A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

冷戦時代にロシアの曲をとりあげたジャズアルバムとは・・・

2014-07-05 | PEPPER ADAMS
Russia Goes Jazz / Teddy Charles

巷では集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、世の中戦争への準備が着々と進んでいる。大きな渦の中に巻き込まれてしまうと、徐々に起こる変化は身近に起こっても鈍感になってしまうものだが、これはやはり前提が大きく変わる大転換だ。

政治に無頓着な国民が増え、世の中全体が「ゆでガエル症候群」になっているのだろう。本来であれば熱湯の熱さにびっくりしても良い出来事なのだが、このまま熱さが分からずに茹で上がってしまうのか?
熱さに気が付いた時には、「時すでに遅し」といことにならないようにしなければ。
歴史は繰り返すとは良く言ったものだ。

何事においてもそうだが、ルールで禁止しなくても本人の倫理観と自覚に任せればよいとよく言われる。法による禁則を外しても悪いことがすぐ起こることは無いともよく言われるが、世の中そんなに甘くは無い。どんなに完璧な人間と思っても、自制心が効かなくなる事が当たり前のように起こる。
「何々してもよい」という主旨のものが、いつのまにか「何々しなければならない」と履き違がえることもよくある。法を悪用しようと思えば何でもできるということだ。時の宰相の誤った判断による行使が行われないことを祈るばかりだ。

太平洋戦争中は、敵国の言葉である横文字は使用禁止、ジャズも敵性音楽と見なされ急激に下火になったと言われている。反対に、アメリカでは戦時中は、ジャズの演奏は一線の兵士の慰問も兼ねて、戦争中でも良く演奏された。結果的にスイングジャズの興隆のピークを極めた。

本来であれば文化活動は戦争とは無縁の物、何も規制しなくてもよいとは思うが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということだろう。何も外敵との争いだけではなく、国内の覇権争いでも文化活動に制約を加えることは良くある。覇権争いをして一国の独裁を狙う当事者にとってみれば、民衆の心を掴むものは自分以外何であって気に食わないということになる。

1962年10月、チャーリーミンガスのタウンホールコンサートが行われていた時、世はまさに米ソ冷戦の真只中。そのピークともいえるキューバ危機は同じ10月の出来事であった。世の中は戦争の勃発を予感させピリピリした緊張感が漂っていたと思う。
しかし、一方でその年の7月にはベニーグッドマンオーケストラがソ連を親善訪問していた。太平洋戦争の状況に当てはめれば、真珠湾攻撃の直前にアメリカからジャズバンドを招聘したようなものだ。

米ソの間では、表向き戦争と文化活動は別物であった。政治的には東西の対決が緊張していく中、1958 年に米ソ文化交流協定が結ばれ、その第1弾として行われたのがベニーグッドマンのツアーであった。
当然、ソ連のジャズファンからは熱狂的に歓迎され、地元のジャズメンともジャムセッションが繰り広げられたようだが、このコンサートを聴いたフルシチョフ首相はこのグッドマンの演奏を快く思わなかった。

そして、この年の12月に行われた前衛画家の展覧会で、有名な「ロバの尻尾」発言をして、前衛的な芸術活動が制約を受けることになる。当然ジャズも公に認知されたものではなくなってしまう。せっかくソ連でもブーム到来の下地ができたのだがフルシチョフが解任される1964年まではおおっぴらに演奏することも難しくなってしまった。
一人の独裁者の判断で何事も決まってしまう恐ろしさだ。

ペッパーアダムスの1962年はこのような中での演奏生活であった。
それまでの八面六臂の活躍と較べると、この年の活動はレコーディングも少なく、レギュラーグループに参加することもなく、タウンホールでのハップニングコンサートの後もミンガスとのプレーで終わりを告げたようだ。確かに世の中全体を席巻したハードバップムーブメントも徐々に下火を迎えていたが。

年が明けると、アダムスはライオネルハンプトンのオーケストラに加わってラスベガスに
いた。経済的には、このようなバンドのメンバーになるのが安定していたのだろう。
ラスベガスに滞在中、アダムスはハリージェイムスから年俸10000ドルで誘いを受ける。生活のためには、多分ハンプトンオーケストラよりさらに好条件だったであろう。しかし、アダムスは、当時のハリージェイムスオーケストラ自体の演奏がコマーシャル化していた事、そしてソロのパートが殆どな無いオーケストラには興味を持てず丁重に断った。スタジオワークは色々参加しても、レギュラーグループへの参加となると拘りがあったのだろう。
4月までハンプトンのバンドで過ごすと、アダムスは再びニューヨークに戻る。

そこで、早速テディー・エドワーズからレコーディングの誘いを受ける。
それまでも、アダムスは実験的な取り組みを数多くしていたテディーチャールスのセッションに加わる事は何度かあったが、今回のレコーディングは”Jazz Goes To Russia”と題された意欲的なものであった。

当時の時代背景を考えるとキューバ危機は去ったとはいえ、敵国であったソ連(ロシア)を題材として取り上げるのは挑戦的であったに違いない。
ソ連では確かにグッドマンの訪ソもあってますますジャズブーム到来の下地はできたが、アメリカでソ連の音楽が話題になっていたとは思えない。ところが、ロシアといえばクラッシクではヨーロッパの伝統を引き継ぎ有名な作曲家を多数輩出している。

そこで、選ばれたのはチャイコフスキーやストラヴィンスキーなどの有名作曲家の作品から。これらの曲を素材にジャズの味付けをした演奏に仕上げている。
集まったメンバーはアダムス以外も一流処のソリストが揃った。短めのソロだが、いずれも素材の良さを生かして、チャールズのバイブやフルート、バスクラなどを使った軽妙なアレンジに仕上げている。アダムスのソロもDance Arab, Bordin Bossa Novaで聴ける。ジャズは素材を選ばず、何でもスイングさせてしまうワールドミュージックだというのを実感するアルバムだ。

このアルバムもレーベルはユナイテッドアーティスト。なかなか意欲的な切り口で取り組んだアルバムが多い。




1. Scheherazade Blue       (Korsakoff) 3:45
2, Lullaby Of The Firbird     (Stravinsky) 5:02
3. Love For Three Oranges March  (Prokofieff) 2:21
4. Borodin Bossa Nova       (Borodin) 3:37
5. Dance Arabe           (Tchaikowsky) 2:49
6. Lullaby Russe          (Khachaturian) 4:25
7. Etude              (Prokofieff) 3:11
8. Princes Scheherazade      (Korsakoff) 4:45

Teddy Charles (vibes)
Haward McGhee (tp)
Jerome Richardson (fl,ts)
Jimmy Giuffre (cl,ts)
Zoot Sims (ts)
Eric Dolphy (bcl)
Tommy New som (bcl)
Pepper Adams (bs)
Hank Jones (p)
Hall Overton (p)
JimHall (g)
Jimmy Raney (g)
Ted Notick (b)
Osie Johnson (ds)

Recorded on April 23& May 6, 1963 in New York


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