しとしとと春先の小雨が降るのを将之は自分の館の半分開かれた御簾の奥から感じ取っていた。
こう鬱陶しく降られれば外出する気もしない、出仕、方々の用事も済ませた将之は何をするでなく横になって薄墨の様な外に視線を向けた、梅は咲いたが桜はまだまだ蕾である、紫陽花に至っては淋し気な木々だけでやっとこさ若い葉が一枚付いている有様であった、ただそれらを当の家主はまるで意に介してはいなかったのだが・・・。
将之は先日晴明に見舞いの品を送った、保憲たちと赴いた池の奇獣とは別件にて怪我を負ったと聞いたので彼の容体が気掛かりだったのだ、無論本当は見舞いの品、などと水くさい真似はせず本人自身が夜半に赴いたのだがそこでうっかり聞かずによい事を聞き入れてしまいその日は何となくもう上がるに上がれずそっと踵を返して帰ってしまったのだ。
文を書こうかとも思ったが今はまだ見ない愛しい姫にさえ文を書くのは面倒とさえ感じる書嫌いの自分である。
将之は見舞いの品にそれらが自分宛てだと分かる様家人から一筆添えてもらいそれを晴明に送った。
彼からはすぐに返事が届き「稀なる気遣い」という内容が書いてあった、有難いという思いと同時に珍しいという少しの笑いを含んだ文はそれはそれは流暢な文面で書かれていた。
晴明は字も上手なのだと始めて知った気がする。
自分は自分が思っている以上に晴明の事を判ってはいないのでは無かろうか?
―それも良いかも知れん―
ほぼ盗賊風情の男が晴明を野に誘ったら彼は意外にもあっさりとそう云ってのけたのを将之は聞いて驚いた。
だが後になって思い出してみるとそう驚く話でも無い様な気がする。
晴明は初めて会った頃よりいつも何かに追い立てられている様で辛そうにしていた、見える暗い未来が成就してゆくのを気にしていた、彼が疲れて何もかもを投げ出したくなっても無理はない、何しろ前科もある、将之は気だるい身体をごろりと返した。
晴明にいつまでも京に居て欲しいのは至極当然な自分の希望であるが晴明がこれに否と云ったのならば自分は如何するか・・・昔はまだ随分若かったから若気の至りだけで野に下りたいと云い出した彼を無理やりにでも止めたものだったが今回は第三者も介してひっそりと晴明の心中を聞いてしまった為、その様な強気には至らなかった。
そもそもあの訳の分らぬ男が晴明に戯言など囁かねば良かったろうに・・・と思い出すと腹が立つやら悔しいやらでどうしようもなくなる、が結局晴明を留め置きたい自分も自分の勝手なのだと思うと将之にはそれ以上何も言う権利が無い様に感じた。
稀なる気遣い、静かに笑う晴明の横顔が彷彿される、将之の胸は重苦しくなって彼はそのまま畳に突っ伏してしまった。
さーと雨が地面を叩きつける、中庭の池の蓮にも降り注ぐ、濡れた大きな葉は若々しい新緑である、池の先には木々が植えてありその根元の池のそば、苔が生えた部分は雨に打たれほろほろと土が軟いでいた。
幾日後、晴明邸を一人の若者が訪ねて来た、将之の部下の篤史である。
ここ最近、将之があまりにも元気が無いので心配していたがそれを当の本人に聞く勇気はなく彼の親友であり陰陽師でもある晴明なら何とかしてくれるかもと思い訪ねて来たとの事である。
それを聞いた晴明はややうんざりとしながらも心優しい若者に諭すように語った。
「それでわざわざ?・・・、将之も人間ですしそんな時もあるのでしょう、篤史殿が気にするほどではありませんよ、その内いつもの様にもなりましょう」
「はぁ・・・」
