断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

卒業する学生に本を勧めるとしたら?

2018-08-17 | エッセイ
 前回の記事の付け足しである。
 私は『ガリヴァー旅行記』のスウィフトが、総体としての人間批判を行ったと書いた。実際に読んでいただければお分かりになるが、スウィフトは、人間性にひそむ底なしのエゴイズムや貪欲、虚偽、卑劣、攻撃性といったものを、ヤフーという種族のありように託して描いている。
 私は映画には詳しくないけれど、たとえばハリウッドの映画で「邪悪な異星人の侵攻に立ち向かう地球人」というのは、とりたてて珍しいストーリーではないだろう。しかし「善良な異星人を侵略する邪悪な地球人」というテーマの映画はおそらく存在しないのではあるまいか。この場合の「地球人」というのは、一部の暴走した人間ではなくて「総体としての人類」である。
 が、現実的条件を一切無視して純粋に論理的に比較するならば、前者より後者のほうが、むしろ「可能性は高い」とさえ言えるのではないだろうか。想定自体はファンタジーに過ぎないにしても、これは十分に「起こりうる」ことではないだろうか。実際、ほんの百年ほど前まで人類は、仲間内でこれと同じことを、ほとんど地球規模で日常的に行っていたではないか。現代日本でも、他人を食い物にすることはほとんど当たり前のこととなりつつある。
 さて話は変わるけれど、大学を卒業し、実際にそんな世の中へ出てゆく学生に、何か一冊本を勧めるとしたら、一体どんなものがいいだろうか。同じく古典的小説の中から、私はバルザックの『谷間の百合』の中にあるモルソーフ夫人アンリエットの手紙を挙げてみたい。これは「悪」の研究というよりは具体的な処世のアドバイスだが、この上なく真率な愛情に満ちており、その意味で卒業してゆく四年生に読んでほしいと思わせるのである。

新入生に本を勧めるとしたら?

2018-08-10 | エッセイ
 昔、社会人二年生の後輩と飲んでいてこんな話を聞いた。彼ら二年生が、新入社員に本を一冊すすめるよう言われたというのである。年齢的に一番近いということもあったのだろうが、思うにこれは、彼ら二年生自身の「自己研修」だったのだろう。誰かにものを教えるというのは、それだけで自分の勉強になる。何よりも日ごろから本を読んでいないと、他人にすすめることなどできない。
 私も学生に本を勧めることはある。個人的に勧めることもあれば、授業の課題図書として強制的に読ませることもある。が、新入生全般を対象にして本を勧めたという経験はない。
 たとえばこれが、自分の専門分野の学生を対象としたものだったら、研究の入門書や必読書という選択もありうるだろう。しかし専攻分野も授業テーマも関係なしに、純然たる一般論として「大学一年生に読んでほしい本」となると、選ぶ基準が見当たらない。個人的に感動した本をすすめるか、さもなくば「古典を読みましょう」みたいな、ありきたりの読書観を振りかざすしかないであろう。
 しかし大学初年度を、専門教育の入り口としてではなく、やがて社会へ出てやってゆく人生行程の一里塚ととらえるならば、話は違ってくるかもしれない。社会で生きてゆくための必須の知、いわゆる人間知を学ぶことを読書基準にすることもできるからである。
 人間知などというと高尚に聞こえるが、要するに人間の「悪」についてのお勉強である。(むろん人間性はそれだけに尽きるわけではないが。)社会に出るとさまざまな人間悪に直面する。虚偽、小心、強欲、狡猾、偽善、打算、虚栄、自惚れ、傲岸、攻撃性、支配欲、事大主義、卑しい党派根性、底なしの拝金主義……。こうした人間悪に、あらかじめ学生時代に熟知しておくことのメリットは大きい。もちろんそれらは、のちに実社会でイヤというほど目にするものなのだが、いったん自分が社会に出てしまうと、組織や人間関係の論理に直接巻き込まれてしまい、かえって客観的に眺められなくなる。
 人間知の勉強は、来るべき社会生活の「予習」である。しかし単なる「予習」であれば、別に本など読む必要はない。現代は、たとえば「ブラックバイト」という格好の「生きた教材」が、大学生向けにふんだんに用意されている。学生をこき使う「ブラックな」研究室も昔から事欠かない。ボランティアをはじめとする種々の社会活動も、生きた人間知を学ぶ格好の場であろう。
 書物で人間の「悪」を知ることは、他人の悪だけでなく自分自身の「悪」への気づきとなるのである。この場合「悪」とは、虚偽や攻撃性といった積極的な意味での人間悪というよりは、むしろ自分の中にある「弱さ」である。
 「悪」にやられるのは必ずしも「善」ではない。むろん善人が悪人の犠牲になるのは「この世のならい」であるが、しかし本当の意味で「悪」にやられてしまうのは、「善」よりはむしろ「小さな悪」のほうである。小ずるい人間は、より狡い人間のカモになりやすい。悪は他人の「弱さ」にうまくつけこむのである。今の世の中は、なるべくうまく立ち回って生きてゆこうとする風潮が強いが、うまく立ち回っているようでいて、実際は自分の弱さに振り回されているだけというケースは多い。悪人の鋭い嗅覚はこうしたものを敏感にかぎ分ける。そしてそれを狡猾に利用するのである。
 さてそれでは人間の「悪」を知るのに、どんな本を勧めればいいのか?ありきたりの答えではあるが、小説を勧めるということになるだろう。むろん小説といってもファンタジーはダメで、人間や社会の現実をリアルに描いたものである。では具体的にどの本をと訊かれたら、「小説全般」と答えるほかないだろう。一冊や二冊の小説を読んだだけで「人間」を知ることはできない。
 しかしそれではブログの記事としては片手落ちなので、「古典的小説」の中から一冊を挙げてみよう。スウィフトの『ガリヴァー旅行記』にふくまれる「フウイヌム国渡航紀」である。これは特定の人物を描写したものではなく、設定も「ファンタジー」なのだが、総体としての人間批判を行っていて、その辛辣さはちょっと比類がない。
 現代の人間批判は、どれほど人間性のネガティヴな側面をえぐり出すにしても、またいかに人間の自由な「主体性」を否定してみせようとも、総体としての人間までは否定しないように見える。こうした傾向は、ルソーの思想の遠い残響といえなくもないが(ルソーはスウィフトのちょうど後の世代)、それよりもむしろ、現代において「神」が不在であることによるのだろう。「神」を否定し、「人間」まで否定しまえば、もはや肯定の対象はなくなってしまう。
 なるほど人間という「概念」は時代によって変遷し、場合によっては「終焉」するかもしれない。しかしそのことと、人間が自己についての価値感情をもつことは別の事柄である。「神」が「存命中」は、それに託して人間性のポジティヴな側面を語ることもできた。だがそれはもういない。「神は死んだ」(ニーチェ)のである。「人間」とは、あるいは私たち現代人に残された最後の信仰対象なのかもしれない。

