Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

写真のパラドックス―物質性をめぐって

2015年03月24日 | Weblog

ロザリンド・クラウスは「メディウムの再発明」*1という論考の中で、二度の「芸術と写真の合流」について書いている。一度目は一九二〇年代、ソヴィエトにおけるフォトモンタージュと、ダダおよびシュルレアリスムによる写真の使用。二度目は一九六〇年代、コンセプチュアル・アートを先駆けとする美術による写真の使用である。二度の「芸術と写真の合流」によって何が生じたのか。

まずクラウスが挙げているのが、歴史的もしくは美的対象としての写真が理論的対象へと変化したこと。それを担ったのが一度目はヴァルター・ベンヤミンであり、二度目としてロラン・バルトやジャン・ボードリヤールたちを挙げている。クラウスが指摘する「写真の理論的対象への変化」とはどのような意味であり、どのような事態を指すのであろうか。

写真というメディウムを理論の対象として俎上に載せること、つまりは回顧的、あるいは反省的な対象として扱うことである。実際、クラウスは論考の冒頭で、「この小論は〈振り返ること〉に関わっている」と述べている。振り返るとは過去を反省的にとらえることだ。もちろんそれは写真の過去を一つの範例として位置づけるのではなく、過去を一つの鏡として、今ある写真のメディウムとしての物質的・技術的諸条件を吟味し、批判的に検討し、それらの諸条件を破棄し、変更するためであるだろう。あるいは過去のなかに埋もれ、潜んでいた、写真の他のあり方―潜在的可能性を探ること。それこそがベンヤミンのいう「救済」であり、クラウスの「メディウムの再発明」ということになるだろう。

それでは理論的対象としての写真と区別される歴史的、美的対象としての写真とはなんだったのだろうか。歴史的とは、おそらく写真の技術的進歩、あるいは写真の社会的使用をめぐる変遷の歴史ととらえることができる。その際に前提となっているのは、写真(装置)を一つの道具としてとらえることである。現実を見るための、肉眼に代わる視覚的補助道具として、あるいは視覚情報の保存装置として、いわば透明な窓として写真をとらえること。ベンヤミン的に言えば、写真を装置に「よる」視覚イメージととらえることである。それに対して、理論的対象としての写真とは、写真に「おける(媒介としての)」視覚イメージととらえることになるだろう*2。他方の美的対象としての写真とは、言うまでもなく写真の登場以前の「芸術(絵画)」の枠内に位置づけること、あるいは美学カテゴリーに回収することにほかならない。

つまり、写真というイメージを外部(画面外)との関係ではなく、写真というメディウムそれ自体を問いに付すこと。写真装置に「よって」写された事物について論及するのではなく、不透明な表面として、写真に「おける」イメージそのものを検証・反省すること。さらに従来の芸術概念の外部で、美学カテゴリーの欄外で、あるいは美的メディウムの諸条件を破棄する力として写真を思考すること。おそらくは、それこそが理論的対象として写真をとらえることの主眼と言える。

こうしたとらえ方は、マクルーハンの有名な言葉、「メディアはメッセージである」と呼応している。つまり、メディアが伝える内容(メッセージ)以前に、メディア自体が一つのメッセージを含んでいるということである。ベンヤミンの言語論における「よる」と「おいて」も同様な意味と解することができる。

理論的対象としての写真の出現は、実は文学においても言えるようだ。例えば、ポール・ド・マンは「理論への抵抗」*3において、一九六〇年代に構造主義や記号論など、文学研究に言語学的なアプローチが導入されたとき、いわゆる文学理論と呼ばれるようなものが出現したと語っている。

「文学理論は、文学へのアプローチが言語外的な、すなわち歴史的、美学的考察にもはやその基礎をおかなくなったときに、あるいはもう少し洗練された言い方をするなら、もはや意味や価値ではなく、それらに先立つ意味と価値の生産と受容の様態が議論の対象になったときに、誕生するのだと言える」

この一文はまさに冒頭に書いたクラウスの言述とほぼ一致している。とするならば、六〇年代における理論的対象としての写真の出現は、写真のみならず等しく他のジャンルにおいても生じたものであり、構造主義や記号論との深い関わりがあることになる。

ではなぜ、六〇年代に再び、写真が理論的対象として浮上してきたのか。クラウスはその一つとして「写真の衰退」を挙げている。クラウスが言う「衰退」は写真の普及とパラレルな関係にある。写真が社会一般に普及し、消費されることによって、写真というメディウムの固有性が失われ、その自立性が脅かされていく。その結果として写真というメディウムそれ自体が考察の対象となるというわけだ。

しかし、そこには大きな罠も待ち構えている。写真はメディウムとしての自立性を目指すことで、美学カテゴリー(カントが定式化してみせた美学*4)に回収されてしまうという危険だ。一度目の「合流」に際してベンヤミンが危機感を抱いたのが、この「写真の美学化」であった。美的メディウムの諸条件を破棄する力を秘めていた写真が再び美学化されてしまう。

