今までは何気なく通り過ぎてしまっていた「城門」と「石垣」。
今年に入って皇居東御苑を訪ね歩くたびに、城門や石垣にもそれぞれに歴史があることを知り、すっかりハマってしまいました。
城門については一部アップしたので(まだまだあるけど^^;)、今日は石垣のことをこれも一部アップしたいと思います。
※画像は3月に撮影したもの
皇居東御苑(江戸城跡)内、本丸跡と二の丸跡をつなぐ坂道、「汐見坂」。
この坂の両脇の石垣をよく見ると、石の積み方が全く異なることに気が付きます。
これは年代による技術の違いだそう。
右側の石垣は三代将軍家光時代の石垣で、
「切込み接(きりこみはぎ)・布積み」※という年代的に新しい技術。
隙間なく整然と積み上げられています。威厳もあり厳かな印象。
それに対し、
左側の石垣は、二代将軍秀忠時代の石垣で、「打込み接(うちこみはぎ)・乱積み」※という年代的に古い技術。
横方向の石が不揃いで、ところどころ隙間にも小さな石を詰め込んであります。どこか野性的な印象。
※打ち込接、切込み接は積み石の加工状態
※乱積み、布積みは積み石の積み方
石垣を見て、石を加工する技術や積み重ねる技術の進歩が分かり、だいたいの年代がわかる、ということを知りました。
ところで今では想像もつきませんが、
かつては「日比谷入江」と呼ばれる海面が江戸城のすぐそばまで迫っており、東京湾を見下ろすことができたことから「汐見坂」と名付けられたそうです。
そして江戸時代の初期頃に大量の土砂で埋め立てられ、大名屋敷が建ち並ぶ景色が広がっていたんだって。それも今では丸の内高層ビル群です。
あと、今は石垣のみですが、汐見坂の坂上には「汐見坂門」という門があったのだそう。
お次は、江戸城へ登城するための門のうちのひとつ、三番目の門、中之門跡。
(登城は、大手門・大手三之門・大手中之門・中雀門の四つの門を通らなければならなかった)
中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用され、目地がほとんど無い「布積み」の石垣で、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積む「切込み接」の技法で積まれています。
平成17年(2005)から平成19年(2007)まで20ヶ月かけて解体・修復工事が行われました。
解体・修復の際には様々な遺物が出土・発見されたとか。
また石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、
西国大名から献上されたと考えられます。
こうした石垣は、大名の登城路や天守台主要な部分だけにみられるものです。
今は土台の石垣のみですが、江戸時代はこの土台に櫓や多門が建ち並び重厚な門があったらしく、圧巻だったことでしょう。
中之門を通って左に進むと、大形の石材が積まれた石垣が見られます。
本丸正門の中雀門前の石垣なのですが、焼け焦げたようになっています。
明暦の大火(振袖火事)の際、燃えた天守台にあった石垣で使えるものに関しては、中雀門前の石垣に転用して築くよう命じられたんだとか。
リサイクルされていたのですね、いやリユースか。
そして四番目の門、本丸正門の中雀門跡。
中雀門は、文久3年(1863年)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼したそうで、石垣の表面は熱によりこげた跡がありデコボコになっています。
凄まじい火事だったことを、物語っています。
そして、ここがかなりの大きさの門であったことがうかがえる門柱の跡。
登城には四つの門を通る必要があったと書きましたが、江戸城本丸前は先ほどの「中之門」と「中雀門」の、二重の堅固な構えで守られていたのですね~
石垣が物語る歴史を垣間見ながら往時を想像し、散策するのもいいものです。
江戸城の歴史の名残はまだまだ都心の各地にあるので、少しずつ歩いてみようと思います。
☆千代田区観光協会、皇居参観ガイド等、参考。
城門記事→江戸城跡☆城門あれこれ
江戸城跡☆城門めぐり~北桔橋門・乾門~
江戸城跡☆城門めぐり~平川門~
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