由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

権力はどんな味がするか その3(ピグマリオンのジレンマ)

2014年01月06日 | 倫理
メインテキスト:バーナード・ショー 小田島恒志訳『ピグマリオン』(光文社古典新訳文庫平成25年)

サブテキスト:大江麻里子『マイ・フェア・レディーズ バーナード・ショーの飼い慣らされないヒロインたち』(慧文社平成17年)

 

 昨年12月1日に新国立劇場で宮田慶子演出の「ピグマリオン」を見た。台本になっている小田島恒志訳の文庫本もそのとき買った。
 主演の石原さとみは、米国の映画サイト「TC Candler」が選ぶ「世界で最も美しい顔100人」で、今年日本人トップの32位になったそうで、さぞかし綺麗だったのだろうが、何しろ一番安い席で、舞台から遠かったので、顔はよく見えなかった(学生時分からの癖で、観劇に5,000円以上は出したくないのだ)。その限りで言うと、石原は、前半の花売り娘のときは、とても生き生きしていてよかった。しかし、後半レディになると、声が上ずった感じになるのがどうも耳について、あまり楽しめなかった。こちらのほうが彼女がTVや映画で演じている役柄に近いというのに(NHKドラマ「坂の上の雲」の、秋山真之夫人など)、舞台経験の浅い女優はこうなりがちなのはなぜだろう。
 という感想の他には、この戯曲の類まれなる性格が、あらためてよくわかったのが収穫だった。男女関係の一典型が描かれている。ただし、性愛の要素は一切含まずに。これが難しいのは、本作品がその後たどった変遷からもわかる。それについては後述。
 1912年に完成したオリジナル作品に即して言うと、題名にもなっている神話は、一種の(変態的な)恋愛譚ではある。そのヒーローとヒロインだからこそ、作者は敢えて惚れた腫れたを禁じたのではないだろうか。そう考える根拠の一つは、最初から「ロマンス」と銘打たれているところだ。だってこのバーナード・ショーという人、「ロマンチックではないロマンスを見せてやろう」てな思いつきが好きなんでしょう?【もっとも後出の「後日談」には、現実にはありそうもない話だと思われるだろうから、「お話」の意味もあるロマンスと名を付けたのだ、と言っている】。ショーはまた、クレオパトラの色香に迷ったわけではないシーザーを描いているし(「シーザーとクレオパトラ」1898年)、女嫌いのドン・ファン(「人と超人」1902~03年)も創造したし。女に強いマッチョはけっこう好きなんではないかな。
 色恋の代わりに劇の動力となるもの、それは教育である。ここにもまた、駆け引きもあれば嘘もある。当事者たちが社会的に定められたある合意点(結婚とか、卒業とか)に達しない場合には、最も厄介な感情の縺れをもたらす。ドラマチックになり得る要素は、いずれにも劣らず含まれていると言える。