六〇年代にはもう一つ、世界の写真化(映像化)という問題も背景にある。つまり、写真はすでにして写真の写真であり、映像の写真であり、記号化された現実の写真であるということだ。たとえば、写真家がファインダーを覗く場合、ドゥルーズの比喩を借りて言えば、そのレンズの表面にはすでにして多くの映像が投影されている。

したがって写真家は現実とダイレクトに接する(透明化・無媒介化する)ためには、あらゆる先行する映像と格闘し、拭い消し去らなければならない。しかし、拭い消し去った現実もまたすでに記号化された世界にほかならない。そこで迫り上がってくるのが反省的次元である。写真家は必然的に先行するイメージの検証を強いられるのだ。こうした事態は当然ながら、写真を観る側にも言えるだろう。写真を観るわれわれは、写真家と現実との関係に没入(経験の同一化)すると同時に、解釈するという反省的次元にも立たざるを得ない。


ところで、一度目の「合流」と二度目の「合流」に違いはないのか。二度目の「合流」は一度目の単なる機械的な反復に過ぎないのか。仮に違いがあるとすれば、その違いはどこにあるのか。ここで焦点をあててみたいのが、写真の美学化という問題である。というのも、六〇年代以降にあっては、芸術、あるいは美術(絵画)を否定する写真それ自体が美学化されてしまったのではないかと思えるからだ。写真と美的生産物との新たな関係。

ここでは、写真の美学化という問題を写真のパラドックスという観点から考察してみたい。まず考えてみたいのが写真におけるリアルとリアリティのパラドックスである。

リアルとリアリティ。とりあえずわれわれはここで、身体にもとづく知覚=肉眼‐自然的な知覚によって把握された“現実”をリアルとし、何らかのメディウムによって媒介された知覚‐“現実らしさ”をリアリティと定義しておく。リアルとリアリティの違いについてはすでに多くの論者によって言及されたことだが、われわれはあえてもう一度、写真におけるリアルとリアリティという限定された領域で考えてみたい。先の定義を敷衍していえば、自然的な視覚―網膜的視覚に中心化された知覚をリアルに、カメラ装置によって媒介された視覚をリアリティと呼ぶことになる。たとえば、このリアルとリアリティの関係を「現実をめぐる現実らしさ」と言い換えてみてもいい。

さて、まず俎上に挙げてみたい作品事例が杉本博司の「ジオラマ」シリーズである。たとえば、そのうちの一枚に目を向けてみよう。

白い氷原に一匹の白熊がおそらくペンギンであろう獲物を睨んでいる。すでに一撃を受けて瀕死の状態のペンギンをいまにも食そうとしているのか、あるいは再び攻撃を与えようと身構えているのか。いずれにしても獲物を襲う白熊の獰猛な一瞬をとらえている。白と黒に抽象化されたモノクロ写真ということもあって、襲う者と獲物、生と死、動きと静止といった狭間の一瞬が鋭利な映像によってとらえられ、きわめて高い迫真性を醸し出している。この透明かつ鋭利な映像は言うまでもなく、カメラ―機械の目によってとらえられたものだ。

しかし、この写真にはどこか不可解なところがある。こうした迫真的な場面を撮る場合は、危険を伴うので、通常、望遠レンズを使って遠くから撮るはずである。とすれば、望遠レンズの効果によって、被写体に焦点があてられるとともに背景はぼけてくる。ところがこの写真は広角レンズを使っているように思えるし、三五ミリカメラのような手持ちのカメラではなく、固定した大型のカメラを使用しているように思える。獲物をあさる獰猛な白熊を前にして、このような撮影をすることはありえない。巧妙につくられた捏造写真?

そう、ご存知のように、このシリーズはそのタイトルにもあるように、ニューヨークにあるアメリカ自然博物館の剥製ジオラマを撮ったものである。杉本博司はなぜこのような写真を制作したのか。その意図はどこにあるのか。もし仮に、この作品が偽物、作り物―フェイクであるジオラマを本物であるかのように見せることを意図したならば、よく見られる動物写真のように、動いているところの一瞬を切り取るように背景をぼやけさせ、いわば「本物のような“偽物写真”」をつくればよい。いわゆるフェイク・ドキュメンタリー的な手法。

ところが、この作品はレンズの効果―カメラの構造を隠すことなくあらわにしている。いわば「偽物のような“本物の写真”」をつくりだそうとしているかのようである。つまり、前者が現実を撮った写真のように見える意味では本物だが、写真としては偽物であり、反対に杉本博司の写真はフェイクを本物のように撮った写真としては偽物だが、写真としては本物という論理になる。オリジナル(現実・本物)→偽物(写真)、偽物→本物(写真)が転倒しているというわけだ。ここで注意しておくべきことは、フェイク・ドキュメンタリー的な手法によるリアリティとは、網膜的視覚の再現を志向していることである。

