いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで7、康熙帝の太子廃嫡

2017年05月20日 09時08分18秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
イスラム世界の権力交替を見てもわかるように、
騎馬民族社会では、人生最高の頭脳の働きを結集した凝縮度・集中度の高い数年しか、リーダーでいることが難しい。

カリスマ性・判断力が衰えてくると、途端に下から見放されて取り替えられてしまうのである。


そんな騎馬民族の体質を先天的に抱えたまま、康熙帝の在位は60年を超えることになる。
中原王朝であれば、皇帝がいくら長生きしようが、息子である太子は父親が死ぬまで、特にあせりも慌てもしない。

ところが、騎馬民族の社会ではどうもそうではないらしい。

一つは康熙帝の在位年数が長くなるに従い、リーダーシップ・凝集力が弱まったことがあった。

次に太子である方の息子にも「花の盛り」がある。
つまり自分が皇帝を譲られたときによぼよぼの爺さんになってからでは、周りがついてこない恐れがあるということだ。


騎馬民族出身の王朝では、よくある例といっていい。
例えばインドのムガル帝国は、モンゴルの継承者を自覚するトルコ系王朝として、
皇子らが兄弟同士で殺し合い、最後に残った一人が皇帝を継ぐという伝統を持っていた。

また息子が父親を退位に追い込み、帝位を奪うことも行われた。
皇帝アウランゼーブは、父帝ジャハーン・ギールを幽閉して帝位についている。


康熙帝が選んだ太子も不穏な動きを起こした。
父親が長生きしすぎて自分がいつになったら皇帝になれるのかわからない、といってみるかと思えば、
悪い面は中原の文化を率先して学び、江南の美女を買いあさって世間の顰蹙を買ったりする。

康熙帝にも中原の思考回路になりきれないところがあり、
一番優秀な息子ではなく、嫡子だというだけで本人の資質を考えずに無条件に選んだ太子なのに、
優秀なリーダーとしての資質を求めようとした。

不祥事が露見すると、怒って太子を廃止してしまう。

こうなると、もう中原モードもへったくれもない。
元の木阿弥、素のままの騎馬民族の本性そのままに戻ってしまった。

康熙帝は清朝で一番の子沢山、三十五男二十女を抱えたこともあり、
この数十人いる皇子らが一斉に色めき立った。

その取り巻きらの動きも激しくなった。






古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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