原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

小野田寛郎という人

2014年02月25日 11時42分43秒 | 社会・文化

 

ひと月ほど前、新聞に小さな訃報記事が掲載された。小野田寛郎氏のものだ。記事を見た瞬間、あ、日本で亡くなられたのか、という不思議な安ど感があった。同時に1974年にルバング島から帰国した小野田寛郎氏の映像が蘇った。1945年に戦争が終了した後、29年間もジャングルの中で戦い続けた兵士の姿であった。瘦せた小さな体であったが、背筋を伸ばし、眼光鋭く、直立不動で敬礼。身体全体で日本軍を表現するかのような姿であった。ブラジルへ渡った以後の小野田氏を報じるテレビがあった。それをみるたびに、印象がどんどん変わっていったのを覚えている。

 

こういう表現が適切かどうか分からないのであるが、ブラジルに行った後の小野田氏はきわめて普通の人、普通の日本人であったと思う。違和感があったのは、やはり1974年当時の抜き身そのものような姿の印象が強烈で、そのギャップが抜けきらないためだった。当時はいろいろな評価があった。軍人らしく最後のに日本兵と呼ばれ、外国の報道には、日本人が忘れかけた骨董品のような人物とか、古い侍が戻ってきた、などなどさまざま感想が内外から湧き上がった。多くの日本人は戦争犠牲者の一人というとらえ方で小野田氏をみていたと思う。同時に上官の命令を忠実に守る日本的な忍耐、恭順、犠牲的精神の塊のような人物に見えていた。

こうした姿は多くの日本人の心を揺さぶる。小野田氏に日本中からお見舞いという名目で寄付金が寄せられた。日本政府も当時100万円ほどの慰労金を出した。小野田氏は戸惑ったという。自分は決して日本軍の犠牲になったと思ってはいなかったからだ。慰労金をもらう資格などないとも思っていた。むしろ犠牲になったのは島田と小塚の二人に部下の戦闘死であり、生き残った自分をむしろ恥じていた。だからこそ、その寄付金は靖国神社にすべて提供するのである。彼にとっては普通の行動であったが、世間はそう見なかった。軍国主義の復活とか、戦前の精神がくすぶり続けているとか、彼に対する非難の声があがったのである。小野田氏は戸惑った。自分が知る日本がそこになかった。自分が必死に守ろうとした日本の姿がそこに感じられなかった。彼がブラジル行きを決心した最大の理由がそこにあった。

当時、靖国神社はA級戦犯の合祀もされていない。それなのに、そこに寄付をするというだけで軍国主義と言われたのである。小野田氏にとっては、29年のブランクを感じたと思う。浦島太郎の心境に近い。昔は誰もが自然にもっていた考え方が、まったく否定されたのだから。自分の知る日本と全く違う世界に愕然とした気持ちは理解できる。

 

当時、様々な批判がわき上がっていたことも記憶している。小野田氏が29年間も投降しなかった理由の一つに、ルバング島での犯罪があったというもの。作家の津田信は小野田氏の手記のゴーストライターとして数カ月生活を共にしている。その時のことを本にして、「島民を30人以上殺害している。中には正当化できない殺人もあった。戦争の終結を承知しており、残置任務など存在せず、密林を出なかったのは、片意地な性格に加え、島民の復讐を恐れたからだ」と批判していた。

 

晩年、インタビューに答えている。「戦争に負けることは1年ほど前から理解していた。だから、その後の準備のための作戦がルバング島であった。残置任務として最低でも3~5年闘うことを命じられていた。当初は10人近くの部隊で3人ずつ分かれて作戦を実行していた。二つの班が早々に投降して、小野田班のみジャングルに残ることになった」「29年間で133回の戦闘を行っている。すべて計画に基づいたもの。隠れてはいたが、自分たちの存在を日本に知らせるためのものだった」「グアム島で穴倉に隠れていた横井さんとは違う」

