Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

写真と記号

2007年09月30日 | Weblog
記号とは何か?

「いかにイメージは作動しているのか」という問いを立てたとき、おそらく記号論が最も有効なアプローチとなるかもしれません。ということで、今回は記号の話を中心に進めます。

記号とは何か? ひとまずは何かを代替・代理したもの、印、表現と定義しておきましょう。身振り、動作、音声から、映像、言葉、サインまで、すべて記号と見なすことができます。記号の最小の構成要素は、《意味されるもの(シニフィエ)》と《意味するもの(シニフィオン)》です。《意味されるもの》は前述した「何か」にあたり、とりあえずは“現実の対象に関わること”(素材、内容)とみなすことができます。《意味するもの》は記号そのもの、表現するもの、印そのものとなります。

さて、私たち人類にとって、表現(記号)の基盤を成しているのが言葉です。身振りや動作、音楽、映像さえも言葉に還元されることによって、《意味されるもの》となります。したがって、一般に記号の役割とは、《意味されるもの(情報)》を伝えることとされています。情報の伝達手段としての言葉-記号。

しかし、人類にとってのコミュニケーション・ツールである言葉は、きわめて独特な機能をもっています。例えば、情報の伝達という意味ならば、人類に限らず、多くの生き物たちがその手段を有しています。言語学者のヴァンベニストは、ミツバチは自分の見たことを伝えることはできるが、自分に伝えられたことをさらに伝えることはできない、ゆえにミツバチは言葉を持っていることにはならないと言っています。つまり、言葉の最大の特徴は、自分が見ていないにもかかわらず、伝えられたことをさらに第三者に伝えることができるところにあるのです。いわゆる又聞き、間接話法こそ、言葉の最大の特徴と言えます。

言葉が又聞き、間接話法としての機能を持っているならば、そこにどのような事態が起こってくるのでしょうか。「伝達ゲーム」というのをご存知だと思いますが、一つの情報(意味されるもの)が何人もの人を経ることによって、最初の情報(意味)とはまったく違うものになっていくゲームです。つまり、又聞き、間接話法による情報伝達には、必ず情報の過剰と欠如があるということです。情報理論ではこれをノイズと称し、ノイズを排除することが理想のコミュニケーションとみなされます。しかし、言葉とは、そのノイズにこそ本質があるのです。

情報の過剰と欠如が冗長性(解釈の余地)を生み出します。つまり、言葉における《意味されるもの》とは、最初の情報(現実の対象に関わること)ではなくて、《意味するもの》=すでに解釈された情報(意味)なのです。したがって、言葉における《意味されるもの》は《意味するもの》が無限に増殖する《意味するもの》の連鎖にほかなりません。記号の記号、シニフィオンの連鎖。

記号を考える上で重要なことは、ある記号が何を意味するかを知る前に、その記号が他のどんな記号と関わり、他のどんな記号がそれに加わって、記号の組織網(記号の体制)を形成することになるのか、それが重要な問題となるでしょう。

人類・記号・芸術

さて芸術(文化)もまた記号であり、記号を作り出す(生産)行為と言えます。慧眼な生徒諸君はすでに、記号(言葉)の間接話法の機能こそが、記憶を、文化を生み出したのではないかと察しているでしょう。そうです、間接話法に潜んでいるのは、時間的なズレにほかなりません。そのズレこそがシニフィオンの連鎖としての記憶を形成したことは明らかなことのように思えます(とするならば、私たちの記憶・記録の体制は記号の体制と密接な関係にあることが分かります。これについてはいずれ、写真-記憶と記録の問題で再度、お話をしたいと思います)。

ところで、人類は何故に、どんな必然性があって、記号を生み出したのでしょうか。もちろん、確かなことは分かりません。言葉が最初の記号なのか、それともイメージ(例えば、洞窟壁画、刺青など)と呼ばれるものなのか、あるいは身振りのようなものなのか……。しかし、動物、あるいは類人猿と人類を分かつものが記号の創造にあるのではないかと推察することはできます。

人類学ではしばしば、人類が道具をもったことを、動物や類人猿から人類を分かつメルクマールとしています。いわゆる、ホモ・ファーベル(作るヒト)をもって人類の誕生とみなされています。しかし、人類以外にも道具を使う動物はよく知られています。チンパンジーはその代表でしょう。それでも道具をもったことには、大きな意味があると思われます。

道具とは何でしょうか。まず道具とはヒトの身体的能力の延長と考えられます。手が発揮する力の延長、筋肉の運動の延長。その意味で道具は身体と密接な(直接的)関係を有しています(その関係性における道具と機械の違い)が、身体的能力を代替・代理したものと考えられます。道具もまた記号のようなものととらえることが可能でしょう(道具、機械、電子機械を記号論的に考察してみることも一計かもしれません)。

さて、道具を持つことは、その道具によって未来における生産物(加工物)-いまだ存在しないものを想定することです。つまりホモ・ファーベル(作るヒト)とは、現在時において、未来に分岐する時間を獲得したヒトなのです。

フランスの文学者ジョルジュ・バタイユは、その著『ラスコーの壁画』の中で、ホモ・ファーベルはいまだ十分にホモ・サピエンス(知恵のヒト)ではないと言っています。つまりわれわれ人類と同類ではないと。バタイユは「芸術(洞窟壁画)」を有したことをもって、われわれと同類の人類とみなしています。