杉本には同じような意図をもった作品に「肖像写真」シリーズがある。これらの作品は歴史上の有名な人物を撮ったものだが、これらの作品も実は、実際の人物を撮ったものではない。写真が発明される以前の歴史上の人物を撮影することはできない。「肖像写真」シリーズは蝋人形博物館に展示された歴史上の人物を撮影したものである。その一枚に「音楽レッスン」という作品がある。絵画を複写したようにも思えるが、よく見ると奥の鏡に三脚が写写されていて、蝋人形のある現実の空間を撮ったものであることが分かる。

これらの作品の意図は何か。杉本は何をやろうとしているのか。これらの作品についてしばしば言われることは、写真は決して客観的イメージ―現実とイメージの一致(文学や言語学で言うところのクラテュロス主義―プラトンの対話篇『クラテュロス』に由来する言葉で、事物と言葉の一致を言う)ではない。杉本の作品は写真が写真にすぎないことを暴露し(つまり写真というメディウムの物質的・技術的諸条件をあらわにすることで)、写真―客観的イメージという神話を疑問に付しているのだと。つまり、写真というイメージに対する表象批判であると。こうしたとらえ方は決して間違ってはいない。しかし、あまりに一面的にすぎるように思える。実際、杉本本人は「ジオラマ」シリーズについて次のように語っている。

「1974年、ニューヨークに着いたばかりの私は、ニューヨーク見学を始めた。自然史博物館にたどり着いた時、私はひとつの奇妙な発見をした。剥製の動物たちが書割の前に置かれて、いかにも作り物に見える。しかしそれを片目を閉じて見た瞬間、遠近法が消失して急に本物のように見えたのだ。私は、カメラのように世界を眺める方法を発見した。どんな虚像でも、一度写真に撮ってしまえば、実像になるのだ」*5

ここで杉本が語っていることを文字通りに受け取れば、肉眼(両眼)で見ると作り物にしか見えないものも、片目(カメラ)でみれば本物のように見える、と言っているわけだ。とすると、先ほど述べたような表象批判(イメージ批判)としての「ジオラマ」シリーズというとらえ方とは真逆となる。杉本は写真という表象を批判するどころか、積極的に肯定しているのだ。確かに写真は現実とは違う、写真は写真にすぎない。しかし、であるがゆえに、虚像を実像に変えるのだと。もっと簡単に言ってしまえば、写真は作り物のように見えるもの(虚像)を本物のように見えるもの(実像)にするのだと。ここにこそ、写真におけるリアル(虚像)とリアリティ(実像)のパラドックスがある。

杉本の論理に従えば、肉眼―自然的視覚あるいは網膜的視覚は決して事物の実像をとらえることできない。写真こそが事物の実像をとらえることができるのだ、ということである。しかし、偽物(作り物)をあたかも本物のように見せてしまう杉本の写真は、ロラン・バルトが初期の写真論で指摘した、人為的なものの自然化と矛盾しないのか。つまり、偽物(作り物)を本物のように見せてしまう広告写真の神話作用。もちろん、杉本は自分の写真を広告写真と同列に論じるなと怒りをあらわにするだろう。実際、デジタル写真の偽物性を声高々に批判する杉本なのだから。

確かに、構造は類似していても、広告写真一般と杉本の作品を混同してはならない。前者があくまでも人為的なものであることを偽装しているとすれば、杉本は決して隠そうとしているわけではない。むしろ、被写体が人為的なもの―フェイクであることを積極的に表明している。それでは杉本の作品は、写真というイメージがもつメタ・アイロニカルな性格を喚起させようとしているのだろうか。あるいはそのメタ―アイロニカルな性格を利用して、剥製ジオラマや蝋人形がもつ虚実皮膜の妖しい魅力を伝えようとしているのか。

そう解釈することも可能だが、ここでは杉本が言う「実像」という概念にこだわってみたい。そもそも杉本が言う「実像」とは、何をさしているのか。杉本は何をもって「実像」と言うのか。

おそらく、杉本が言う「実像」とは、事物の実在感、言葉を変えていえば物の本質のようなものであろう。つまり、剥製ジオラマや蝋人形は作り物には違いないが、物としての実在感をもっている。写真こそがその実在感を現前させることができるという確信である。この実在感をリアリティと呼んでもいいだろう。杉本に言わせれば、フェイク・ドキュメンタリー的な手法は網膜的視覚を模しているにすぎず、物の実在感を現前させているわけではない。


