老いについて 2

2017-06-06 20:23:36 | 日記

 生老病死というのは、仏教の基本テーマである。この生老病死が、いわゆるイメージや理屈などではなく、この身(み)に実感する事として起きる。というのが老いである。そしてこの生まれる、老い、病む、死はどれもみずからが選択したり、望んでしてきた事ではない。受け身のことなのである。で、誰にも順当に訪れる事なのだ。けれど、じっさいにそのことがやはり差し迫って考えざるを得なくなるのは、老いをじっかんするからである。

 さて、人としてここにあるということが、受け身としてある。この事実はあんがい自分自身に、受容できてないのではないか。それは、われというのは、言葉を生きているからである。言葉と言うか思いではナマのあり方を認知できないようになっているようである。だから、なんとなくであれ生きることそのものに、意味や理由があるものとしている。しかしながら意味や理由などない。それは人の都合としてあるにすぎない。この受け身はいわば絶対受動なるもので、いのちそのもののはたらきであるからだ。そこでは、ただはいと手を合わせることしかできないのだとおもう。この時点で事態は受け身ではなく、能動性に変っている。積極的、能動的にならないとモチベーションは上がらないのだ。アスーリートたちが、オリンピックでメダルを取るぞぉと、前向きになってこそ毎日の練習に耐えることができるのだ。

  つづきは次回の時にでも。

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