大きな素直な瞳が不安そうに見返す、やれっと晴明は薄く微笑して返した、将之は周りに恵まれていると思う、無論それは彼の人柄あっての所以なのだが・・・、晴明が何度か諭したのが功をなして篤史は程無くして安心したかの様に晴明邸の門前を後にした。
彼の後ろ背を見送る晴明の後ろから一人の男がやって来る。
「浩允どの」
「・・・」
男は晴明の振りかえった美しい姿を見ていた、晴明は篤史の方を見ながら云った。
「今去った若者は先日賊に家族総てを殺されたんだ」
「!?」
今は若輩ながらつてを頼って左近衛府に務めている。その上将之に異変を感じて自分を頼ってきた非常に心優しい若者だと云ってのけた。
浩允はさすがにくすりと笑う。
「・・・そうか」
浩允は少し遠くを眺めた、小さな男の後ろ背は小さくその向こうには大きな山々が聳え立っている。
篤史はふと此方を振り向き二人に手を振りかざした。
素直そうな若者の笑顔は浩允の胸に残る。
さてそろそろ出仕も適いそうだと晴明は大きく身体を伸ばしてみた、遣るべき事は山程ある、浩允にしてもこのままいつまでも置いておく訳にはいかないし、何より池の奇獣、怪魔の鎮めを行わないと又しても人が死にそれにつられ気が乱れ人々も落ち着かなくなる。
賊が荒れ狂うと又篤史の様な可哀相な人間を増やすだけなのだ。
ふと晴明は部屋の隅に置いていた見舞いの品々に目を止めた、顔を出さずこうして見舞いの品を送るなど余程時間も無いのだろうか・・・晴明は少し淋しい面持ちでそれらを眺め小さな薬膏の入った小豆色の小箱をぎゅと握りしめた。
数日後、晴明邸。
「あのー、先生、ちょっといいですか?」
「?」
大分遠慮がちな愛弟子の様子にもう傷も癒え職務に勤しむ晴明は不思議そうに手を止めた。
籐哉は何処となく云い難そうに告げる。
彼の話にさすがに晴明も驚いた。
「将之がすみれ殿を振ったって!?」
「そ、そうらしいです。そ、それですみれ様も落ち込んでいるらしく・・・将之さまの親友である晴明様に事の真相を究明、あとお慰み申し上げたいと・・・」
そこまで云って籐哉は自分が悪い訳では無いのに黙り込んでしまった、そして晴明もまざまざと不機嫌を顔に表す。
「冗談。何故私がその様な真似を?将之は他にも友人が居る、そちらを当たってもらえ」
いつになくきつい口調で放る様に云ってのけたのを籐哉も御簾の奥ではすみれの使者も聞いていた。
そ、そうですねと籐哉も下を向いてしまう、大人げないのは百も承知だが幾らなんでも腹立たしい話でしかない。
自分は将之を好いているのだ。
色恋、欲情は別にしても・・・。
今まで友らしい友には恵まれずやっと手にした将之(親友)
彼の気質、笑顔を愛でひっそりと心の奥底ではそれこそ自身の中心、太陽の様に慕っていたのである。
見合いの話もすみれの件も仕方ないとぐっと堪えていたのをここに来てすみれを慰めたもう、とのことであるいい加減堪忍袋の尾も切れる。
だがここですみれの家人も負けてはいない、引き下がらず御簾から強引に入り込み晴明に懇願したのであった。
「将之殿の事は晴明様が一番知っているとは周知の事実!何とか、何とかすみれ様と会って下され!!」
年のいった家老の様な爺様に頼まれ晴明はこの上なくげんなりとした。
将之同様、すみれも家の者から非常に大事にされているようだ。
晴明は少し押し黙った後その老人に一つ聞いた。
「・・・その話はすみれ殿より出た話ですか?それとも・・・」
年寄りはすぐさま顔を横に振り菫からではなく周りの者の一懇だと告げると晴明は吹っ切れた様に立ち上がると苦々しく云った。
「分かりました。菫殿の元へ赴きましょう」
「晴明殿~」
嬉しそうな年寄りを足元に傅かせ晴明は己のお人よしさを心底嘆いた。
続く