では、杉本はいかなる根拠をもって、写真は網膜的視覚よりも、確実な実在感を与えるというのだろうか。杉本が実在感(リアリティ)の根拠としているのは、写真があらわにする物質的次元の視覚のように思える。光の痕跡としての物質性こそが事物の此物性、いわば視覚的触覚性をもたらすということである。見る対象としての事物ではなく、触る対象としての事物。こうした写真の特性を最初に言い当てたのはおそらくベンヤミンであろう。その著「写真小史」に次のような一文がある。

「元来カメラには情緒豊かな風景や魂のこもった肖像よりも、普通は工学や医学が相手にする構造上の性質とか細胞組織といったもののほうが縁が深い。しかし写真は同時にこのような素材において、物質の観相学的な諸相を開示する」*6

もちろんここでベンヤミンが焦点をあてていたのは、光の痕跡という化学的な(光の粒子としての)物質性よりも、レンズの力がもたらす物質的次元の開示である*7。

改めて言うまでもなく、モダニズム写真のメインストリームはこの物質的次元がもたらす実在性を追求してきたと言ってもおそらくそう大きく間違ってはいまい*8。いや現在もまだ、写真がもたらす物質性は写真という映像の強い魅力の一つとして生き続けている。

とするならば、杉本の作品はある意味純粋な形で、改めてモダニズム写真の真髄とも言える実在感を再現(再確認、あるいは完成)させようと意図したものなのだろうか。思わずここで「純粋」という言葉を使ってしまったが、これこそが写真の美学化と深く関わることなのだ。

例えば、ベンヤミンが写真の機能の一つとして物質性の開示を指摘した背景にはどのような意図があったのか。明らかにベンヤミンが意図したのは、前述したように、写真登場以前の美的メディウムの諸条件を破棄することに主眼があった。美的メディウムの諸条件を破棄する力としての物質性。ベンヤミンはあくまでも従来の美学を破壊するものとして、写真がもたらす物質性に着目したのだ。ベンヤミンにとって重要だったのは、写真がもたらす物質的な視覚そのものではなく、あくまでも物質的な次元がもたらす批判的機能だったのではないか。つまり、先に引用したド・マンの言葉にならえば、写真によって「意味や価値ではなく、それらに先立つ意味と価値の生産と受容の様態」を問いに付すことだった。

杉本の作品をもう一度、振り返ってみたい。写真が現実をありのままに写すものであるならば、偽物は偽物のままに写さなければならない。その場合のありのままの視覚とは、肉眼―自然的視覚と一致することになる。いわゆるクラテュロス主義であり、一般に言われるリアリズム写真である。偽物を本物のように写せば、それは視覚の偽装であり、修飾ということになる。もちろん、杉本の作品はそのいずれも回避している。

杉本の作品は、写真がもたらす物質的次元を現前させることによって、肉眼の偽装的視覚を暴露するとともに、物の実在性を喚起させることができるというわけである。しかし、杉本の作品にあっては、写真がもたらす実在性―物質性を前景化することで、純粋な「物質的視覚」とも呼べるものをもたらそうとしているように思えるのだ。その結果、「物質的な視覚」を新たな意味と価値に置き換えてしまうことになる。これを写真の再・美学化と呼びたいと思う。杉本の作品は図らずもモダニズム写真美学に潜む物質性のパラドックスをあらわにしている。

こうした写真の再・美学化は、写真を再び純粋化・単数化し、理念の秩序に回収してしまい、事物の秩序に沿って展開される認識体制の可能性を閉じてしまうことになる。そして何よりも、この写真の再・美学化こそが写真の批判的機能を衰退させ、イメージの戯れ、あるいは写真の美的耽溺を許す根拠となっているように思えるのだ。
 

*1・「表象08」所収(星野太訳)参照
*2・「言語一般および人間の言語について」(『ベンヤミン・コレクション1』所収浅井健 二郎編訳)
*3・『理論への抵抗』所収(大河内昌他訳)参照
*4・ただし、カントの『判断力批判』における「崇高な視覚」にあっては、美的なものを批判する「物質的な視覚」が潜んでいると、ポール・ド・マンは指摘している。『美学イデオロギー』(上野成利訳)所収「カントにおける現象性と物質性」を参照
*5・森美術館「杉本博司展」カタログ参照
*6・『ベンヤミン・コレクション1』所収(浅井健二郎編訳)
*7・光の粒子としての物質性とレンズが開示する物質性。この混同については論じるに値する。言うまでもなく、レンズが開示する物質性は、アロイス・リーグルの「触視性」の概念と呼応するだろう。例えば、バルトにおける写真の物資性は前者を指す。この問題はデジタル写真における物質性の問題にもつながる。もし仮に、写真の物質性に二つの側面(化学的―光学的)があるとすれば、杉本博司がデジタル写真を偽装呼ばわりするのはこの混同にあると言える。
*8・いささか皮肉を込めていえば、モダニズム写真は写真における新古典主義に墜したように思える。

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