 それでも、「ピグマリオン」の教育は、最初は、自動車教習所での運転のようなものに、教える-教わる範囲が限定されており、危険はごく少ないはずだった。
 ヘンリー・ヒギンズは音声学者である。各地の方言を研究して、話しているのを少し聞いただけで、その人がどこ出身か、直ちに当てるのが特技だった。また、自分でもけっこう乱暴な言葉も使うのに、「正しい、美しい英語」の使徒をもって自任しており、それを人に教えるのを主な収入源としていた。
 さてここに街頭で花を売る娘イライザは、ロンドン下層の、コックニーと呼ばれる「汚い」英語の話し手だった。綺麗な言葉が話せさえすれば、もっといいポジション、例えば大きな花屋の店員になれるのではないかと考え、ヒギンズの授業料も知らず、彼のところへ教わりにやって来る。ヒギンズが、自分が三カ月も訓練すれば、「お前みたいな腐ったキャベツ」でも、大使館の園遊会でも公爵夫人として通用するようにしてみせる、と豪語したからだ。友人のピカリング大佐が、もしヒギンズが言った通りのことを実際にやり遂げたら、授業料は全部自分が出す、という一種の賭けを申し出るので、ヒギンズはイライザを手元に置いて、正統的なキングズ・イングリシュを叩き込むことにする。
 しかし、最大の困難がやがて見えてくる。話し言葉は、話し手の実際の生活、そこでの日常の意識と密接不可分に結びついている。発音だけ矯正しても、生活意識が元のままで、花売り娘が公爵夫人になることはやはりできないのだ。だからこそ言葉は社会階層の標識になるのだし、また「正しい、美しい言葉」を学ぶ需要も出て来る。逆に言うと、言葉を完璧にしようと思えば、意識そのものの改造が必要になる(俳優やプロの詐欺師など、特殊な意識の持ち主はここでは度外視する)。ここでヒギンズの、イライザへの教育は、「人間教育」と呼ばれることもある、危険な領域にまで踏み込むことになる。
 この種の危険は、教育の試みが失敗した時より成功した時のほうが露わになる。ヒギンズ、よりもこの点ではピカリングの存在が大きかったのだ、と後にイライザは言うのだが、ともかく彼らは成功した。大使館の園遊会で、誰もイライザの出自を見抜けなかった、どころか、皆が彼女の優美さに魅了された。これは即ち彼女の成功ではないか? そうかも知れないが、そこでイライザは何を得たのか。彼女は何になったのか? 公爵夫人の皮を被った花売り娘か。いや、上流のマナー(≒意識)まで身につけた彼女は、もう泥の中へはもどれない。ヒギンズは賭けに勝って、自分の技量に満足すればそれでいいので、イライザがこの後どうなるかなどおよそ無関心だ。それは無責任ではないか?
 これは一見不当な非難である。ヒギンズはイライザが望んだことを、望み以上に完全にやり遂げた。それ以外には何も約束しなかったし、後でほのめかすこともなかった。彼女と同居(≠同衾)して、秘書兼女中のように使ったので、いなくなれば、部屋履き用のスリッパがどこにあるのかわからない、とか、今日の予定がわからない、とか、実際上の不便が生じる。また彼女に馴染んでもいる。しかし、それ以上の関係になることは拒む。彼にとって理想の女性は母親(ヒギンズ夫人、と表記される)で、つまりマザコン男であり、「それに、女はみんなバカだから」、劇の最初から最後まで独身主義者である。
 だから、彼がイライザから非難されるいわれはないのだが、ただ一つ、次のように言うことはできる。

誰にでも習って身につけられること(着こなしとか、正しい喋り方とか)は別にして、本当の意味でレディと花売り娘の違いは、どう振る舞うかではなく、どう扱われるかにあるのです。ヒギンズ先生にとっては私はいつまでも花売り娘のままです。先生はいつも私のことを花売り娘として扱われ、これからもずっとそうでしょう。でも、あなた【ピカリング大佐】の前では私はレディでいられるのです。いつだってそのように扱って下さり、これからもそうでしょうから。

 これは劇中最も有名なせりふであり、ショー一流の言い方で、人間世界の一般的な真実の半面を言い当ててはいるが、劇の中では、ヒギンズの唯一の、最大の過ちを告発するものになっている。イライザがいつまでも花売り娘でしかないのは、ヒギンズがそう扱うからだ、と。それでは彼の教育は完成しないはずではないのか?
 ジレンマは双方にある。イライザはレディに相応しい言葉遣いや所作を身に付けたが、生活の基盤はなく、ヒギンズとピカリングに頼るしかない。一方ヒギンズからすれば、イライザをレディとして扱うとは、特別な心遣いが必要な存在を日常生活の中で抱えることを意味する。それはいやだ、できない、となると、ヒギンズとイライザはいつまでも教師-生徒関係を続けるしかない。即ち、教育は終わらず、イライザは決して一人前にはなれない。ヒギンズはそれを望んでいるのか? いや、別に、と彼は言うのだが、実際は同じことになる。
 教育は支配-被支配の、つまり権力関係の一形態である。ヒギンズは、イライザがよい生徒であったからなおさら、生徒に恵まれた多くの教師がそうであるように、それに無自覚であった。そこでごく自然に、なんら後ろめたい気持ちもなく、イライザに対して支配者として振る舞う。イライザから「残酷な暴君」と言われても、全くピンとこない。イライザがこの関係を脱しようと思えば、師であるヒギンズの思いとは無関係に、一方的に「卒業」するしかない。
 それには、彼女に恋焦がれているフレディと結婚して、ヒギンズの元を去ればよい。しかし、フレディは、家柄はいいが、全く無力で無能力な青年だから、生計の道は別に考えなければならない。ヒギンズやピカリングから援助を仰がないとすれば、どうするか。イライザがヒギンズから学んだことを今度は人に教えればよいのだ。音声学、というか、発音の矯正を。そう思いついたイライザを、意外にもヒギンズは歓迎する。「けど、泣きごとを言うよりずっといい」と。「五分前には、君は僕の首にぶら下がる挽き臼みたいに重荷だった。今は、君は頼れる存在だ、味方の軍艦だ。君と僕とピカリングは、もう、ただの二人の男と一人のバカ娘じゃない、三人の独身連合だ」。
 結婚する、と言っているのに「独身連合」とはヘンだが、要するに独立した人間同士の繋がりが保てる、と言っているのだ。それが男であっても女であっても、他人に頼られることは鬱陶しくてたまらない男だから。しかし彼には本当のことはわかっていない。以下はショーが最初に書いたこの劇の結末である。これはネット上でも、ペンギン版でも、一番簡単に手に入るテキストなのに、たぶん現在まで訳されておらず、拙訳による本邦初訳(^^;)ということになる。

