしても膨大な時間がかかりそうだが)

したがって、学校であれ、家庭であれ、「なぜ勉強しなければならないのか」という問いかけがでてきたら、まともに真正面からこたえるのではなく、

できるだけ焦点をぼやけさせて曖昧にしてしまうのが適切であろう。これは逃げやごまかしではない。

この問いに誰も真正面から答えられないからである。もちろん、親も教師も、それなりの理屈や必要性を語ることはできよう。それは親や教師が

正しいと思う理屈である。だが、そういう世間的な理屈や必要で納得するくらいなら、子供もはじめから問いをだすわけがない。

子どももある意味で答えられないだろうと感じているからあえてくちにするともいえるのだ。 「なぜ勉強させるのか・諏訪哲二著より」

 この方、学校の先生をされていて、しかも、「プロ教師」と称しておられた方です。なるほど、プロの中のプロを自称する先生をしてもわからない

ものらしい、それが「勉強」というものらしいです。

と、ここまで書いてきて、言わせてもらいますが、勉強という行為のその意味とは、つまり、意味の裏付けとなっている「すがた(という目に見える形)」

とは、いったいなにかというと、それが、いままで幾度も申しあげてきた「育児=子育て」というお母さんがする育事というお仕事なのです。

 勉強というのは、ある行為の性質を示しているのであって、勉強という形が世の中に存在するわけではないのです。「勉強」という行為が

「べんきょう」としてどこかにあるのではなく、事に仕えるすなわち「仕事」という行為の中に生じる「性質」をさすことばなのです。

では、その「性質」とはなんでしょうか。「創造性」というものなのです。なにかを実現するためにあなたの前に立ちはだかる「矛盾というカベ」を

解消させて、壁を切り開くという行為それを「勉強」と呼ぶのは、それが一番見える行為が「子育て」にあるからなのです。

商人が商品を安く売る。なぜ?それが勉強? 

勉は、赤ちゃんがその産道から産まれる姿を語源にしている漢字なのです。

商人は儲けなくては生活が成り立ちません。その儲けはどこにあるかというと商品の値段の中にあるわけです。その値段を値引きするすなわち

産道から子供が絞り出されるように出てくる様にそれは似ているのです。だから「べんきょうする」と呼んだのですよ。 

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勉強って何?その266

2019-02-16 13:30:23 | 日記

ここ数日の中で、朝に届けられる新聞の中の広告に、さる有名私立中学・高校の入試問題が、記憶では2回ほど、全面広告として掲載されている。

極めつけの凡人であるわたしには、さっぱり判らない。よく言うお手上げだ。がしかし、負け惜しみで言わせてもらうと、

  このような超難問と呼ばれるであろうパズルみたいな問題には、あらかじめ「解および答え」が用意されている

ということを、ここで、みなさんに知っておいてもらわねばならない。

 で、それがなんだ!という人がいるだろうから、そういう言いがかりをつける人にお訊ねしますが、現実の生活の場において、ならば、

 パズルのごとき、 「あらかじめ解答が用意されている問題」がどれくらいありますか?(「そんなもんあるか!」という影の声がする)

考えるまでもなく、そんな問題は、まず、ありえないし存在しないはずです。

 (解答があらかじめ用意されている問題を「閉じられた問題」と呼びます。他方で、世の中に起因する問題は開かれているのがふつうです。)

すべての問題事に「あらかじめに解答が用意されている」なんてことは絶対に!ありません。となると、我々はどうしたらいいでしょうか?

問題を問題でなくするためには答えを出すための「答えにたどり着くための解決法を創り出す」ことからはじめなければなりません。

そのためには、持てる能力を使って頭をフル回転させねばなりませんし、その能力とやら自体が不足しているので補う必要があるやもしれません。 

そんなこんなで「答えを出す解決法らしきもの」にたどり着いたとします。がしかし、ここでまたしても問題が発生です。といいますのも、

答えを出すための「データの不足」や「資料の不備」であります。すると、そのために「調べる」という行為の発生です。これが「問題!」なのですよ。

というのも、調べるには、手間と暇と経費がかかりますが、それ以上にやっかいなのが、じっとしていてはなにもはじまらないことことです。

 このことが、「予め解答が備わっている問題」との大いなる違いです。予め解が備わっているということであれば、隠されたその「解」がなにかを

探り当てることが「解・決」すなわち「問題解決」なのですから、ここまでで「はい、それまで」と落着するわけです。手間も暇も経費もさほどいらない、

とにかくじっとしているだけで済むからです。「椅子にじっと腰かけていて問題が解決するのでしたら」おそらく世の中はきわめて平穏でしょう。

このような「解答はあらかじめ用意された問題」それがいかに高度な知識を必要としていようが、そのようなパズル問題がずばずば解答できたから

問いって、ならば、世の中でどうなのか?どのような評価が下されるのでしょうか?「あれで学卒だって!!」となるんじゃありません?