バタイユによれば、ヒトはいまだ存在しないものを想定する未来の時間を獲得したことで、すでに存在したものに思いが至ったと言っています-現在時が過去に分岐する時間。かつて在ったものがいまはない。喪失への恐怖(虚無感)と畏敬。この喪失への恐怖が、死者の代替・代理物(記号)としての埋葬や墓を生み出すことになります。バタイユは、この恐怖感は極度に「作ること=未来の時間」を脅かし、破壊するものであったと考えています。したがって、埋葬や墓(死者の記号)は聖なるものと同時に、禁止されるべきもの(汚辱、穢れたもの)と見なされていきます。そして、禁止されるべきものに接近、侵犯する時間として生み出されたのが、遊びの時間=芸術(供犠、祝祭など)であると、バタイユは考えるわけです。ホモ・ファーベルに対立するものとしてのホモ・ルーベンス(遊ぶヒト)。その意味で、遊び=芸術の時間とは、過去と未来の時間を宙吊りにする時間、識別不可能にする時間とも言えるかもしれません。

こうした人類学的なアプローチ(記号、イメージの誕生に関しては、母親との関係における精神分析学的なアプローチもありますが、これについては機会があればお話したいと思います)が、記号あるいは言葉の誕生とどのような関係があるのか分かりませんが、一つだけ確かなことは不在の意識の誕生です。不在を存在させること、不在の記号化。数学におけるゼロ記号の誕生のようなものです。

写真の記号的特性について

これまでの講義の中でもしばしば、写真がもつ記号的特性について話してきましたが、改めて写真の記号的特性についてまとめてみたいと思います。写真の登場以前、視覚的イメージを代表していたものは絵画的イメージでした。とりわけ15世紀以降、西洋美術のなかで絵画的イメージを支えていたのは類似性です。いうまでもなく、絵画的イメージも、テキスト(言語)も、現実の対象を代理・再現する記号です。が、その対象との関係は異なります。絵画的イメージが対象との類似性の関係にあるとすれば、言語記号は対象とのいささかの類似関係ももっていません。言語記号は対象を差異の構造によってマッピングします。

それでは写真は現実の対象とどのような関係をもっているのでしょうか。写真もまた絵画的イメージ同様、類似記号の一つであると言えます。しかし、絵画的イメージと写真は同じ類似記号に属するものでしょうか。絵画的イメージが現実を類似的に再現するにしても、そこにはつねに再現のスタイル(転換のコード=解釈の法則)が介在します。いうまでもなく、再現のスタイルは歴史的なものであり、文化的なものです(遠近法もその一つであるだろう)。一方の写真は、「知覚に結びついた知識以外の知識を必要としない」、対象との直接的な関係をもっています。ロラン・バルトが「コードのないメッセージ」と呼んだゆえんです。つまり写真は対象との間に、転換のコード(文化的コード)が介在しない、直接的な関係をもっているということです。

アメリカの哲学者、C・S・パースは、記号をその対象との関係から三つの項に分類しています-絵画的イメージは対象との類似的な関係から類似(イコン)記号に、言語記号は対象との慣習的な法則関係から象徴(シンボル)記号に、そして写真は対象との物理的な結びつきより指標(インデックス)記号に、写真は足跡や指紋のように、物理的な痕跡(鋳型)によって対象を指し示す記号ということです。バルトが写真をコードのない「外示的イメージ」と呼んだのは、まさにこの現実との物理的連続性の関係においてです。

写真という記号の、もう一つ重要な側面が、写真を撮った(写した)人間(報告者)の存在が必ず、その写真に不在の証人として記されていることです。つまり、被写体を見た人が見ていない人に伝える記号、いわば直接話法の機能を有しているということです。

これまで写真はしばしば、指標記号としての機能、直接話法としての機能-対象への直接性と透明性を「記録」と呼ぶことで、映像としての客観性を特権化してきました。確かに写真は、指標記号としての、直接話法としての特性によって、現実の対象を「ここに」現前させるかのように機能します。しかし、バルトが正しく指摘するように、写真における対象の現前性は、「現に存在・・・する」意識ではなく、「現に存在・・・した(かつてあった)」という意識を確立させることにあります。「ここ」と「かつて」の非論理的な結合による、「現実的非現実性」。

さらに写真は類似記号としての機能も有しています。つまり、写真もまた転換コードとしての再現スタイル(フレーミング、構図、ライティング、視点等々の操作性)をもっているということです。むしろ写真は、文化コードとしての再現スタイル(それによって形成される共示的メッセージ)を指標記号としての機能によって隠蔽し、自然化してしまいます。

したがって、重要なことは、写真がもつ指標記号としての機能を特権化することではなく、類似記号や言語記号とのズレに着目することです。写真は指標記号としての機能によって、類似記号や言語記号によって形成される文化性(紋切り型)に裂け目を入れ、二重化し、宙吊りにする可能性を秘めているわけです。文化的なものが悪く、生のもの、直接的なものが正しいという意味ではありません。そうではなく、私たちの記号による知覚、認識、コミュニケーション、あるいは意味の生産における一義性に亀裂を入れ、懐疑をもたらすということです。したがって、重要なことは、写真の記号的特性をどのように使って(操作して)、どのような新たな記号を生み出すかにあります。では、デジタル写真はどのような記号的特性をもっているのだろうか。それこそが次の課題となるでしょう。

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