断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

舞台俳優のアウラ

2013-12-21 21:37:33 | エッセイ
 大学時代の後輩の招待で新橋演舞場の『さらば八月の大地』を観てきた。ほぼ一年ぶりの観劇である。
 観客席に座り、やがて幕が開くと、舞台上の大道具小道具にまじってすでに俳優たちが立ち動いている。だが舞台と観客席の間にはまだ一種の隔たりがあり、俳優たちも軽い違和感をもって私たちの目に映じる。しかし舞台の空気が観客席に浸透し、俳優たちもまた演じる役に沈潜してゆくと、そうした違和感も解消されてゆく。やがて舞台と俳優、観客の三者が不可視の紐帯の中へ織り込まれる頃、俳優たちの身体が、何か存在の光輝とも呼ぶべきものを発しているのに気づく。ベンヤミンのいう「舞台俳優のアウラ」である。
 こうしたものを舞台上の「仮象」と呼んでしまうのはたやすいが、それが具体的な手触りをもって迫ってくるのは確かである。そもそもベンヤミンが、俳優も絵画も自然の風景も一緒くたに「アウラ」という概念で包括しようとしたことに無理があった。たとえば絵画のアウラとは、ジンメルが絵画について述べている「遠ざけつつ近づける作用」を抜きに考えることはできない。一方風景のアウラは、すぐれて人間の知覚様式に属する問題である。他方俳優のアウラとは、ロラン・バルトが「雰囲気」と呼んだものに近い。それは人間の存在論的外皮とでも呼ぶべき何かなのである。
 さてこの『さらば八月の大地』は音楽のない普通の台詞劇だが、劇中、ヒロインが他の登場人物たちの前で歌を披露するシーンがある。ヒロイン役の壇れいが突然、劇の途中で歌を歌いだすのだが、その美しさに私は思わず息をのんだ。歌の美しさに対してではない。彼女の美しさに対してである。あるいはより正確には、俳優としての彼女の存在の存在論的な美に対してである。すでに彼女の存在がまとっていたアウラが、その時いっそう高次の存在へと高められ、高められた存在が舞台の上に充満するのを私は見たのだった。
 私は劇における歌のもつ意味を初めて理解したような気がした。歌は「表現」ではない。「存在」なのである。それは目に見え手にも触れ得る何か、舞台ないしは俳優が放つ存在論的な放射なのだ。
 ミュージカルでは観劇後の余韻が、通常の台詞劇以上にずっと長続きすることは知っていたが、私はそれを、音楽によって強調された劇内容の余韻だと思っていた。言葉だけの台詞が十の力しか持たないのを、音楽は二十にも三十にも増幅してみせる。劇の余韻が長続きするのはそのためだと思っていたのである。しかし本当のところ、増幅されていたの劇の「内容」ではなく、舞台の「存在」だったのである。増幅された「存在」が、私自身の存在の内部へと深く浸透し、それが観劇後の余韻として長く残っていたのである。私がそれに気づかなかったのは、一見したところ歌が、あまりにも深く「劇」に根ざしているように見えたからであろう。あるいは歌が(『さらば八月の大地』とは違って)始終、舞台に鳴り響いていたからであろう。
 オペラについて言えば、私は少年時代からあまりにも深くモーツァルトのオペラにのめりこんでしまったので、オペラ一般を公平に論じる立場にはない。しかも私はモーツァルトのオペラをずっと「音」としてだけ聴いていた。(はじめて舞台でモーツァルトのオペラを観たのは、二十歳を過ぎてヨーロッパを旅行したときである。)しかし今にして思えば、私はモーツァルトの「音」を通して「舞台」を聴いていたのかもしれない。というのも私はオペラの音楽を聴きながら、そこに他の声楽作品とはまるで異なる手触りを感じていたからである。しかしこれはもはや「舞台俳優論」ではなく「モーツァルト論」の課題であろう。

そしてバイクの旅

2013-12-04 17:03:49 | エッセイ
 一方のバスは、車内空間そのものの魅力が乏しい上に、道路という、これまた味も素っ気もない空間を移動していく。旅のツールとしては魅力が乏しいと言わざるを得ない。むろんバスにもメリットはあって、たとえば車窓風景は、道の選び方次第で列車の及ばないような素晴らしいものを提供できる。が、それにしたってバイクや自家用車といった別の選択肢もあるのだから、積極的にバスを選ぶ理由にはならない。残るは費用面の安さだが、これは旅そのものの魅力とは無関係の要素であろう。結局のところバスの役割とは、他の交通手段を補完したり代替したりすることに尽きるのかもしれない。私自身、ほとんど毎週のように東京と静岡の間を往復しているが、バスは使うことはほとんどない。あの狭い空間に三時間以上閉じ込められるのがイヤなのである。
 最後に私自身の好みを言うと、私が一番魅力を感じる旅のツールはバイクである。似たようなツールとして自動車があるが、こちらはあまり好きではない。何よりあの狭い閉鎖空間が苦痛である。オープンカーという選択肢もあるが、小さなスペースの中に身体を閉じ込めるという点では変わらない。親しい相手とプライベートな空間を共有するという楽しみもあるにはあるが、これは車でなくてもできることである。結局、ドライブをしていて楽しいのは、サービスエリアや展望台で車を降りて体を伸ばすひとときということになるだろう。
 それならば自転車はどうなのか。外の空気との一体感という点で、自転車はバイクに勝る。何よりもあの重苦しいヘルメットという代物をかぶらずに済むメリットが大きい。実際私は自転車も大好きである。(学生時代は自転車サークルに所属していた。)しかしどちらを択ぶかといえばバイクのほうを択ぶ。これについては多少説明を要する。
 大まかにいって旅の楽しみは二種類に分けられる。目的地に着くまでの楽しみと、そこに着いてからの楽しみである。前者には旅のプラニングから始まって、途中の車窓風景、車内や船内でのもろもろの娯楽が含まれる。後者には行き先でのグルメや観光、旅宿でのくつろぎなどが相当する。人によってはこれに、旅から帰った後の楽しみを付け加えるかもしれない。思い出話や写真の整理、みやげ物を友人知人に配る楽しみである。
 しかし旅にはもう一つ別の種類の楽しみがある。目的地に着いた瞬間の楽しみである。旅の行き先に着いて列車やバスを後にし、はじめての土地に降り立つあのわくわく感、目の前に無限の未来が開けてくるようなあの感覚、私はあれが大好きなのだが、実はそれはバイクに乗って未知の土地を走るときの感覚と非常によく似ているのである。
 車でドライブしながら眺める景色は、列車やバスの車窓風景と同じものである。その意味でそれは「目的地に着くまでの楽しみ」である。一方自転車に乗るのは、徒歩で自然の中を歩き回る感覚と似ている。それは「目的地に着いてからの楽しみ」に近いものなのである。
 バイクはそのどちらとも異なる。バイクを走らせながら、直接外気に身をさらしている私は、風景を眺めると同時にそのただ中にいる。しかも景色は一瞬として同じものにはとどまらず、私が目にし、そこに身を置いている空間は、絶えず別のものへと更新される。私は未知の風景の中へ、いわば絶え間なく「降り立つ」。それは「未来」に彩られた「現在」の持続であり、あるいは絶えざる現前としての「未来」である。バイクの旅は私にとって「目的地に着いた瞬間」の連続なのである。