ヒギンズ:(前略)ああ、ところでイライザ、ハムとスティルトン・チーズを注文しといてくれないか。それと、トナカイの手袋の八号と、僕の新しいスーツに合うネクタイをイール・アンド・ビンマンズで買っておいてくれ。色は君に任せる。(彼の陽気で、無頓着で、精力的な声は、彼がどうしようもない人間であることを示している)
イライザ:(軽蔑を込めて)自分で買いなさい。(彼女はすばやく出て行く)
ヒギンズ夫人:あなたはあの娘を甘やかしてきたようね。でも、心配することはないわ。私が手袋とネクタイを買ってあげるから。
ヒギンズ:(快活に)ああ、ご心配なく。彼女がやっぱりちゃんと買ってくれますから。さよなら。
(二人はキスをする。ヒギンズ夫人は走って出て行く。ヒギンズは一人残って、ポケットの中の小銭をじゃらじゃらさせ、ほくそ笑んで、自分にひどく満足した様子で寛ぐ)


 イライザは戻る、とヒギンズは確信している。しかし、たぶん、今日明日はともかく、いつかは彼女は出て行くだろう。ヒギンズとイライザの関係がいつまでも続くことはあり得ない。男女関係は、教育とは、似たところはあっても、決定的に別な何かだし、そうあらねばならない。これがショーの確信だったようだ。
 つまり、「ピグマリオン」という題名自体が反語なのである。ギリシャ神話の名工は、自分の手で自分の理想の女ガラテア像を作り上げ、神様がそれに生命を与えてくださった。めでたし、めでたし、になるわけないよ、と少なくとも我々男は、経験上(でしょ?)わかっている場合が多いのではないかな。
 まあ妄想としてなら、例えば、光源氏が幼い紫の上を手元に置いて教育して、自分好みの女に仕立ててから、妻にする、というようなことは、やってみたくはあるけれど。やれるだけの権力や財力はない以外に、自分が一から十まですべて知っている存在と毎日暮らしても、面白くもなんともないのではないだろうか。それに、そうなれば、彼女の一から十まで、男の意思でそうなったことになり、彼女のすべてが男の責任だということになる。そんなものを負いきれるほど立派な男はめったにいない。ヒギンズもまた、大多数のほうに属するのだ。
 「源氏物語」とか、ジーン・ウェブスター「あしながおじさん」(たまたま、「ピグマリオン」が完成した1912年の発表)もその一種だと私には思えるが、これらの物語の中でピグマリオン的試みがうまくいくのは、やっぱり作者が女性で、男性を理想化できるからではないだろうか。以前に取り上げた田山花袋「蒲団」とか、谷崎潤一郎「痴人の愛」だと、男の師匠の、女弟子への性愛感情がモロに入り込んできてグダグダになり、教育は失敗して、女は男たちの支配を逃れる。だからこそ、彼らにとってのファム・ファタル(宿命の女)になる。こちらのほうがどうしてもリアリティがある。

