Paradox Box

意味は持たないが韻を持つ題名を持つブログ。

言葉が世界を形作る

2005年02月12日 | Weblog
およそ一ヶ月と半月前の2004年12月26日、スマトラ沖で想像も出来ないような大勢の人を犠牲にしたTUNAMI(津波)が発生しました。その死者および不明者の数は一月三十一日に三十万二千人を超えたそうです。今いるアメリカから見れば地球の裏側で起きた災害、その事件発生から一ヶ月半以上も過ぎ、次第にメディアの露出度も減り、過去の災害になりつつありますが、まだ多くの人たちが津波の影響で生活に支障をきたしている生活をしています。この大災害、津波の多い日本で生まれた自分たちには決して人事ではない災害だと思います。

そんなこれからも歴史に残るような大災害が2004年の最後に発生しました。だけど、この大災害のニュースを見ていて一つの疑問が自分の中に浮かびました。こういう大災害が起きた時は大体英語や災害が起きた現地の言葉が使われると思っていたけれど、何故TUNAMI(津波)と日本語が世界の共通語としてこの災害に使われているのか。単純に、津波の多い日本から世界に広がったと考えられるけれど、なんだかそれだけじゃあ、物足りない気がするのです。

そもそも津波というこの言葉は「港(水深が低いところ)で急に高くなる波」という意味で、昔、港を“津”と呼んでいた事から、“津波”という言葉が生まれたらしいです。そして昔からあったこの言葉をハワイに移住した日本人が、ハワイの海で起きる高波を見て、“津波”という言葉を使った事から世界に広まったといわれています。

そして、さら詳しく知るために、ここでとっても有名らしいスイスの言語学者ソシュールが登場するのである。ソシュールという人が書いた「一般言語学講義」という本にはこの疑問に「あぁ、そういう事ね」と解決に導いてくれるような事が書いてありました。その本で彼が語っていることは「言葉によって名づけられる前に物や観念は存在しない」という事。つまり「津波という言葉があって初めて津波がわかるように、言葉があって初めて世界が分かる」という事。
私たちは、まず物理的対象が実在的に存在していて、それに言葉のラベルを貼り付けている。だから津波という言葉もまず津で高くなる波があって、そしてそれに津波というラベルを貼ったという事になる。しかし、もし「津波」という言葉がなかったら“津で高くなる波”はただの波という世界しかなくなってしまう。波の世界が先にあるのではなくて、津波、白波、荒波などの言葉が波の世界を切り分けているという事になる。

ここで以前「偉大は偉大」というコラムで書いた本の例を参考にしてみると、まず日本人に二つの違う種類の弁当を見せると、日本人は「こっちはほか弁で、違う方はノリ弁」と答えられるだろうが、アメリカ人に見せてもそれは両方ともただの“Lunch Box”に他なら無い。それはアメリカ人にはほか弁やのりべんという言葉の概念が無いからであって、日本人にはそれがある。つまり弁当の世界は日本人の方が広いと言えるのである。

このことから分かるように、津波が起こらない地域はやっぱり当然のようにその言葉の世界を持ってない。でも津波がよくおきる日本は津波という言葉の世界を昔から持っていたから、その世界が必要になった日本以外の国がこの言葉を採用したと言えると思います。世界を分節化、そして認識するには言葉のラベルを貼る必要がある。だから言葉が世界を広げるといえるんじゃないでしょうか。

そして、この“言葉が広がることで、世界が広がる”という考えに一番よく共感できるのは留学生なんじゃないかと思うんです。日頃から、日本語だったらうまく伝えられるのにと思ったり、もっと英語がうまかったらなとか思ったりしませんか?もしそうおもったなら、それが言葉が世界を形作るという考えを感じた時だと思います。だって言葉を知らないから、気持ちが伝えられなかった。もし言葉を知っていたら、確実にその時よりは世界は広いと思います。そう考えると、私たちは世界を広げる絶好のチャンスに恵まれているとも言えると思います。それは言葉の面でも、文化の面でも。言葉が広いと、世界も広がる、そして自分の可能性も、自分自身も広げられる。自分たちは今それを求めてアメリカに来たと言えるのかもしれませんね。