(C) リゾームの生命力
「つくる喜び」「つくる面白さ」を欲望するモナドたちの戯れに、リゾ-ムとしてのBFの生命力が宿っている。したがって、何らかの枠組みを外からBFに持ち込もうとする企てはことごとく破綻するだろう。たとえば「BFは紙媒体の同人誌を発行する集団である」などもそうだ。モダン論者には理解しにくいと思われるが、個々のメンバーの意識はいざ知らず、BFの運動体にとっては「本」という形体さえあまたある表現媒体のひとつにしか見えてはいないからだ。この点については、コミケに参加する二瓶氏の「誘い」からはじまったBFの歴史が、まだ色濃いと考えることもできる。だが新しいメンバーたちの参画をバネにして、歴史的な経緯さえも軽々と越境されるだろう。BFのメンバーたち(といっても、固定されたものではない)には、喜びや面白さという欲望と、欲望実現に向けた意欲や努力の強弱にしか本質的な差異は存在していないからだ。出発を準備した歴史的な経緯など、彼らにとっては瑣末なものでしかない。個々のモナドたちにそうした欲望がなぜ発生するかという問題は、ひとつの面白いテーマだが、ここでは言及しない。
またBFへの枠組みは、奇妙にも内部から持ち出される可能性もある。なるほど全体として運動体はポストモダン(ポスト・ポストモダン)なリゾームだが、個々のメンバーはこの現代に棲息せざるをえない生活者たちだからである。彼らひとりひとりは、過去社会からの「遺産」を引きずっている。だからBFという生命体に、ひときわ声の大きなメンバーが「現代枠」を設定しようとする可能性もある。従来型の権威主義的な組織にBFを変更しようとする企てだ。
この後ろ向きの変更にたいしては、今のBFなら抵抗力をもっていると思われる。たとえば、この一稿を含めて、BFの「公式コメント」とも受け取られがちな見解は危険性を孕んでいる。これらの「見解」は、なるほどある種の共時的な「代表性」をもっているだろう。だが、ぶっちゃけていえば、欲望については本来的に平等なメンバーのひとりが、どの成員とも意見の調整を経ず、勝手に発したコメントにすぎない。意見の調整があったとしても、事後的なものでしかないだろう。こうした私的な「公式コメント」を、今のBFなら参考資料のひとつに数えつつ越えていくだろう。という確信のもとで、筆者はこれを書いている。
しかし今後、BFが多岐にわたって動いていった場合、一見では「とりとめもない」状態の発生も予想できる。本稿にしたがっていえば、そこにポストモダンの可能性が潜在しているのだが。ところが従来型の権威主義的パラダイムからながめる者には、事態は破壊的な無秩序としか見えないだろう。ここに、BFにたいして「現代枠」を設定しようとする契機のひとつを予感する。こうしてBFは、いつも「過去」と「現代」の、「モダン」と「ポストモダン」の、さらにいえば「ポストモダン」と「ポスト・ポストモダン」のはざ間で乾燥し干上がり、生命力の輝きを消滅させる危機のなかにあるともいえるのだ。 《了》
――BFに集う、愛すべき欲望のモナドたちに捧げる
戻る; 「ブログフレンズ」の社会学/ポストモダンの可能性 …その1 …その2
「つくる喜び」「つくる面白さ」を欲望するモナドたちの戯れに、リゾ-ムとしてのBFの生命力が宿っている。したがって、何らかの枠組みを外からBFに持ち込もうとする企てはことごとく破綻するだろう。たとえば「BFは紙媒体の同人誌を発行する集団である」などもそうだ。モダン論者には理解しにくいと思われるが、個々のメンバーの意識はいざ知らず、BFの運動体にとっては「本」という形体さえあまたある表現媒体のひとつにしか見えてはいないからだ。この点については、コミケに参加する二瓶氏の「誘い」からはじまったBFの歴史が、まだ色濃いと考えることもできる。だが新しいメンバーたちの参画をバネにして、歴史的な経緯さえも軽々と越境されるだろう。BFのメンバーたち(といっても、固定されたものではない)には、喜びや面白さという欲望と、欲望実現に向けた意欲や努力の強弱にしか本質的な差異は存在していないからだ。出発を準備した歴史的な経緯など、彼らにとっては瑣末なものでしかない。個々のモナドたちにそうした欲望がなぜ発生するかという問題は、ひとつの面白いテーマだが、ここでは言及しない。
またBFへの枠組みは、奇妙にも内部から持ち出される可能性もある。なるほど全体として運動体はポストモダン(ポスト・ポストモダン)なリゾームだが、個々のメンバーはこの現代に棲息せざるをえない生活者たちだからである。彼らひとりひとりは、過去社会からの「遺産」を引きずっている。だからBFという生命体に、ひときわ声の大きなメンバーが「現代枠」を設定しようとする可能性もある。従来型の権威主義的な組織にBFを変更しようとする企てだ。
この後ろ向きの変更にたいしては、今のBFなら抵抗力をもっていると思われる。たとえば、この一稿を含めて、BFの「公式コメント」とも受け取られがちな見解は危険性を孕んでいる。これらの「見解」は、なるほどある種の共時的な「代表性」をもっているだろう。だが、ぶっちゃけていえば、欲望については本来的に平等なメンバーのひとりが、どの成員とも意見の調整を経ず、勝手に発したコメントにすぎない。意見の調整があったとしても、事後的なものでしかないだろう。こうした私的な「公式コメント」を、今のBFなら参考資料のひとつに数えつつ越えていくだろう。という確信のもとで、筆者はこれを書いている。
しかし今後、BFが多岐にわたって動いていった場合、一見では「とりとめもない」状態の発生も予想できる。本稿にしたがっていえば、そこにポストモダンの可能性が潜在しているのだが。ところが従来型の権威主義的パラダイムからながめる者には、事態は破壊的な無秩序としか見えないだろう。ここに、BFにたいして「現代枠」を設定しようとする契機のひとつを予感する。こうしてBFは、いつも「過去」と「現代」の、「モダン」と「ポストモダン」の、さらにいえば「ポストモダン」と「ポスト・ポストモダン」のはざ間で乾燥し干上がり、生命力の輝きを消滅させる危機のなかにあるともいえるのだ。 《了》
――BFに集う、愛すべき欲望のモナドたちに捧げる
戻る; 「ブログフレンズ」の社会学/ポストモダンの可能性 …その1 …その2
お大事になさってくださいネ
BF社会学、大変興味深く読ませていただきました。
いろいろよく考察なさってますね。
(あまり深く考えず、コピー&ペーストで
あちこちに安易なコメントをするような
御方もいらっしゃいますが…)
リゾームの一部であることを、よりリアルに感じられるよう
邁進できたらいいなと思います☆
>リゾームの一部であることを、よりリアルに感じられるよう
きみって何者なんだ?(笑)
しかし、きみといい「あじゃ」さんといい、知性派美人軍団(若いほう)が
ときどき来てくれるって、自慢していいよね?
>思います☆
キャーかわいい!! とフザケまわって転んだのでした。
じゃ、また~♪(← ダサッ!)