断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

列車の旅、バスの旅(3)

2013-11-17 14:51:28 | エッセイ
 バスの車内空間は乗客が自由に行き来することができない。座席は座るために特化された場所であり、乗客は目的地まで、この狭い場所にとどまっていることを余儀なくされる。列車の空間はこれに比べるとずっと余裕がある。私たちは座席から立ち上がって車内を行き来し、トイレや洗面所を使うことができる。あるいは座席の上でパソコンを広げたり、ボックス席で小宴会を開くことも可能である。そこには居住性と呼べるものが(少なくとも最小限のそれが)存在している。
 そうした点で列車は、バスと船(客船)の中間に位置するといえるかもしれない。客船はそれ自体で立派な居住空間を持っている。豪華客船ともなればそこにコミュニティーと呼べるものが形成される。そしてそのようなコミュニティーは、船内が独立した居住空間であることに負うところが大きい。居住空間に人が集うと、無意識の交感作用とも呼ぶべきものが生じる。そのような交感作用ないしはコミュニティー性は、列車の空間にも(船よりはずっと希薄ではあるが)生じている。実際、同じ車内に乗り合わせた客には相互のマナーが要求されるが、それはコミュニティーの内部で要求される類のマナーであって、単なる公共道徳とは微妙に異なる種類のものである。
 たとえば私たちは、車内で携帯電話をかけてはいけないという「マナー」を共有している。それは車内での通話が物理的に迷惑であるという以上に、何とはなしに不愉快を感じるからである。私たちは、知人と話をしているときにたまたまその相手の携帯が鳴って目の前で話し出されたりすると、自分の存在を無視されたようで不愉快になる。一方、街中ですれ違う他人が携帯で通話していても大して気にしない。列車の車内空間はいわばこの二つの中間に位置するといえる。通話は、車内に生じているゆるやかなコミュニティー性を踏みにじる行為なのである。実際、乗客どうしの会話はさほど気にならないが、それはその会話がコミュニティーの内部で行われている行為だからであろう。
 列車に乗り込むということは、単に乗り物の内部へと空間的に移動することではない。それは日常生活とは異質のコミュニティーの内部へ足を踏み入れることなのである。プラットフォームから車両への移動は、それ自体、日常空間からの離別を意味している。旅は「目的地に着く前からすでに始まっている」のである。
 かくして列車の旅とは、二重の意味における日常生活からの離反である。一方ではそれは、現実の空間から表象の空間への移行を意味する。他方ではそれは、日常のコミュニティーから非日常のコミュニティーへの移動を意味する。この二つが交差して重なり合うところに、列車の旅の魅力は成立する。


列車の旅、バスの旅(2)

2013-11-10 23:20:24 | エッセイ
 乗り物の内部空間の問題はさしあたり措くとして、まずはバスが走る「道路」と列車が走る「線路」とを比較してみよう。両者はともに一次元の「線」だが、性質はかなり異なっている。
 道路は、なるほど地図の上では複数の土地を結ぶ「線」であるが、実際にはそこを多くの人や車が行き交う「場所」であり、(一定の制限内で)前後左右自由に移動できる。それは「線」というよりは「面」あるいは「空間」である。防音壁に囲まれた4車線の高速道路などは文字通り一種の閉鎖空間であるし、商店街の道路なども人々が行き交う「場所」である。逆に車がほとんど通らない山間の林道などは、道が外部空間そのものに融解してしまい、別の意味で「線」ではなくなってしまっている。
 一方、線路のほうはどうだろうか。線路も道路と同じように、一定の敷地を占有する「空間」である。しかし前後左右に移動できる道路とは異なり、線路の上は「前」と「後」にしか動けない。それは物理的には「空間」だが、機能的には「線」なのである。さらに私たちは、列車で移動中に物理的存在としての線路というものをほとんど意識しない。線路すなわち二本の鉄の棒は、列車に乗り込むやいなや私たちの視野から消えてしまう。これは道路を走る場合とは対照的で、車やバスで移動するとき、私たちは道路という「場」をたえず意識させられる。乗客にとって線路は「虚」の存在だが、道路は「実」の存在である。
 「線路は続くよどこまでも」という歌がある。あそこで歌われている「線路」とは、遠い異郷の地と日常生活の場を結ぶロマンチックな媒介物である。(これを「道路は続くよどこまでも」という風に変えてみると、そのバカバカしさは明らかであろう。)その意味でそれは、現実の存在であると同時に主観的な存在、私たちの心の中で「この地」と「あの地」をつなぐ内的表象としての「線」である。その際注意すべきは、「この地」と「あの地」の隔たりが、空間的であると同時に時間的だということであろう。内的表象としての「線」は、私たちの中にある時間のイメージと切っても切り離せぬものであり、「遠い土地」はいわば「時空の彼方」に定位されるのである。鉄道ファンにとって時刻表が重要なアイテムであるのは、おそらくそのためであろう。
 列車の旅においては、線路(物理的存在としての線路)が「虚」であり、経路(表象としての「線」)が「実」である。一方のバス旅においては、道路(物理的存在としての道路)は「実」であり、経路(地図の上での「線」)は「虚」である。列車の旅をするということは、いわば日常の生活空間から表象の内部へと身を移すことなのである。が、それは同時に、列車という固有の空間の内部へ身を置くことも意味している。それでは列車の内部空間とはどのようなものなのだろうか。