以前紹介した問題を覚えていらっしゃるでしょうか。

 教室から5人出て行った。そのあと、8人入ってきた。教室には何人残っていますか?

この問題は「閉じられた問題」すなわち「答えを出すためのすべての条件がそろっている問題=パズル問題」ではありません。

この問題が必要とする「知識(学問の成果)」のレベルはきわめて初歩的です。算数という知識を持ち合わせていれば「解・決・法」がわかる。

だったら何が問題か?「真の問題のありか」それは「はじめに教室にいた人数がわからない」です。だったら、あなたはどうします?

 「この問題の答えは『わからない』がその答えである」と答えますか?もしこのように「答える」としたら、あなたは、じつは、この問題を

「閉じられた問題=予め解と答が用意されているパズルのような問題」すなわち入学試験のテスト用紙の上に掲載されているような問題ととらえて

、そのような目線でながめているのです。紙の上だけの問題ならばこそ、椅子に座ってじっとしているだけで済むじゃありませんか。

ですから、そうであればその返事としては「(じっとしているだけなので)わからないが答えである」となるわけです。

 

 この問題を見て、世間―子どもを通わせている人々は騒ぎました。そんな先生を非難糾弾しました。世間で騒ぎになり記事にもなりました。

どうして騒ぎ立てたのでしょうか。「学校のべんきょう=学習(STUDY)」つまり「学問の成果を熱心に教える場」こそが学校なのだ、という思い込み

によります。(梅棹先生の言葉を思い出してください。)

 この問題を子どもに出した先生のねらいはなんでしょうか。算数あるいは一次関数という数学という学問の成果を教えることなのでしょうか。

いいえ、この先生の真のねらいは、このような問題を片づけるには「よく学びよく遊ぶ」すなわち全人格的能力の行使が要るのだということを

児童たちに身に付けてもらいたいから出題したのです。

算数という知識を持っていると、この問題の解決法は誰でもすぐわかる(+3すればいい)。がしかし、はじめの人数がわかっていない。

よく学ぶことで、解決のために必要な知識(学問の成果)を身に付ける。そして、よく遊ぶ=あちらこちら歩き回って調べて、答えを出すための

「はじめにいた人数」を確定させはっきりさせると、あれ!答えがでる!!(答えは「わからない」ってそれ「答え??」)

  (遊という漢字の語源が「あちらこちら動き回る」。だから、子どもに遊びが必要で、。理由はたくさんの経験を持たせるという古人の知恵なのです)

