前回『弓梓弓と水の女神 断片集⑦ No178』で
古田シズヨ女史が開いた龍宮乙姫の岩戸が
熊本の鹿本にあると伝えたが、
乙姫神社の調査で熊本に少なくとも三社は乙姫神社があることが分かった。
一つはわりと有名な阿蘇乙姫の乙姫神社。
それから旭志村姫井の乙姫神社。
そして最後に熊本市上南部の乙姫神社の三社だ。
そしてこの三社の乙姫神社で祀られている祭神は若比咩命となっている。
阿蘇神社は一ノ宮 二ノ宮 三ノ宮と十二ノ宮まであるが
その五ノ宮の惟人命=彦御子神の后が若比咩命だ。
なぜ若比咩命が乙姫なのか謎が残る。
ちなみに惟人命とその母の蒲智比咩命=蒲池媛は
神功皇后の三韓征伐に従軍している。
蒲池媛は宇土半島の郡浦神社あたりが出身ともいわれていて
郡浦神社では蒲池媛を祀っている。
國造神社の祭神である速瓶玉神に嫁いでいるのは雨宮媛となっているが
蒲池媛と同じ人物かははっきりしない。
雨宮媛については小国出身ともいわれている。
草部吉見神社の言い伝えによるが、
国龍命は日向国から火と水を求める二つの玉を持ってきたという。
火の玉を干珠、水の玉を満珠と称する。
高麗軍が攻めてきたときに、
草部吉見神社で九ノ宮に祀られる速瓶玉命と
その妃の雨宮媛がこの珠を使って高麗軍を撃退したという。
この速瓶玉神の子供が阿蘇神社五ノ宮の惟人命となる。
神功皇后の塩満珠は一般的には住吉大神から授かったことになっているが、
蒲池媛は神功皇后に塩満珠を渡したという伝承もある。
どうも蒲池媛は海人系のようだ。
若比咩命が蒲池媛の可能性もあるようだ。
さて熊本市上南部の乙姫神社であるがこの神社は合併社で
奈我神社、乙姫神社、住吉大社の3社が今は合祀されている。
奈我神社は六国史の一つ『日本三代実録』にも登場する古社で
貞観十八年(876)七月に
肥後国合志郡・正六位上奈我神社の川辺から白亀一匹とある。
奈我神社の祭神は初代神武天皇の母君の玉依姫命となっている。
乙姫神社の祭神の若比咩命よりも玉依姫命の方が
乙姫なのではないかとも思ってしまう。
奈我神社の奈我だがこれは龍神ナーガに繋がる気がする。
神功皇后 蒲智比咩命=蒲池媛 雨宮媛 若比咩命の関係については
もう少し詳しく調べて再度報告させていただきたい。
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古田シズヨ女史が開いた龍宮乙姫の岩戸が
熊本の鹿本にあると伝えたが、
乙姫神社の調査で熊本に少なくとも三社は乙姫神社があることが分かった。
一つはわりと有名な阿蘇乙姫の乙姫神社。
それから旭志村姫井の乙姫神社。
そして最後に熊本市上南部の乙姫神社の三社だ。
そしてこの三社の乙姫神社で祀られている祭神は若比咩命となっている。
阿蘇神社は一ノ宮 二ノ宮 三ノ宮と十二ノ宮まであるが
その五ノ宮の惟人命=彦御子神の后が若比咩命だ。
なぜ若比咩命が乙姫なのか謎が残る。
ちなみに惟人命とその母の蒲智比咩命=蒲池媛は
神功皇后の三韓征伐に従軍している。
蒲池媛は宇土半島の郡浦神社あたりが出身ともいわれていて
郡浦神社では蒲池媛を祀っている。
國造神社の祭神である速瓶玉神に嫁いでいるのは雨宮媛となっているが
蒲池媛と同じ人物かははっきりしない。
雨宮媛については小国出身ともいわれている。
草部吉見神社の言い伝えによるが、
国龍命は日向国から火と水を求める二つの玉を持ってきたという。
火の玉を干珠、水の玉を満珠と称する。
高麗軍が攻めてきたときに、
草部吉見神社で九ノ宮に祀られる速瓶玉命と
その妃の雨宮媛がこの珠を使って高麗軍を撃退したという。
この速瓶玉神の子供が阿蘇神社五ノ宮の惟人命となる。
神功皇后の塩満珠は一般的には住吉大神から授かったことになっているが、
蒲池媛は神功皇后に塩満珠を渡したという伝承もある。
どうも蒲池媛は海人系のようだ。
若比咩命が蒲池媛の可能性もあるようだ。
さて熊本市上南部の乙姫神社であるがこの神社は合併社で
奈我神社、乙姫神社、住吉大社の3社が今は合祀されている。
奈我神社は六国史の一つ『日本三代実録』にも登場する古社で
貞観十八年(876)七月に
肥後国合志郡・正六位上奈我神社の川辺から白亀一匹とある。
奈我神社の祭神は初代神武天皇の母君の玉依姫命となっている。
乙姫神社の祭神の若比咩命よりも玉依姫命の方が
乙姫なのではないかとも思ってしまう。
奈我神社の奈我だがこれは龍神ナーガに繋がる気がする。
神功皇后 蒲智比咩命=蒲池媛 雨宮媛 若比咩命の関係については