列車の旅、バスの旅(1)

2013-11-04 22:24:32 | エッセイ
 先週末は大学が学園祭で、金曜日の授業が休講となった。秋のセメスターが始まってちょうど一ヶ月、そろそろ疲れもたまり始めていたので、ほっと一息つけた。ちょうど11月の初日で、折から風一つない穏やかな小春日和だったから、昼から大井川の川根温泉へ出かけてきた。
 ここへ行くときは、いつも金谷から大井川鉄道に乗って行くのだが、この日は島田からバスに乗ってゆくことにした。これは島田市の運営しているコミュニティーバスというやつで、途中で乗換えがあったりしてちょっと面倒だが、川根温泉までたったの二百円で行ける。鉄道だと往復で二千円近くかかるから格安である。(ただし鉄道には温泉料金込みのチケットが用意されているので、実際には千円くらいしか違わない。)が、今回バスを使ったのは、単にお金の問題だけではない。毎回同じ車窓風景で、いい加減飽き飽きしていたから、たまには違う景色を楽しもうと思ったのである。
 鉄道は主に大井川の右岸を走るが、バスは左岸を行く。右岸も左岸も大した違いはないと思われるかもしれないが、実はかなり違う。大井川ほどの大きな川になると、両岸が大きく離れていて、橋も数キロごとにしか架かっていない。場合によっては岸の向う側とこちら側とで別の生活圏だったりする。昔どこかで、「大井川右も左も茶摘かな」という句を見たことがあるが、はっきりいってこれはフィクションである。両岸の茶畑を同時に見るのは、双眼鏡でも使わなければできない相談である。
 さて肝心の車窓風景であるが、正直、がっかりするほどつまらないものであった。比較的交通量の多い生活道路だったせいもあるが、何の見所もない退屈なバス旅であった。大井川沿いの絶景を走る鉄道とは雲泥の差である。(終点近く、丘の上から温泉と川を見下ろす鳥瞰的な眺めがあって、これが唯一いい景色といえるものだった。)むろんこれは私の側の勝手な失望であって、バスは住民の利便性のために走っているのだから、たまにやってきた観光客にとやかく言われる筋合いはないわけであるが。
 今回はたまたまこういう結果になったのだが、それにしても鉄道とバスとでは、いわゆる旅の情趣というものが大いに異なるように思われる。「鉄道おたく」はあまた存在するが、「バスおたく」はほとんどいないという話を聞いたことがある。狭苦しいバスの車内空間と、比較的ゆったりとした鉄道のそれとの差によるのだろうと思っていたが、どうも話はそれほど単純ではなさそうである。仮に列車と同等の車内空間をもつバスが作られ、風光明媚な観光道路を走ったとしても、それで鉄道と同じになるわけではあるまい。逆にどこかのローカル線の線路をアスファルトの舗装路に変え、その上にバスを走らせたとしても、「鉄路」の雰囲気が完全に失われてしまうわけではないように思われる。