出目金が行く

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

勉強って何?その235

2018-07-25 17:59:48 | 日記

義務それは大人に課せられたものですが、別の意味において、すなわち、子どもたちが人として生活していくであろうために、どうしても身に付けて

おかねばならないという意味での、それは「義務=ねばならないもの」だと、わたしはおもいます。すなわち、人であるために、社会人であるために、

いわゆる「一般教養」として必要かつ十分なる条件であり、必須科目として最低限身に付けておかねばならないのであります。

それが「義務教育」という訓練期間である「小学校・中学校に通学する」という意義であります。

 成すとは、自分の思い描いている事柄が実現される(=手ごたえを感じる)であります。手を使い足を使い、頭を使って、見えるように

、掴み取れるように、触れるように、そして、良い悪いという成果を超えた思い出として残るものとして自分自身の内に刻み込まれるのです。

そうなったとき、人は、もっとも充実と満足を得ることができるのであり、「生きていてよかった!」という感謝の気持ちを捧げることになる。

 成す=実現する。そのためには「わざ(技)」を磨き「すべ(術)」として身に付けねばなりません。技と術すなわち技術(=テクニック)をいいます。

ならば、生まれつきそのような「わざ(技)」を私たちは持って産まれたでしょうか。答えはいいえであります。そのすべては、学習によって歳月をかけて

身に付けたモノであります。だから、教育なのであり、学校はそのためにあるわけです。がしかし、いまなされている学校の教育はそれとは相当

かけ離れたところにある、それを半世紀前に指摘されたのが梅棹忠夫先生であります。

 学校では、ものごとをおしえすぎるといった。それとまったく矛盾するようだが、いっぽうでは、がっこうというものは、ひどく「おしえおしみ」をするところ

でもある。ある点では、ほんとうにおしえてもらいたいことを、ちっともおしえてくれないのである。

子どもたちが携えているであろう「好奇心」という頭をつくるための知的エンジンは、100人いれば100そんざいします。興味や関心は各人各様

がふつうです。好奇心からくる興味や関心が違うと、それに引きずられるように、いわゆる「知識」もまた

各人各様になります。がしかし、ここで注目すべきは、その知識を獲得しようとして、頭を使うときはどうなんでしょうか。各人各様?いいえ、みな同じ

ように「頭を使う」のです。つまり、「頭を使う=知識を獲得するための技術(という知識)」には個性は無関係なのです。

ならば、「知識を獲得するための技術という知識」とはいかなるものでしょうか。みなさんよくご存じの「よみ・かき・かんがえる」という知的動作であります。

そこで、じっと見つめてください。それって、のどから手が出るぐらい欲しいものじゃありません。どうしても身に付けておきたいものじゃありません。

どんなことをしても自分のものにしたいものじゃありません。なぜって? であることをあなたは身をもってわかっているからです。

 物知り=頭が良い、テレビのクイズ番組ならそういえるでしょうけれど、それがどうしたっておもいません?それだけのことじゃないですか!

生活における様々な問題に、あらかじめ「解答集」がついていますか?人生相談の「答え」があなたをたすけてくれますか?

答えはすべて自分自身で創造するしかないのであります。そのために「技と術」を身に付ける義務があなたには課せられているのです。

そのことを、あなたはこれまでの生活のなかで、繰り返し痛いほど味わってきましたから、その切実さはかぎりなくおおきものがあるはずです。

 

 

 

  

  

   

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勉強って何?その234

2018-07-24 05:52:26 | 日記

  心技体という言葉がある。

その「体」はというと、ある意味で、自分とはほぼ係ることなく、勝手に成長する。いわゆる「大きくなる」ので、ある日をもって、

「(ずいぶん・すっかり)大人らしくなったじゃないか!」といわれるようになる。なるほど、たしかに、何時からとはっきりしないけれど、

子どもの頃のようなはしゃぎ方をしなくなり、ずいぶん・すっかり『おとなしく』なったようで、だからであろう、そのような素振りをもって、

「大人しく」すなわち「大人らしく」とみなされるようになり、「大人である」と認識されはじめることになる。

 がしかし、中には、体は大人であっても、その「心」となると、極めて「幼稚」な奴がいるのも事実で、はて?どうしたものか?