 最後に学問的に、というほどではないが、今回調べられた限りでの、戯曲「ピグマリオン」が辿った変遷の跡を略記しておこう。美しい女がなかなか男の思うようにはならないように、この作品が魅力的であればあるほど、原作者ショーの思い通りにはならなかった。年代順に言うと、
(1)1914年、ロンドン、ヒズ・マジェスティズ劇場初演。ヒーローのヘンリー・ヒギンズはここの劇場主であるハーバート・B・ツリー卿が、ヒロインのイライザは当時五十歳目前のパトリック・キャンベルが演じた。バーナード・ショーは最初からキャンベルに当てて書き、彼女が年齢の点でためらったのを説き伏せることはできたが、その後事故にあったり結婚したりとキャンベル側の事情が重なって、1912年に完成していたこの戯曲の英語での上演が二年遅れたのだった(13年にドイツ語訳がウィーンで、先に上演されている)。
 幕が上がってみると、キャンベル以上にショーを悩ませたのはツリーだった。彼は「そちらのほうが絶対にウケる」からと、ラブ・ロマンスとして演じることに固執した。終幕で去っていくイライザに取り縋ったり、窓からイライザに花束を投げたり。業を煮やしたショーは、16年に出た版本に「後日談」を書いて載せる(今度の光文社文庫版には全文翻訳収録されている)。
 これによると、イライザはフレディと結婚し、ピカリングの援助で花屋を始めるのだ。するとピカリングとは、したがってヒギンズとも、縁が切れなくなるが、彼女の最初の望みに即したものではある。ただ、そうなってもイライザの生活が順風満帆というわけにはいかないことまで、ショーは書いている。それでも、ヒギンズとは結婚しない。
 作者曰く、イライザが、自分にとって最も強力な存在であるヒギンズと、自分の思い通りになるフレディと、どちらとも結婚できるとしたら、どちらを選ぶか、そんなことは明らかだ。それは「女性の本能だ」。「彫像のガラテアがみずからの創造主であるピグマリオンを本当に好きになることは決してない。彼女にとっては彼はあまりにも神のごとき存在であり、到底付き合えるものではないのである」。
 まあ、そうかも知れないな、とまたしても私は体験的に納得する。ただ残念なことに、現実的な話というのは、話としてはあんまり面白くないのである。

 
(2)1938年、映画化される。監督はアンソニー・アスキスとレスリー・ハワード。後者は「風とともに去りぬ」(ヴィクター・フレミング監督、1939年)のアシュレー役で日本でも有名な俳優で、本作のヒーローを演じてもいる。ヒロイン役はウェンディ・ヒラー。原作者バーナード・ショーは脚本にも関わり、アカデミー脚本賞まで得ている。
 ところが、大江麻里子によると、脚本についてとんでもないことが起こった。プロデューサーのガブリエル・パスカルは、この後45年の「シーザーとクレオパトラ」映画化の際には監督もしている、ショーと親交のある人物だったが、ショーが用意した結末がどうしても気に入らず、他人に書き直させた。ショーはそのことを、映画完成後の試写会まで知らなかったという。
 大江の本に「資料」として挙げられているショーのオリジナル台本によると、イライザとフレディがヒギンズ夫人とともに(急に成金になったイライザの父の結婚式に出席するために)車で去ったのち、一人残ったヒギンズの想像として、フレディとイライザが自分たちの花屋で仲睦まじく働くシーンが描かれて、終わりになる。
 実際の映画では、一人自分の研究所に戻ったヒギンズは、録音機に収めた、彼らが知り染めた頃のイライザの声を聞く。そこへもどって来たイライザが、肉声で、録音された言葉を繰り返す。「ちゃんと顔も手も洗っちきたんだ、出掛ける前(めえ)に」(小田島訳による)。ヒギンズは答える。「一体全体スリッパはどこだ、イライザ?」。
 ショー以外の誰かが書いたこの結末(他の脚本家として、W.P.リップスコームとセシル・ルイスの名がクレジットされている)は、その後、舞台のミュージカルからミュージカル映画へと引き継がれる。なぜイライザがヒギンズの元へ戻ってくるのか、映画ではこれ以前に特に伏線はない。逆にこの結末によってのみ、ヒギンズがイライザを愛していたことが観客には印象づけられる。考えてみると、このような終わり方は、その唐突さ(≒意外な結末)まで含めて、特に当時の映画の常套ではある。
 ショーは自分のあずかり知らぬところで起きたこの改変に抵抗しなかったのか? 現在の私にわかっているのは、1941年のペンギン版で、彼は大幅な改定をこの作品に加えていることだ(ピーター・カシラー「イライザ・ドゥリトルはどうなったか」に依る)。因みに、倉橋健による訳(『バーナード・ショー名作集』白水社昭和41年刊所収)も、今回の小田島恒志訳も、これを底本にしている。
 オリジナルの「ピグマリオン」は、典型的な近代劇の様式で、五幕の各幕は、すべて同一場面で展開する。41年版では、第二幕の、イライザがヒギンズを訪ねてくる場面に、イライザがピアス夫人(ヒギンズの家政婦)によって風呂に入れられる場面が挿入される。また、第四幕と五幕の間には、ヒギンズの元を飛び出したイライザが、ストーカーよろしくイライザの姿を一目でも見たいと外に立っていたフレディといっしょに、深夜のロンドンを徘徊する場面が描かれる。非常に映画的、と言うより、映画のシーンがそのまま取り入れられたのである。
 が、ラストは違う。ハムとか手袋の注文をするヒギンズのせりふまではオリジナルと同じで、次がこうなっている。小田島訳で引用する。

