義務それは大人に課せられたものですが、別の意味において、すなわち、子どもたちが人として生活していくであろうために、どうしても身に付けて
おかねばならないという意味での、それは「義務=ねばならないもの」だと、わたしはおもいます。すなわち、人であるために、社会人であるために、
いわゆる「一般教養」として必要かつ十分なる条件であり、必須科目として最低限身に付けておかねばならないのであります。
それが「義務教育」という訓練期間である「小学校・中学校に通学する」という意義であります。
成すとは、自分の思い描いている事柄が実現される(=手ごたえを感じる)であります。手を使い足を使い、頭を使って、見えるように
、掴み取れるように、触れるように、そして、良い悪いという成果を超えた思い出として残るものとして自分自身の内に刻み込まれるのです。
そうなったとき、人は、もっとも充実と満足を得ることができるのであり、「生きていてよかった!」という感謝の気持ちを捧げることになる。
成す=実現する。そのためには「わざ(技)」を磨き「すべ(術)」として身に付けねばなりません。技と術すなわち技術(=テクニック)をいいます。
ならば、生まれつきそのような「わざ(技)」を私たちは持って産まれたでしょうか。答えはいいえであります。そのすべては、学習によって歳月をかけて
身に付けたモノであります。だから、教育なのであり、学校はそのためにあるわけです。がしかし、いまなされている学校の教育はそれとは相当
かけ離れたところにある、それを半世紀前に指摘されたのが梅棹忠夫先生であります。
学校では、ものごとをおしえすぎるといった。それとまったく矛盾するようだが、いっぽうでは、がっこうというものは、ひどく「おしえおしみ」をするところ
でもある。ある点では、ほんとうにおしえてもらいたいことを、ちっともおしえてくれないのである。
子どもたちが携えているであろう「好奇心」という頭をつくるための知的エンジンは、100人いれば100そんざいします。興味や関心は各人各様
がふつうです。好奇心からくる興味や関心が違うと、それに引きずられるように、いわゆる「知識」もまた
各人各様になります。がしかし、ここで注目すべきは、その知識を獲得しようとして、頭を使うときはどうなんでしょうか。各人各様?いいえ、みな同じ
ように「頭を使う」のです。つまり、「頭を使う=知識を獲得するための技術(という知識)」には個性は無関係なのです。
ならば、「知識を獲得するための技術という知識」とはいかなるものでしょうか。みなさんよくご存じの「よみ・かき・かんがえる」という知的動作であります。
そこで、じっと見つめてください。それって、のどから手が出るぐらい欲しいものじゃありません。どうしても身に付けておきたいものじゃありません。
どんなことをしても自分のものにしたいものじゃありません。なぜって? であることをあなたは身をもってわかっているからです。
物知り=頭が良い、テレビのクイズ番組ならそういえるでしょうけれど、それがどうしたっておもいません?それだけのことじゃないですか!
生活における様々な問題に、あらかじめ「解答集」がついていますか?人生相談の「答え」があなたをたすけてくれますか?
答えはすべて自分自身で創造するしかないのであります。そのために「技と術」を身に付ける義務があなたには課せられているのです。
そのことを、あなたはこれまでの生活のなかで、繰り返し痛いほど味わってきましたから、その切実さはかぎりなくおおきものがあるはずです。