たしかに、小野田氏も投降後に死刑を宣告されることを覚悟していた。任務を解除されたなら投降して、フィリピンの法律で裁かれる。それで死刑だろうと。その覚悟の上での投降であった。ジャングルから現れた時のあのぎらぎらとした抜き身そのものの姿は、死を覚悟したものだけが発する獣に似ていた。それは軍人とかサムライという概念とは全く違うもの。生き死にをかけたジャングルで棲息する獣が発するオーラであった。

どうやら津田信という作家は、小野田氏の本当の心情をはかり知りえなかったのではないだろうか。島民の復讐を恐れていただけなら、逃げる方法はいくらでもある。何度も小野田氏を探して捜索隊が入っている。連絡する方法はいくらでもあった。作家の批判は確実に的を外している。

 

小野田氏が特別な人だったから、長期間の任務を実行できたのか。これもまた違うだろう。ブラジル後の小野田氏をみても分かるが、きわめて普通の人。金属バット事件を聞いて自然塾を開いたように、日本人のために一生懸命になれる人であった。ものすごくまじめな人に見える。それは日本人そのものの本質なのではないだろうか。他人(ひと)のために何かをするというのは、日本人特有に持っている性質だと思う。ボランティア精神が日本の習慣にあまりないとよく言われる。これは欧米人のボランティア精神と比べるからそういう評価になる。欧米人のボランティア精神は宗教に基づくもの。ところが日本の精神には宗教は関係がない。ボランティアとか考えるまでもなく自然発生的に行う。ボランティアという言葉にするから日本人にはなじまないだけなのではないだろうか。

(投降した時の小野田氏) 

断片的だが、小野田氏が発していた言葉を思い出す。「天皇陛下との接見をお断りしました。私は陛下の命令で残置任務をしたわけではなく、陛下も困るのではと思ったからです」「靖国には特別な思いがあります」「どこで死にたいか?どこでも気にしない」「戦争の犠牲になったとは全く思っていない」「もう一度人生をやり直しても、思い通りにいく人生なんてありません」「子供は家を出るべきです。いつまでも家にいるから事件(金属バット)が起きた」

 

91年と10カ月の小野田寛郎の歴史は幕を閉じた。そのうち33年間を戦場で生きた人生。日本のために身をこなにした人生であったことは紛れもない事実だ。

 

小野田寛郎(1922年3月19日~2014年1月16日)。和歌山県生まれ。所属組織:大日本帝国陸軍。予備陸軍少尉。小野田牧場経営。

*巻頭の写真は1944年、22歳の時の小野田氏


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2 コメント

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週刊誌の記事で… (numapy)
2014-02-25 13:52:33
投降までのいきさつをよんだことがあります。
その記者が津田信かどうかは記憶がありませんが、
投降を決断するまでに、相当何回か接触してたと記憶してます。
自分だったらどうだったろうか?この長期間、1人で生きてこれただろうか?と
自問自答したことも覚えてます。(結論は、デキナイ!でした)
ブラジル移住、結婚などのエポックも記憶してます。
確かに日本には彼の「日本」はなかったんでしょうね。
先日、訃報の際に天皇との接見を断ったことを初めて知りました。
それにしても帰国してもう40年も経ってたんですね。
どういう思いでこの40年を生きて来たのか…合掌。



発見者は一人の若者でした (原野人)
2014-02-26 10:36:14
最初に小野田氏と接触したのは鈴木紀夫という20代半ばの青年。冒険家と称してました。彼はヒマラヤで遭難して死亡してます。享年39歳だったとか。
津田信という作家はよく知りませんが、戦争体験もある作家のようです。小野田氏の体験談を本にする時ゴーストライターとして雇われたようです。1977年に自らゴーストライターであったことを名乗り、同時に「幻想の英雄」というタイトルの本を出版しています。その当時で60歳くらいだったと思います。その本の中で小野田氏のことを自らの感想を加えて執筆したようです。軍人体験のある作家がなぜ、小野田氏の心情を理解できなかったのか、残念ながら分かりません。戦後の民主主義というGHQ主導の教育の影響を少し感じます。

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