Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

写真と無意識

2007年10月21日 | Weblog
ベンヤミンの視覚的無意識

写真と無意識を初めて結びつけて考えたのは、ベンヤミンです。ベンヤミンは写真に関する最初の論考「写真小史」の中で、以下のように書いています。

カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。
(「写真小史」久保哲司訳 ちくま学芸文庫)

今回はベンヤミンの「視覚的無意識」をキーワードに、写真の潜在的可能性、とりわけ初期写真が有していただろう写真について考えてみたいと思います。

まずベンヤミンは「無意識」という言葉によって、何を言わんとしたのでしょうか。前述の引用に続いて、ベンヤミンは「写真はスローモーションや拡大といった補助手段を使って」、例えば人の歩き方を解明してくれると書いています。また「物質の表情」ともいうべき微細な形象を開示するとも言っています。つまり、カメラによって肉眼では見えなかったものを見えるようにしてくれるということです。肉眼では見えなかったもの、それが「視覚的無意識」というわけです。後に、「第三の眼」とか、「機械の眼」と言われるようになるもので、写真史では言い古された事実であり、いわば常識的な言説です。

では何が問題なのか。ベンヤミンは「視覚的無意識」という概念によって、何を問題にしようとしていたのでしょうか。ベンヤミンは「写真小史」の論考に続く、かの有名な論考「複製技術の時代における芸術作品」(以下、「複製芸術論」に)において、前述の引用を繰り返しながら、精神分析における「無意識」との関連を述べています。

ついでにいえば、この二種類の無意識のあいだには、密接きわまる関連がある。なぜなら、カメラによって現実から奪い取られることが可能となる多様な視点の大部分は、知 覚の<通常の>スペクトルの範囲外にあるものだからだ。
(「複製技術の時代における芸術作品」野村修訳 岩波文庫)

ベンヤミンは「通常のスペクトルの範囲外にあるもの」を「視覚的無意識」として発見しているわけです。さらにベンヤミンは、映画の視覚世界を例に「現実世界では、異常心理や幻覚や夢の形で現出する」とも付け加えています。つまり、写真は肉眼における知覚とはきわめて異質な知覚の論理、いわば夢の論理に近いものだと言っているわけです。

知覚の客観性と過剰

「通常のスペクトルの範囲外にあるもの」、肉眼とは異質な知覚の論理。写真の論理が知覚の異質性を指摘することで、ベンヤミンは何が言いたかったのでしょうか。ベンヤミンはこの異質性をとりわけ、「細部」という観点からとらえています。「写真小史」の中で、その例として挙げられているのが、ブロースフェルトの植物写真です。この細部-ディテールという観点は、後にシャーカフスキーも写真読解の一つとして挙げています。

「通常のスペクトルの範囲外にあるもの」としてのディテール。ベンヤミンにおける「細部」とは、全体を細分化した部分ではありません。むしろ、全体という概念を脅かす細部です。全体に統合不可能な過剰な部分としての細部。そもそも全体という概念はどう成立するのでしょうか。カントにおける「統覚」のように、そこにはつねに人間的主体が想定されているわけです。ベンヤミンにおける通常の知覚のスペクトルを免れた細部は、「全体性」や「主体性」を揺るがすものとして考えられています。蛇足ながら、全体と断片(部分)という問題は、ドゥルーズが指摘する、全体から始まる部分のとらえ方は「……である」に、ベンヤミンの細部は「…と…」に相当すると思われます。全体化されない部分の集積としての自然。

ところが一方で、写真はその自動的描写性-人間の意識や言語的・象徴的コードを介さずに書き込まれる自動性ゆえに、客観的なものとみなされてきました。実際、写真は発明の初期段階において、臨床医学や犯罪学の場において観察の手段として使われていきます。シャルコーのサルペトリエール精神病院におけるヒステリー写真やさまざまな奇形をとらえた医学写真、観相学的な犯罪者の肖像写真等々。写真がもつ自動的描写性ゆえに、科学的知覚というイデオロギーを被って使われたのでは明らかです。ここで「科学的知覚」として働いている機能とはどのようなものでしょうか。

周知のように、科学的姿勢の本質の一つは、実験における反復性です。個々の現象の中から、同じ事象を抽出し、統計学的な手法によって法則化することで一般性を獲得することにあります(蛇足ながら、科学的法則とはあくまでも閉じられた環境-選択されたファクターの下での実験にすぎず、つまりは真の反復を保証するものではない)。つまり、写真は同じ事象を同定する手段として、きわめて有効とされたわけです。症状の同定、犯罪者の同定……。写真は管理と制御のテクノロジーとして、その同定化の方法とされたわけです。

ベンヤミンもまた、「写真小史」において、「元来カメラには情緒豊かな風景や魂のこもった肖像よりも、普通は工学や医学が相手にする構造上の性質とか細胞組織といったもののほうが縁が深い」と写真の科学との親近性を述べています。その一方で写真という技術における科学と呪術の境界線は不確定だとも指摘しています。例えば、心霊写真というものがありますが、そもそも心霊写真は神秘的なものとしてつくられたわけではありません。むしろ、きわめて科学的な姿勢からつくり出されたものなのです。霊魂の存在を実証するために、その証拠のために心霊写真は生み出されたのです。


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