写真の追加

2018-08-10 | エッセイ
 追加の写真です。「お座り」を仕込まれたご近所のペットさんです。(ウソですよ。)


前期の授業終了

2018-08-04 | エッセイ
 先週の木曜日、8月2日に前期の授業が終了した。採点などの作業もほぼ終わり、夏休みに「突入」である。気がついたらブログのほうも、二か月以上更新していない。気にはかかりながら、ずるずるとサボってしまった。書こうと思っていた記事もいくつかあるので、少しずつ書いてゆくことにします。
 今日はとりあえず写真を三枚。
 一枚目は自転車でよく行く瀬戸川の勝草橋というところからの眺め。
 二枚目はもっと上流に行ったところで見つけた山羊。(このときは3,4匹の山羊がいたのだが、その後、何度行っても、なぜか一匹も見かけない。)
 三枚目は用宗の町でみかけた猫の写真でである。


 





黒俣の春

2018-05-17 | 旅行
 久能尾(きゅうのお)という終点でバスから降り、すぐそばの橋の上でサンドイッチをかじった。四月の第一週。空がきれいに晴れ渡っている。橋の下には軽やかな沢音が響き、川岸の桜からしきりに花吹雪が降っている。
 ここは藁科川の支流・黒俣川が、国道362号線から離れる地点である。362号線はここから急峻な山岳路となり、大井川の上流、千頭の町へと通じている。黒俣川沿いには県道が最奥の集落へ延びている。私はその県道を歩き始めた。
 茶畑の石垣が静かに日差しを浴びている。黒い板張りの民家が、庭先に色とりどりの布団を干している。澄みわたった絵画のような風景。みずみずしい午前の空気が、その画像をかすかに震わせている。すぐに集落は途切れ、沢音ばかりが耳につく暗い谷筋へ入った。
 しばらく行くとまた小さな集落が現れた。桜の花がしきりに降っている。道というよりは花の中を行くようであった。歩くうちに谷が大きく広がりだした。鶯がぎこちない囀りを試している。日が高くなり、次第に汗ばむような陽気になった。
 南アルプスの南の端にあたる静岡には、安倍川やその支流・藁科川に沿って、無数の谷が開けている。中でもここ黒俣の谷は、とりわけ春が楽しい谷である。狭い沢筋の道を抜けた向こうに、小別天地のような山里が広がっているのと、大きく湾曲した黒俣川が、安倍川本流とは逆の南の方角へ伸びて、まばゆい南の空を見上げながら歩くことになるからである。この日も稜線に、すでに初夏を思わせる暑い雲がかかっていた。山の面に薄い靄のような暑気がにじんでいる。
 まばゆい日差しを孕んで光源のようになった雲を見上げながら、川の上流へ向かって歩いて行った。春の奥へ、ひたすら奥へと分け入っていくような気分だった。する内に風景そのものが、巨大な陶酔のように私を包み出した。山のかなたに、何か完全無欠な春の原型とでも呼ぶべきものがあって、そちらへ向かって一歩、また一歩と近づいていくような気持ちだった。どこか遠くで飛行機の音がかすかに響いている。それがこのはるかな感じをいっそう強めた。
 暗い杉の常緑に、萌黄や浅緑の色とりどりの芽吹きがまじっている。その中に満開の桜が、ピンク色の若葉のように燃えさかっている。日を浴びた川の面が、迅速な歌のようにきらめいている。ときどき日陰に腰を下ろして休んだ。見上げると山腹に、南国らしい常緑樹がキラキラと葉を輝かせていた。
 どれくらい歩いただろうか。やがて道は川を離れ、急なヘアピンカーブとなった。県道を離れて民家の庭先のような小道を登り、有名な銀杏の樹がある高台に立った。樹齢500年。県の天然記念物にもなっている大銀杏である。
 振り返ると谷の奥の急峻な山肌が屏風のように迫っていた。若葉の色が細い。山の上のほうはまだ冬枯れの景色である。いかつい褐色をした高い稜線に、いくつかの桜の木があでやかなピンク色をほころばせていた。
 高台からは谷が一望のもとに見渡せた。大銀杏は、わずかに芽吹いた枝々を屈託なく広げ、黙々とそびえている。周囲に咲き誇る桃やコデマリ、レンギョウの花を従えながら、それは偉大な物見櫓のように、光あふれる黒俣の谷を見下ろしていた。