その心と、その体と、それぞれの成長が同調していないようにみえるのである。一見すると、大人のような奴にみえるけれど、

触れてみると、とても「大人?!」と思えないような奴がいて、近年そういう輩が異常繁殖しているようにみえるのだ。

  ならば、どうしてそうなるのか?つらつら見渡してみると、どうしても「教育」という所に目線・視線がいかざるをえないのだ。

で、思ったのは、心技体というこの言葉の並びが、そのヒントじゃないかとおもいあたったのであります。・・・・だから「教育」が大切!

というのは、心と体を同調させるには、そこに「わざ(技)」が必要で、その「わざ(技)」を身に付けるための訓練期間それが「教育」

の全てであって、それによって身に付いた「すべ(術)」があればこそ、その体と同調できるようになって、思い描くように実現できる

のであり、それを「成す術」とわれわれよんでいるわけだ。だからもし、そのような「すべ(術)」の持ち合わせがないと、実現不可能

になるわけで、そういう状況をもって「成す術がない(手も足も出ない・お手上げ)」ということになるわけだ。

ならば、いまなされている「教育」はどうなのだろうか?その「わざ(技)」をきっちり訓練して、すべてのこどもたちがしっかり「すべ(術)」と

して身に付けて、そして、大人の世界である実社会へとおくりだしているだろうか?

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勉強って何?その233

2018-07-12 06:06:33 | 日記

うそをついてはいけません。 人には優しくしましょう。 交通ルールをまもりましょう。

子どもの頃に唱える「標語」の、どれ一つとっても、その約束がまもられることはありません。 無邪気といえばそれで一件落着なんでしょうが、

不可解なのは、守れもしないそのような「標語の唱和」を、ではなぜ?おとなたちは、こどもたちにさせるんでしょうか?

かなり、自己満足というか、独りよがりとでも言いますか、勝手な言い分を、相当無責任に放言している「大人」どもの、その心根には呆れます。

 子供は、大人が想像するよりはるかに、賢いのであります。大人のする仕草そのすべてを見て知っています。それを「学習する」といいます。

この「学習」という行為は、人類が誕生した時からあって、未来永劫ひきつがれていくのであります。理由はすこぶる簡単かつ明瞭です。

人は、生まれつきそのような能力を備えて産まれていないのです。それらの「技術というか能力」そのすべてが後になされる「教育(という名の学習)」

によって身に付くものだからであります。そうしないと「生きる・活きる」つまり命が保てないからであります。

子どもは自身の中に、学習するぞ!という心根をもちあわせています。それはうまれたときにすでにみについているもののひとつです。

赤ん坊が、手当たり次第に、何でも口に入れようとする仕草―それは「生きるため」という本能という能力から来ます。そんな能力のひとつが

誰もが持ち合わせている「好奇心」であります。その漢字が示す通り「好きな事」であります。「好きこそ上手の始まり」なのであり、みなさんがもっとも

苦手とする「継続は力なり」の最大の功労者こそが「好きな事」であります。そうしますと、よくよく見れば、この「好きな事」は、そこに集う子どもの頭数

だけ存在するとなります。こうなると、個性の尊重!?ぜったい無理になります。それじゃどうしましょうか?

そこで登場するのが、「技術」と呼ばれるまったく個性をもたない「能力」であります。

この「技術」を私たちはこう呼んでいます。「頭を使う」と。

心技体とあって、生活するとはまさしく、体で生きて、心で活きることであります。その体と心を合体させる道具が「技」であり、人がそれを用いるとき

、その「技」を「術」と呼ぶのであります。「成す術がない」っていうじゃないですか!!

「知的生産の技術・梅棹忠夫著。岩波新書」の宣伝でした。おあとがよろしいようで、じゃまた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勉強って何?その232