それじゃどうします?「調べてみる」となる。ならば、手間と暇と経費などが要る。ありゃ!これ問題だ!!でもしなければわからない。

 有名私立の入試問題がいかに難問であっても、パズルのようにそれは「閉じられている問題」でしかありません。それに答えが出せたとしても、

それがすべてで、絶対評価がそれによってきまることはないのです。調べるという手間・暇・経費を惜しまないことをわすれてはいけないのです。

       学校は勉強するところではない。学校は勉強の仕方を学ぶ場である。

さだまさしさんの思い出に登場の先生のコトバがありましたけれど、がっこうは勉強(=WORK)を学習(=STUDY)する場なのです。

することは、ですから「WORK STUDY」なのです。では、WORK STUDYで何を身に付けるんでしょうか。

  勉強の仕方という「技(わざ)」であり、その「技」を思いどうりに扱うことのできる自分すなわち「なす術(すべ)」をもつために、なんどもくりかえして

する「まねて(学)・くりかえす(習)」という訓練をする場それが「学校」なのです。

いまでは死語になっているコトバに「実社会に出る」というのがあります。職=しごとに就くという意味でもある「実社会に出る」ですが、ならば、

それまで過ごしてきたであろう学校という社会は、だったら「ナニ社会!?」なんでしょうか。まさか、実の反対である「虚」ってことじゃないでしょうね。

「虚」ってニセモノってことになるじゃありませんか。学校の何がニセモノかというと、「模擬社会=ごっこの社会」なのですよ。

実社会では、真剣勝負なので、真剣という危ないものが飛び交うのですよ。で、大人たちは子供たちに、ごっこをもって様子を教えるわけよ。

それを担うのが学校なのよ。だから「人づくり」とその教育を呼んでいるわけよ。がしかし、いまそうじゃないわけよ。その原因は受験なのよ。

学校による・学校のための・学校の「学習」というのは、だから「STUDY STUDY」という単純作業的学習でしかないわけよ。

これで強さが身に付くわけないじゃない。じゃまた。

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勉強って何?その265

2019-02-15 18:10:29 | 日記

 学校で、児童・生徒・学生たちがすることは「学習(STUDY)」です。学校を管轄する文科省には、ですから、「学習指導要領」というマニュアルのような

ものが存在して、それに沿って運営と言いますか、教育が施されていますので、彼らのする事は学習なのです。

がしかし、ここで、とても不思議なことが起きます。それは何かというと、そんな学校を学校の外から眺めている人たち、つまり、実社会とやらに生活

しているお母さん・お父さんたちは、児童・生徒・学生たち=自分の子どもたちはそこで勉強していると、そのようなに受け止めております。

すると、どういうことが起きるか、子どもたちがしている学習(=STUDY)を、親たちはどういうわけか「学校のべんきょう」=勉強(WORK)とながめて

いるのです。つまり、現実に、子どもがしていることが「学習=STUDY」であるにもかかわらず、なぜか? その「学習」という行為を「勉強=WORK」と

してみているのです。これはきわめて不思議な現象で、ちょっと可笑しいとは思いませんか。

学習(=STUDY)と勉強(=WORK)は同じ行為ではありません。と言いますのも、

    「勉強」というコトバを耳にして、みなさんはどんなイメージを浮かべるか。おそらく、そのイメージはこのようなものじゃないでしょうか。

 勉強はすすんでするもので、させられるものではない。勉強は避けて通れないものである。何を勉強するかを決めるのは自分であって、だから

、どういう仕方でやるか全ては自分で決めるつまり自分が創らねばならない。

 あれ!この言い分ってどこかで聴いていませんか? そう、「創造的行為としての3ヵ条」にあるあの3ヵ条ー

自発性・モデル性・切実性であります。すきなことを勉強するのだけれど、どのようにすればいいかわからない。ならば、すすむことができないから、

そんな自分にイライラしてジレンマする。何とかしようとしてもがく。それでも好きな事なので投げ出したり、やめたりはしないで続ける。で、あるとき

パッと視界が開けて、思わず「やった!」と叫ぶ。うれしいと同時に、そこに自分に自信が持てている自分に気が付いて「よ~し!!」と微笑む。

自信がついた自分とは、それまでの自分ではない「新しい自分」がそこにいるのだ。つまり、あなたはあなた自身で「新しい自分を創造した」のだ。

 それに比べて、「学習」というコトバを耳にして、どんなイメージをいだくでしょうか。それが自分の好きな事なら喜んでするだろうけれど、嫌いというか

まったく関心も興味も持てないことになるとその意欲はどうなるだろうか。ダダ下がりになるはずだ。ましてや、やり方なんかは既に決まっていて、

そこに自分を活かす所なんかまったくないわけである。そうなると、ますます面白くなくなって、おそらく投げ出して止めることになるだろう。そのよい

見本が、子どもにあたえる「ぬり絵帳」である。この「ぬり絵帳」をその最後まできちんと塗ってある帳面を見た人はいるだろうか?たぶん、いない。

そのすべてが途中で、悲惨極まりないことになっているはずである。なぜ?どうしてそうなるか?自分が活かされていないからだ。だから、おもしろくない

し、つまらなくなってなげだすのだ。その反対に、画用紙とクレヨンで、好きに書いてというと、子どもたち止めろというまで飽きることなく書いている。

なぜ?自分が活かされている、自分がしている、自分で工夫してやっている・・・・だからやめたりしないのだ。

いまの学校のべんきょうは受験べんきょうになっています。学校のための学習であって、そのための「ぬり絵帳」のような学習を児童・生徒・学生

たちにさせているのであります。ですから、梅棹先生が指摘されていますように、「ほんとうにおしえてもらいたいことはしちっともおしえていない」

のです。子どもたちが教えてほしいものそれは「学問の成果という『ぬり絵帳』」ではありません。教えてほしいものそれは「勉強の仕方」すなわち

「WORK STUDY」なのであります。それは「いい成績をとるための特殊なテクニック」ではありません。それは、自分が自分らしく強く生活する

ための「人が備えておかねばならない能力」なのであります。それが目的であればこそ「人づくり教育」となるのであります。

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勉強って何?その264

2019-02-08 23:20:24 | 日記

リンカーン大統領はいいました。

 人民の人民による人民のための政治

いまの学校がやっている「事(教育というらしい)」って、もしかして?

