断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

ふたたび教師の新学期

2012-04-29 16:58:55 | エッセイ
 ふたたび新学期がはじまった。ABC(アー・ベー・ツェー)から接続法(英語の仮定法に相当する)にいたる長い道のりの開始である。
 初級文法の授業では、教師の思惑と学生の反応がしばしば食い違う。「難しいかもしれない」と思って与えた課題がそうでもなかったり、逆に「易しいだろう」と思ってやらせたことが、学生にとってはひどく困難だったりする。何年も教えていると、だんだんそうしたことは減ってくるが、それでも完全になくなるということはない。
 こうした「食い違い」が生じるのは、教師の頭にはドイツ語文法の見取り図がしっかりとインプットされているのに対し、学生の側にはそれがないからである。教師もはじめは(つまり大学一年で学びはじめたときは)「五里霧中」の状態だったのに違いないのだが、長年専門家をやっていると、そういう状態を忘れてしまう。初学者が味わっている「難しさ」の感覚を追体験できなくなってしまうのである。
 学生(その語学の初学者)と語学教師の関係は、たとえて言えば探検家と現地案内人のようなものであろう。熟練した案内人は、その土地を歩くのに地図を必要としない。彼は地形を体で覚えこんでいる。一方の探検家はそもそも自分がどこにいるのかさえ分からない。彼は「五里霧中」なのであり、方向感覚の欠如があらゆる不安や恐怖の原因となっている。したがって案内人は、やみくもに目的地へ急いだりせずに、まずはその土地の大まかな見取り図を探険家の頭の中に作ってやるよう配慮すべきである。そのためには自分の「土地勘」をいったん括弧に入れ、探険家の味わっている「五里霧中」の感覚を追体験してやる必要があるのだが、これがなかなか難しい。
 先日、書店の語学コーナーで、たまたまイタリア語の文法書を手に取った。その本をぱらぱらとめくっている内に、突然、新しい言語をやるときのあの「五里霧中」の感覚が蘇ってきた。(ちなみに私はイタリア語を全く勉強したことがない。)そのとき思ったのだが、語学教師というのは、たまには自分の知らない言語をかじってみるべきなのかもしれない。むろんこれは「かじる」程度であって、本格的に勉強しようと思えば体がいくつあっても足りないであろう。

シューベルトとドヴォルザーク

2012-04-07 22:25:53 | 音楽
 ともに音楽史上、屈指のメロディー・メーカー。しかしそれとは別の意味で、私は二人にある共通点を感じるのである。
 シューベルトは古典派からロマン派への移行期に位置する音楽家で、厳密にはロマン主義の作曲家とは呼べないかもしれない。しかしその音楽は、やがて開花するロマン主義音楽のさまざまな可能性をいわば萌芽のかたちで示し、時代精神の黎明期に特有のみずみずしさを湛えている。これは作品内容の暗さ明るさとは別次元の話で、たとえば「冬の旅」という歌曲集は、内容そのものは絶望的に暗いが、音楽の底には暗さを超越した若々しさが流れている。
 このことは後期ロマン派の作曲家、ブラームスやマーラーなどと比べてみると明らかである。彼らの作品はその根底部分に暗いよどみが漂っている。これは一個の文化の末期時代に特有の現象であって、こちらも曲想が明るいとか暗いとかいうのとは無関係の事柄なのである。
 シューベルトからシューマン、メンデルスゾーンを経て、ワグナー、ブラームス、マーラーへといたるロマン主義音楽の歴史を俯瞰して分かるのは一個の時代精神の消長であるが、そこでは誕生と成長、成熟、老化、そして死というプロセスに対応するかたちで、それぞれの時期に固有の情調が刻印されているのである。
 ところで私は、シューベルトの音楽と同種の「みずみずしさ」を、ドヴォルザークの音楽にも感じる(たとえば彼の交響曲第六番や七番など)。しかしこれは考えてみればおかしな話であって、音楽史的にドヴォルザークはブラームスと同時代人、後期ロマン派に属する。ロマン派音楽の歴史ということでいえば、明らかに彼は終末期の薄明を生きた人間である。シューベルトとは置かれている歴史的状況がまるで違うのだ。
 だとすると問題にすべきは、むしろ「国民精神」のほうなのか。(ドヴォルザークはチェコ音楽の勃興期に活躍した。)それともそれは、純粋に個人的な資質の問題なのだろうか。
 これに関して私は断定的なことはいえない。シューベルトに対するブラームスやマーラーのような存在が、ドヴォルザークの場合には見当たらないからである。(なるほどチェコは、ドヴォルザークの後にもヤナーチェクを生んだ。しかしヤナーチェクはもはやロマン派の作曲家ではない。シューベルトとブラームスを比較するようには、ドヴォルザークとヤナーチェクを比較するわけにはいかないのである。)彼の音楽には歴史的な参照点が欠落している。
 ともあれ私自身は、ブラームスやマーラーよりもシューベルトやドヴォルザークのような音楽が好きである。あるいはもう少し時代が下って、二十世紀の音楽のほうが、よほど風通しがよくて気持ちがいい(もちろんものにもよるのであるが)。おそらくこのことは、私の生きている現代という時代の風通しの悪さとも関係しているのであろう。