イライザ:(軽蔑するように)羊毛の裏地がついているのがよければ、八号じゃ小さすぎます。ネクタイは新しいのが三本、洗面台の引き出しに入れたまま、忘れておいでです。ピカリング大佐はスティルトンよりグロスター・チーズの一級品がお好きです、あなたには違いはお分かりにならないでしょうけど。ハムは、忘れないように今朝ピアスさんに電話で念を押しときました。私がいなくなったら、どうなさるおつもりでしょう。想像できませんわ。(さっと出ていく)
ミセス・ヒギンズ:ヘンリー、あの子のこと、ちょっと甘やかしたようね。あの子はピカリング大佐の方が好きなようだからいいけど、そうでなければあなたとあの子がうまくやっていけるか心配になるところですよ。
ヒギンズ:ピカリング! 何言ってるんですか! あいつはフレディと結婚するんですよ。はっ! はっ! フレディですよ! フレディ!! はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!!!!!
(彼が大声で笑う中、芝居は終わる)


 
 イライザは、少なくとも家政婦としてなら、どれほど高貴な家庭でも通用するほどのマナーを身につけていること、ヒギンズのほうは、愚かしさが減り、イライザが彼の元を去ることを正確に予測する、これを示すのが原作者の最後の希望だった。しかし50年のショーの死後、作品はさらなる変貌を遂げていく。

(3)1956年、「マイ・フェア・レディ」と改題されてブロードウェイミュージカルになる。アラン・ジェイ・ラーナー脚色及び作詞、フレデリック・ロー作曲、モス・ハート演出、ジュリー・アンドリュース主演。
 ラーナーは映画から多くの要素を取り入れている。有名なミュージカル・ナンバーThe rain in Spain stays mainly in the plainは、[ei]の発音がコックニーだと[ai]になるのを矯正するための例文として、映画で初めて出て来る。フレディはオリジナルでは、第一幕と第三幕にだけ出て、イライザにうっとりするだけの文字通りのデクノボーでしかないが、映画版では出番と存在感を増し、ミュージカルではこれまた有名なナンバーOn the street where you live(君の住む街角)をソロで歌うまでになる。
 結末については前述の通り。映画にはなかった伏線としては、イライザの歌うまたまた有名なI could have danced all night(踊り明かそう)が、イライザのヒギンズへの恋心を直截に示している。
 1958年シグネット・クラシックス版の『ピグマリオン マイ・フェア・レディ』に付したノートで、ラーナーは言っている。「私は後日談は省いた。なぜなら、その中でショーは、イライザがどんなふうにヒギンズとではなくフレディといっしょになるか説明しているのだが、――ショーと神よ、許したまえ――私には彼が正しいとは確信できないからである

(4)1964年、映画「マイ・フェア・レディ」。上記の舞台の映画化で、歌はもちろん同じ、脚本のラーナーやヒーロー役のレックス・ハリソンなど、舞台から引き続き参加している。ジョージ・キューカー監督。八つのオスカーを得た名画であり、ハリウッド製ミュージカル映画の代表作。イライザと言えば本作のオードリー・ヘプバーンを思い浮かべる人が最も多いだろう。ショーが気づかなかったか、気づいても等閑視したのは、この作品のシンデレラ物語としての側面であったことは、圧倒的に華やかなオードリーの姿を見ていると、よく納得される。
 また、戯曲「ピグマリオン」と言えば、「マイ・フェア・レディ」の原作、と説明されることが普通になった。かくして、イライザとヒギンズは、原作者の望まぬ形で人々のイメージの中に残り、一方「ピグマリオン」は、それとは別次元で、劇文学として生き続けている。皮肉屋ショーとしては、もって瞑すべきではないだろうか。

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