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北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語14、和[王申]の影に怪僧の影あり?

2016年05月14日 09時45分20秒 | 和珅少年物語
このような和[王申]兄弟のチベット通の教養は、どこで養われたのか。
他の満州族官僚と何が違ったのか、と考えると、
それはモンゴル人の継母の関係で家にラマ僧が日常的に出入りしていたのでないか、ということが考えられる。

勤めを果たして現金を持ち帰ってくれる和[王申]の父親がすでに他界しているので、
和[王申]一家はおそらくあまり豊かではなかったろう。

いや、かなり困窮していたかもしれない。
一家の収入源は、外地にある土地からの小作料もあったかもしれないが、
まだまだ出世していく継母の父親、伍弥泰(ウミタイ)に無心することに大きく頼っていたはずである。

それでも嫁に行った娘が実家からいくらももらえるものではない。
まさか家にラマ僧を抱えるほどは経済的な余裕はなかっただろう。

しかし伍弥泰(ウミタイ)本家では、ラマ僧を一人や二人常駐させる余裕は十分にあり、
これは彼らにとってのステータスシンボルでもあったろう。

そんな伍弥泰(ウミタイ)家からラマ僧に出張してきて和[王申]家によく出入りしていたことは、充分に考えられる。

和[王申]は精神の鬱屈した少年であった。
複雑な家庭事情、嫡男でありながら、疎んじられる立場。

早熟な少年のうつろで退廃的な空気をラマ僧は認めたことだろう。

伍弥泰(ウミタイ)は当時の蒙古八旗の中では出世頭であり、
経済力、名声から言っても、モンゴル社会では崇拝される存在であったと思われる。

彼が招聘するラマ僧は、それなりの高僧が呼べたはずであり、そのへんのぺえぺえの小坊主ではない。


そもそも(ウミタイ)自身が、政治で中央の中枢に食い込み、
世の中の何もかもを見届けた人物である。

彼は江寧将軍として南京や新疆のイリやウルムチに赴任している。
江寧(南京)は漢族の中心地江南でも精神世界の中心、巣窟である。

この地の士大夫らは、知識も経済力も文明度も極限まで上り詰め、
斜に構え退廃的、かなり扱いにくい連中である。

それら士大夫の支持を得られねば、清朝政権は倒れるといってもいい。
大事な場所である。

また新疆はまだ清朝の版図に入ったばかりの新しい領土のため、
この建設はさまざまな困難を伴ったことと思われる。

このような政治の大舞台で活躍している人物が自宅に僧侶を置くとすれば、
それは何もただ単にお経を読んでいればいいだけではなく、
精神的に高度な哲学的刺激を与えてくれるブレーンを求めているのである。
生半可なレベルの僧では太刀打ちできるものではない。


和[王申]自体もただの少年ではない。
頭も切れる上、両親をなくし、継母と異母兄弟との葛藤の中で揉まれるという
年不相応な苦労を重ねた世をすねた少年である。

軽薄な大人が中途半端な説教をしたって、耳を傾けるものではない。



 

 元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。


北京再造―古都の命運と建築家梁思成
多田 麻美
集広舎


大好きな本です。北京城を守ろうとした梁思成のお話。


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