ここ数日の中で、朝に届けられる新聞の中の広告に、さる有名私立中学・高校の入試問題が、記憶では2回ほど、全面広告として掲載されている。
極めつけの凡人であるわたしには、さっぱり判らない。よく言うお手上げだ。がしかし、負け惜しみで言わせてもらうと、
このような超難問と呼ばれるであろうパズルみたいな問題には、あらかじめ「解および答え」が用意されている
ということを、ここで、みなさんに知っておいてもらわねばならない。
で、それがなんだ!という人がいるだろうから、そういう言いがかりをつける人にお訊ねしますが、現実の生活の場において、ならば、
パズルのごとき、 「あらかじめ解答が用意されている問題」がどれくらいありますか?(「そんなもんあるか!」という影の声がする)
考えるまでもなく、そんな問題は、まず、ありえないし存在しないはずです。
(解答があらかじめ用意されている問題を「閉じられた問題」と呼びます。他方で、世の中に起因する問題は開かれているのがふつうです。)
すべての問題事に「あらかじめに解答が用意されている」なんてことは絶対に!ありません。となると、我々はどうしたらいいでしょうか?
問題を問題でなくするためには答えを出すための「答えにたどり着くための解決法を創り出す」ことからはじめなければなりません。
そのためには、持てる能力を使って頭をフル回転させねばなりませんし、その能力とやら自体が不足しているので補う必要があるやもしれません。
そんなこんなで「答えを出す解決法らしきもの」にたどり着いたとします。がしかし、ここでまたしても問題が発生です。といいますのも、
答えを出すための「データの不足」や「資料の不備」であります。すると、そのために「調べる」という行為の発生です。これが「問題!」なのですよ。
というのも、調べるには、手間と暇と経費がかかりますが、それ以上にやっかいなのが、じっとしていてはなにもはじまらないことことです。
このことが、「予め解答が備わっている問題」との大いなる違いです。予め解が備わっているということであれば、隠されたその「解」がなにかを
探り当てることが「解・決」すなわち「問題解決」なのですから、ここまでで「はい、それまで」と落着するわけです。手間も暇も経費もさほどいらない、
とにかくじっとしているだけで済むからです。「椅子にじっと腰かけていて問題が解決するのでしたら」おそらく世の中はきわめて平穏でしょう。
このような「解答はあらかじめ用意された問題」それがいかに高度な知識を必要としていようが、そのようなパズル問題がずばずば解答できたから
問いって、ならば、世の中でどうなのか?どのような評価が下されるのでしょうか?「あれで学卒だって!!」となるんじゃありません?
以前紹介した問題を覚えていらっしゃるでしょうか。
教室から5人出て行った。そのあと、8人入ってきた。教室には何人残っていますか?
この問題は「閉じられた問題」すなわち「答えを出すためのすべての条件がそろっている問題=パズル問題」ではありません。
この問題が必要とする「知識(学問の成果)」のレベルはきわめて初歩的です。算数という知識を持ち合わせていれば「解・決・法」がわかる。
だったら何が問題か?「真の問題のありか」それは「はじめに教室にいた人数がわからない」です。だったら、あなたはどうします?
「この問題の答えは『わからない』がその答えである」と答えますか?もしこのように「答える」としたら、あなたは、じつは、この問題を
「閉じられた問題=予め解と答が用意されているパズルのような問題」すなわち入学試験のテスト用紙の上に掲載されているような問題ととらえて
、そのような目線でながめているのです。紙の上だけの問題ならばこそ、椅子に座ってじっとしているだけで済むじゃありませんか。
ですから、そうであればその返事としては「(じっとしているだけなので)わからないが答えである」となるわけです。
この問題を見て、世間―子どもを通わせている人々は騒ぎました。そんな先生を非難糾弾しました。世間で騒ぎになり記事にもなりました。
どうして騒ぎ立てたのでしょうか。「学校のべんきょう=学習(STUDY)」つまり「学問の成果を熱心に教える場」こそが学校なのだ、という思い込み
によります。(梅棹先生の言葉を思い出してください。)
この問題を子どもに出した先生のねらいはなんでしょうか。算数あるいは一次関数という数学という学問の成果を教えることなのでしょうか。
いいえ、この先生の真のねらいは、このような問題を片づけるには「よく学びよく遊ぶ」すなわち全人格的能力の行使が要るのだということを
児童たちに身に付けてもらいたいから出題したのです。
算数という知識を持っていると、この問題の解決法は誰でもすぐわかる(+3すればいい)。がしかし、はじめの人数がわかっていない。
よく学ぶことで、解決のために必要な知識(学問の成果)を身に付ける。そして、よく遊ぶ=あちらこちら歩き回って調べて、答えを出すための
「はじめにいた人数」を確定させはっきりさせると、あれ!答えがでる!!(答えは「わからない」ってそれ「答え??」)
(遊という漢字の語源が「あちらこちら動き回る」。だから、子どもに遊びが必要で、。理由はたくさんの経験を持たせるという古人の知恵なのです)
それじゃどうします?「調べてみる」となる。ならば、手間と暇と経費などが要る。ありゃ!これ問題だ!!でもしなければわからない。
有名私立の入試問題がいかに難問であっても、パズルのようにそれは「閉じられている問題」でしかありません。それに答えが出せたとしても、
それがすべてで、絶対評価がそれによってきまることはないのです。調べるという手間・暇・経費を惜しまないことをわすれてはいけないのです。
学校は勉強するところではない。学校は勉強の仕方を学ぶ場である。
さだまさしさんの思い出に登場の先生のコトバがありましたけれど、がっこうは勉強(=WORK)を学習(=STUDY)する場なのです。
することは、ですから「WORK STUDY」なのです。では、WORK STUDYで何を身に付けるんでしょうか。
勉強の仕方という「技(わざ)」であり、その「技」を思いどうりに扱うことのできる自分すなわち「なす術(すべ)」をもつために、なんどもくりかえして
する「まねて(学)・くりかえす(習)」という訓練をする場それが「学校」なのです。
いまでは死語になっているコトバに「実社会に出る」というのがあります。職=しごとに就くという意味でもある「実社会に出る」ですが、ならば、
それまで過ごしてきたであろう学校という社会は、だったら「ナニ社会!?」なんでしょうか。まさか、実の反対である「虚」ってことじゃないでしょうね。
「虚」ってニセモノってことになるじゃありませんか。学校の何がニセモノかというと、「模擬社会=ごっこの社会」なのですよ。
実社会では、真剣勝負なので、真剣という危ないものが飛び交うのですよ。で、大人たちは子供たちに、ごっこをもって様子を教えるわけよ。
それを担うのが学校なのよ。だから「人づくり」とその教育を呼んでいるわけよ。がしかし、いまそうじゃないわけよ。その原因は受験なのよ。
学校による・学校のための・学校の「学習」というのは、だから「STUDY STUDY」という単純作業的学習でしかないわけよ。
これで強さが身に付くわけないじゃない。じゃまた。