第11章原文後半部分です。
つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみてまふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢、疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆへについに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。
つぎに、自分の思慮分別で善と悪のふたつについて、それらが往生をたすけたり邪魔したりするというように考えるのは、そもそも誓願の不思議な力をたのみとせず、それで自らの心を強めて往生しようということですから他力ということをしらず、自行になっている。こういう人は名号の不思議さもしらないでいる。辺地は浄土の片隅。懈慢は快楽を追い、真実の法を求めることを怠ること。疑城は疑いにこりかたまっていて、胎宮は胎児のように光明に接することができないもの。こんなものでもやがて弥陀四十八願のうちの二十願(自力念仏者のすべてが名号をとなえて真の往生をとげはてるまでは、自分もさとりをひらくまいとの誓願)によってついに往生できるのですから、名号の不思議、誓願の不思議これらはひとつのことなのですよ。
辺地懈慢、疑城胎宮とはよくぞ言うてくれる。こういう表現があるということに、いまさらながら驚く。われというものは(わたしの知る)どこまでいってもこの自分がかわいいし、ここから出るのはいやである。いつもいつもこの自分の好き嫌い、いいわるいなどの範囲のなかだけで動いていて、ここからだけ世界を、ありようをのぞいてこわごわ生きておる。