吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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宝冠弥勒と宝髻弥勒菩薩半跏思惟像 No189

2010-12-24 15:05:11 | 日記
仏像の芸術性などは論じるほどの知識を持たないのだが
宝冠弥勒と宝髻弥勒という二つの国宝が広隆寺に安置されている。
推古天皇11年(603年)のことだが
聖徳太子が、新羅から渡来したと考えられる宝冠弥勒菩薩像を
渡来人の秦河勝に与えている。
この弥勒菩薩像は蜂岡寺=今の広隆寺に祀られている。
なぜ渡来人である秦河勝にこの像が授けられたのかは
想像するしかないが、
聖徳太子が広めようとした国を導く仏教・道教・神道とは
この像は意味合いが違っていたのではないかと考えている。
この像が弥勒像だとしても当時の弥勒信仰を
釈迦の説く仏教と完全同一視することは出来ない。
そして当時この弥勒菩薩像の持つ意味を一番理解していたのは
渡来系の秦氏だったともいえよう。
この宝冠弥勒菩薩像に接する限り
個人に救いをもたらす力はあっても聖徳太子が望むような
国家を守護する力には欠ける。
そういう訳で都からは離れた秦氏の拠点に
持ち出すことも許されたのであろう。
飛鳥寺=元興寺に日本最古ともいわれる仏像があるが
あの仏像の前に立って祈るといかにも国家安寧の願いを
聞き入れてもらえそうな気がする。

そういう観点で法隆寺を考えると
釈迦三尊像も救世観音像も像の大きさが等身大であり
光背銘には像尺寸王身とあり
鬼前大后と干食王后に上宮法皇枕病弗
などと書かれているので
聖徳太子を偲び等身大に仏像を造ったということが分かる。
つまり釈迦如来では無くて
この像は聖徳太子像だと言っているのだ。
仮に最初の創建は聖徳太子が釈迦を祀るために造ったものだとしても
それが逆に聖徳太子を祀る寺に作り変えられたという訳だ。
さらに上宮法皇というからには
聖徳太子は天皇であった可能性が出てくる。

さて話を戻して
この宝冠弥勒と宝髻弥勒の二つは全く違う来歴を持つように思えるが
実際に私が広隆寺で何も知らずに最初に観たときに
もう一体の宝髻弥勒菩薩に聖徳太子への思いを強く感じた。
この像は日本で聖徳太子をイメージして造られたものであろう。
法隆寺の司馬鞍首止利佛師の尺寸王身の聖徳太子は
見かけは釈迦なのに対してこれはもっと根源的に聖徳太子に近い。
宝髻弥勒菩薩は聖徳太子像あるいは太子につながる救世観音像と感じる。

昨日「蜂」とは警告ということをブログコメントで記載したが
蜂岡寺に祀られた宝髻弥勒菩薩半跏思惟像は
聖徳太子からの警告でありメッセージであろう。
たぶんそれは「未来記」に関係するものではないかと思う。

今回写真を2枚貼り付けているが
白黒写真の方は芸術的見地から
カラーの方は宗教的見地から添付した。
より聖徳太子への思いが伝わるのはカラー写真の方であると感じている。
筆者的には逆に聖徳太子からのメッセージを感じている。
写真はクリックしてから観てもらいたい。

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