学校の学校による学校のための学習

であって、人のためのようにはどうしても思えないのです。受験べんきょうで人づくりができるのでしょうか。

わが日本国では、幼稚園児・小学生を「児童」と称します。その児童がしなければならないことは、とにかく「おぼえる(という意味の『身に付ける』)」こと

であります。そのためのやり方でもっとも有効なのが「ドリル方式(公文式ともいう)」です。この最大の特徴が「反復」つまり「くりかえす(習)」です。

 子どもたちを「児童」と呼ぶ教育を「初等教育」と申します。初等教育では、とにかく「まずは覚えておく」という能力の向上・練磨がその目的となります。

その理由は、なんといっても、知っているのと知らないとのちがいです。よく言うじゃないですか。「知らないと、話にならない」って。

この種の教育はどちらかというと、問答無用とにかく覚えるというやり方がとられます。その典型が「ならぬものはならぬものです」という会津藩の

「什の掟」に代表される「詰め込み型」です。それには理由があって、児童たちに物事を判断するための基準すなわち物差しについて生まれつき

のもちあわせがないからです。(物差しがなくてどうやって図ることが出来るでしょう)つまり、基準という物差しというものは生まれつに備わっている

のではなく、初等教育によってもたらされる、ならば、誰がどこでとなって、その役目こそ「学校」になります。

  初等教育は、いわば「基礎・基本の習得」に相当しますから、どちらかというと「枠にはめる教育」になります。それは、学校を出た新社会人

が入社して受ける「新入社員教育」でもおなじです。その教育においては個性なんてものはなく、ほとんどは「枠にはめる教育」ですから、

極論すると、一字一句まちがえずに覚えるような訓練になるです。がしかし、そんな新人が成長するとどうでしょうか。いつまでも、言われたこと

を素直にやっていればいいでしょうか。いいえ、それでは成長がないじゃないですか。となれば、どうしたらいいでしょうか?それまでの

「枠はめ型教育」から抜け出さねばなりません。そのような「これまでの枠をやぶる教育」を「自己啓発」といいます。そんな啓発のはじめの一歩が

「わかる=理解する」であります。

 子どもたちを「生徒」と呼ぶ教育を「中等・高等教育」と申します。中等・高等教育では、初等教育を受けて、「わかる=理解する」という能力

を身に付けるための学習という訓練がなされます。「理・解」って何でしょうか。どうすれば理解できる!!のでしょう。

わかる=理解するには、「理解とは何か、どうすれば理解したことになるか」が理解されねばなりません。そこで、「理・解」という漢字に着目です。

「理=すじめをつけ区切りをいれる」・「解=バラバラに分ける」という語源から、言葉としての意味は「すじめをつけバラバラに区切りをつける」行為

であることがわかります。そこで、思い出すのが、「どこがわからないのか、そのわからないところをかんがえてみて」と言われて、「え~と、・・・・」と

話していると、突然こうなるときがありません? 「あ!わかった!」と。これが「理・解」なのですよ。これが「わかる」ということなのです。どうして?

「バラバラにしてみたら、判らないところが『判った!』から」なのです。このような行為を何ていうか知っていますか?「考える」といいます。

 中等・高等教育つまり中学校・高等学校においてなされる教育の中枢にあるのが「考えるという能力」を身に付けることなのです。がしかし、

受験にすっぽり浸かっている今のすがたはどうでしょうか。そこにあるのは、

 どういうことをおしえすぎて、どういう点をおしえおしみするか。かんたんにいえば、知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまり

おしえてくれないのである。そのことは、中学・高校ばかりか、ざんねんながらが学問の府であるところの大学においても、おなじである。

しばしば、「大学は学問をおしえるところではない。学問のしかたをおしえるところだ」ということがおわれる。しかし、じっさいはやはり、

大学においても、学問の方法をおしえるよりも、学問の成果をおしえるほうに熱心である。

学問の成果には「考える必要がない」のであります。単純に記憶するだけで済むからです。成果という結論はそれだけで完結していますから

、かんがえるという余地はありませんから、ひたすら暗記=おぼえるだけで済んでしまいます。あれ!これじゃ、初等教育がするレベルと同じ

じゃないですか!これではたして成長っていえるんでしょうか?

 わかった!とおもっているあなた!?それじゃ伺いますが、これで終わりでいいでしょうか?

いいえ、そうではありません。この段階では、成す術(すべ)は持ち合わせましたけれど、その術を操れる技量を持ち合わせていないために、

せっかくの術は宝の持ち腐れ状態になるじゃありませんか。こうなると、創造=実現する=成すことはできないじゃありませんか?

ですから、そこには、もうワンステップ上の段階があるのです。それは「マスターしている=身に付いている」なのです。それも、おぼえている

というレベルではなく、いつでも・どんな時でも・自分の思いどうりにやれるという意味における「身に付いている」なのです。

 梅棹先生は言っています。「大学は学問をおしえるところではない学問のしかたをおしえるところだ。」と。大学生がすること、それこそが

「身に付ける」なのです。大学の4年間とはそのような意味から言いますと、「勉強(=仕事)の仕方・方法・やり方」を身に付けるための年月

なのです。

 その昔に、こんな歌がありました。「スーダラ節」です。その歌詞の最後はというと、「判っちゃいるけどやめられねえ」です。

そうなんですよ。成す為の術は十分わかっているんですけれども、なぜか実現させる(=成す)ことができないのです。その原因は?

術についてしっかり身に付いていないからなのですよ。わかるかなあ~。じゃまた。

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