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言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

「ブログフレンズ」の社会学/ポストモダンの可能性 …その2

2005-10-11 23:32:27 | 創作
  (B) リゾーム・コンテンツ/その現代的可能性

 すでに上で述べたように、「BLOG FRIENS」そのものが従来の同人誌という境界線を越境している。「つくる面白さ」とでも呼ぶほかはない欲望のモナドたちが、BFの外から見れば勝手気まま、無原則的に戯れているのだ。したがって、コンテンツの行方も大方の予想を裏切って拡充(?)されていくものと考えられる。たとえばBFは四コマ漫画を製作できる位置にある。「jump」さんや「テド」さんと文章作家がコラボレートすれば、今すぐにでもそれは可能だ。コミケ会場で「BLOG FRIENS」とあわせ、「魔女」さんがつくったフィギュアを販売するのも即実行できる方法だろう。また音楽好きのメンバーが参画して、楽譜を発表する可能性もある。楽器を使った実演をコミケ会場やweb上で行い、CDを焼いて販売するのだ。アニメの製作さえBFの射程外とはいえない。

 このように、ただ「つくる面白さ」「つくる喜び」だけを共時的に欲望するリゾーム集団は、従来型の組織・集団には考えられない爆発的な可能性を秘めている。これがBFに期待できるポストモダンの可能性だ。

 したがって、BF全体にとってはほとんどすべてが未知の経験だとしても当たり前だ。彼らは未知の領域に踏みこんでいく、イタズラ好きで怖いもの知らずのキッズたちでもあるからだ。ときどき観客たちが唖然として、「そんなことも知らなかったのか!」とスノッブな叫び声をあげたとしても当然だ。BFは、その叫び声さえも呑み込んで変容しつづけていくだろう。いわば、それがリゾームとしての宿命なのだ。

 さて、こうしたリゾ-ム・コンテンツとしての「質」はどうか? というモダン主義者の疑問について考えてみる必要がある。彼らの認識に沿う形で答えるとすれば、「BLOG FRIENS」として発表されるコンテンツの中身は「玉石混淆」である。なぜか?

 「質」を問うモダン論者たちは、「これが文学である」「これが作品である」という、不断の論争に晒されつづけてきた「伝統」によって作品を眺めるからである。また現代における出版関係には、「売れるか売れないか」「買わせるための仕掛けとは?」と問う身もふたもない新自由主義的世界観にのみ浮遊している者もいる。売れるならエロ本でも童話でもこれこそ文学だと言いつのるゾンビたちの「質」的判断など、どれほどのものか? こうした連中にとって、BFがキッズの戯れにしか見えなかったとしても不思議ではない。リゾームとして現代枠を越境してしまうBFにとっては、そうした評価(不評)は名誉にさえ値するのだ。 《続》


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3 コメント

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ブラボー! (もけ)
2005-10-13 10:44:13
さすがにわどさん。

眼から鱗~

感謝感謝です。

わどさんも当然大きな原動力ですからね。
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やあ、もけさん (わど)
2005-10-13 18:33:01
ジャジャリでる必要はないだろう、と思っていたんですが…。しかし、BFという試みがもつ「新しさ」に言及した言説が、もうひとつみあたらなかった。

そこで今頃になって、やむなく恥ずかしい一考察をまとめてみたんです。

なお文中にある「ポストモダン」ですが、ホントは「ポスト・ポストモダン」と書きたかった。でも、それじゃ即「モダン論争」に巻き込まれ、文脈からアッチ行っちゃいそうだったんでね(笑)。まあ、それはそれで面白いテーマなんだけど。
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Unknown (kani)
2005-10-25 07:55:21
今どき、二次創作でない小説中心の同人誌のほうが珍しいわけだが。
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