管理人は近代史-特に京都府下での軍事扶助・軍事援護など-を専攻しているが、ここ1年ばかりある事情で慰安婦に関する史料や文献に取り組んでいる。
それらを調べていて分かったことの1つに、慰安婦問題はかなり以前から指摘されていた、ということである。
特に、文化史・風俗史、あるいは遊廓・遊女、貸座敷・娼妓に関する史料や文献に見受けられる。
千田夏光が「従軍慰安婦」という呼称を使った著書が1973年、吉見義明による史料の発見・発表が1992年であるが、それらよりもずっと以前から指摘されていたということである。
例えば、北大路健『遊女-その歴史と哀歌』(新人物往来社 1964年1月15日)、これは1964年の著書であるが、ここには下記のような文がある。
「 昭和六年、満州事変をきっかけとして、いわゆる大東亜戦争に突入する時期に、娼妓は、従軍女婦として、大量に戦地に送られ、明日知れぬ命の一瞬のかがやきを確認することで、ようやく死の恐怖から免れていた兵隊たちのために、身を削らされたのである。
満州にも、中国大陸にも、南方の島々にも、従軍女婦「大和撫子」はいた。北満の「兵隊屋」と称せられる娼家の女たちは、死ねば、薄い板棺に入れられて、氷雪の丘のあたりに放置された。俗称「狼」といわれる野犬の群が、その死屍によって餓えをしのぐ。いわゆる「狼葬」がそれであった。
数知れぬ娼女たちが、異郷に骨をさらしたし、敗戦という時点で、家庭の妻や娘の貞操の防波堤として、狩り出されたのも彼女たちであった。-同性から、「女の面汚し」とさげすまれながら、彼女たちは、その人たちのために、身を張って戦勝者の蹂躙から護ってやったのである。」(328頁)
満州にも、中国大陸にも、南方の島々にも、従軍女婦「大和撫子」はいた。北満の「兵隊屋」と称せられる娼家の女たちは、死ねば、薄い板棺に入れられて、氷雪の丘のあたりに放置された。俗称「狼」といわれる野犬の群が、その死屍によって餓えをしのぐ。いわゆる「狼葬」がそれであった。
数知れぬ娼女たちが、異郷に骨をさらしたし、敗戦という時点で、家庭の妻や娘の貞操の防波堤として、狩り出されたのも彼女たちであった。-同性から、「女の面汚し」とさげすまれながら、彼女たちは、その人たちのために、身を張って戦勝者の蹂躙から護ってやったのである。」(328頁)
これらのようなものは探せばいくらか出てくる。このような側面からの慰安婦問題の整理も重要であると思い、不定期になるがこれから何度かに分けて紹介していこうと思う。