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http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/be756fc0c56327efea49e594babb558e
「豊比命の系譜。」http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/431294153935401c1c6d489eab327c2d
あたりを読んで頂けるとよいと思います。
ブログ、ゆっくり、楽しませて頂きます。
偶然ちょうど今、油獏さまのブログを拝見して
返事をだしたところでした。
九州の古代の封印された歴史を是非
解いて下さい。
特に神籠石が「大伴金村」の仕業であり
「武内宿禰」の業績として投影されたさまとも見える
という御高察は慧眼かと思います。
お話の件ですが「山部一史」は私でございます。祖父の代に阿蘇を離れて、福岡に在住しております。「阿蘇神話譚」は三年ほど前にルーツ探しのために書きだしたものですが、「山部」の出自のところで行き詰まり、止まったままになっております。
手野の「市原家」は国造神社の宮司職でございますか、市原家は宇治姓とございますが阿蘇大宮司家の流れでございますか、市原城とは手野にございますか?阿蘇のことは知らないことばかりです。よろしくお教えください。
「若比命」については以前より興味がございますが、まだ調べるところまで到っておりません。古代の歴史を糺す話は、同感でございます。同郷の誼ということで、今後ともよろしくお付き合いください。
弊サイトも見ていただけたそうで、
最近更新できていないことも含めて
恥ずかしい限りではありますが感謝いたします。
市原家は国造神社そばの竹やぶの中に
初代の墓があります。墓碑は以下のように読めます。
慶長元年 (西暦1596年) 春雲院殿義山盛幸文禅定門
市原山城守墓-阿蘇家市原城主 市原宇治姓 盛幸
行年六拾四歳市原源正 父
初代以降は麓にまとまって墓が存在するのですが、
はっきりと分かる人物としては
江戸時代に文筆で細川藩に仕えていた人物からです。
参勤交代にも出ていたとのことです。
「盛」の通し名からしておそらく坂梨にあった高城の城主
という話もありますが良く分かりません。
天正期の高城主坂梨右衛門惟祐の子孫が後に三家に分かれています。
三家というのは坂梨の市原家、内牧の甲斐家、狩尾の坂梨家だそうです。
手野の市原家初代は坂梨から分かれたと考えています。
本家の住所は古城村大字手野で古城とあるように
手野には城があったそうでその城の城主という話もあります。
ちなみに祖母方は熊本県上益城郡山都町小笹前田にある
笹原城につながると聞いています。
通潤橋に流れる笹原川は祖先の名前をとった川だと聞かされました。
阿蘇大宮司が宮地に移動した際に阿蘇神社裏の今村に住まいしました。
私は大学の先生方のように重箱の隅をつつくのではなく
ダイナミックに歴史に取り組みたいと思っています。
今後とも宜しくお願いします。
興味深い家歴ですね。私の家祖は手野在の宮川氏族、どうやら吉田さんのご先祖の家臣であったようです。ご縁を感じます^^
吉田さんのご研究、期待しております。
私は平成2年の水害で家を失うまで坂梨の参勤交代の道沿いに住んでおり、ご先祖さまは御茶屋で昔は殿様だったと聞いています。
家系図には天皇という文字もあったと母が言ってました。
しかし私が大人になり先祖に興味を持つ前に、家系図の更新をするといったような内容で家系図を取りに来た人がいて、その後の家系図の行方は不明です。
しばらくは忘れていたのですが、父が他界したこともあり、母ももう歳なので、後を継ぐ者はどうすれば良いのか…と考えふと先祖について検索した次第です。
一番気になるところは家系図の行方です。
歴史のことは全くわかりませんが、水害や地震などで家だけではなく思い出の品なども失ってきた我が家にとって後に残さなくてはならない大事な物だったのではと気になってます。
もし何か参考になる物などございましたら教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いします。
ご苦労されたことと思います。
家系図の件ですがまず菩提寺にお尋ねになられることを
お勧めします。
何らかの情報を得られるかもしれません。
戸籍謄本の親族氏名と親戚の墓からも情報を得れると思います。
とにかく片っ端から尋ねないとなかなか失われた情報を
取り戻すことは出来ませんが
努力すればそれに応じた情報が得られるものと思います。
ルーツ探しはgoogleにいくつも方法が載っていますので参考にしてください。