2018-07-10 06:14:48 | 日記

    「親が本を読んで勉強する」

そうすると、その子どもが勉強するようになる。

なんてことを、口走る若き先鋭の学者先生が、どこかにそう書いていた。その人の印した「勉強の哲学」とかいう、意味不明の表題が付いた「本」を、

書店の店頭にて手に取ってみたが、2・3ページめくって、そしてやめた。

なんでも、東大生と京大生にバカ受けで、よく読まれているという触れ込みが帯にあって、だとしたら、すごいだろうてなわけで、手にしたのだが、

東大生・京大生でない私のような「一般人・普通の人・掃いて捨てるほどいるような凡人」には、むずかしいを通り越して「ちんぷんかんぷん」びっくりポン

なのでありました。なるほど、これは『きもい!!』、気持ち悪い・不気味さを感じる、じめじめした今日の朝の不快感のように。

  流行というものは、その行き着く先は決まっております。「何時か廃る」すなわち世の中から消えてなくなるのであります。

 今日、その流行の中に、「べんきょう」という言葉を投げ込みたいと思います。いまこの言葉は、ほぼ「学ぶ」すなわち「学習」という言葉と同じ意味で

世の中に出回って、そして、はびこっています。ここで、その姿を一つ一つ取り上げませんけれど、辺りを見回せば、すぐ見つかるほど、そこらじゅうに

ころがっているわけです。その原因が、「学校」との結びつきです。・・・・・だから「べんきょう=学習」とおもいこまされるのであります。

本を読むことがべんきょうではありません。字を書くことも勉強ではありません。机に向かうだけがべんきょうではありません。我慢することがべんきょう

って、いったいどこのどいつがそんなこと決めたんですか!がんばることや努力することと勉強とは親戚関係はありません。勉強には、そんなものは

まったく不必要です。頭の良し悪しも勉強とは親戚ではありません。勉強と親戚関係にあるのは「自分」すなわち「今、この時点で、そこに生活する」

「あなた自身」というそんざいだけなのであります。なぜ?考えてごらんなさい、勉強という何やらようわからない行為を実現つまり勉強という行為に

形を与えられるのは、あなたの行いがあればこそじゃありませんか。ちがいますか!

言葉としての「べんきょう」はそこらへんにゴロゴロころがっていますけれど、そこに「形」がありますか?見えますか?手に取れますか?

世の中にあるのは、そこに暮らしている、生活している人の数だけの勉強であります。そんな市井の人々は各々に「哲学」をもっています。

哲学って、むずかしそうに言いますけれど、優しい言葉でいうと「生き様」のことです。

 アカデミックという孔雀の羽に、私たちビックリしていますけれど、もうそろそろ、賢くなりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勉強って何・その231

2018-07-06 15:23:09 | 日記

まさか!今日だったとは!!!!!

死刑執行がなされた。

テレビが一斉にとりあげている。そんな中で、気になったのが、死刑囚が「高学歴」だ、という部分だ。

たしかに、まじめな・大人しい・いわゆる世間でいう「良い子」が次々と、まるでとりつかれたように入信している現象を目の当たりにして、当時、

世間・巷・世の中の普通の人たちはいったいどうなっているの?不安に感じたはずで、その不安はまさに的中してしまったわけで、それらの犯罪を

主導した彼らが裁きを受けるのは当然だろう。だから、特段驚くことは何もない。

そこで、どうして、これだけの高学歴の、いわゆる世間でいう「頭のいい子」たちが、このようなカルト教団に入信してしまうのだろうか?

わたしは思う。これこそが「受験べんきょう」という教育の「闇」であり「病み」なのだと。

麻原と名乗る人物がいて、何やらもごもご怪しい託宣を繰り広げては、そこには人生の答えがあるかのように振る舞う。すると、受験べんきょう

という思考回路からできている「良い子たち」の事だ、そこに「答えあり」と受け止めるのだ。そこでの、彼らの頭の中はどういうことになっているのか。

それはこういうことである。

すべての・どんな問題にも、必ず答えは用意されていると信じることから始まるのだ。子ども頃から、「あらかじめ解答が用意された問題ばかり」

をしてきて、どれだけ難しくとも、どこかに必ず「解と答」は用意されている(=備え付いている)と思うようになる。つまり、誰かがあらかじめ用意

してくれていればこそ、だとしたら、どういうことになるか?

どこかにあるに違いないと血眼で探そうとするに違いない。がしかし、そんなものがあるはずがないのだけれど、それを見透かすかのように、

麻原という受験落ちこぼれの呪縛に引っかかるのであります。

 もうお分かりの事だと思う。それがどれだけささやかな問題であれ、いわゆる社会問題であれ、存在する問題すべてには「予めの解答はない」

という真実である。ならば、どうする?解も答も「自分で創り出す」すなわち「創造する」しかないのである。がしかし、受験べんきょうという偏った

「べんきょう」しかしていない彼らには、解も答もどこかに隠されていると勘違いをするのだ。

 そこにカルトへの入信の扉が潜んでいるのである。

  本日、そんな哀れな彼らが、旅立っていた。惜別の言葉として「よかったね、これでほっとできるんじゃない」と投げかけることにしよう。

彼らもまた、今はやりの「じゅけんべんきょう」の犠牲者のように思えるんですが…それにしても惨めだね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする