暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ほんの少しだけど散歩した

2017年03月28日 17時11分18秒 | 日常

 

 

体がなんだかだるいような眠いような日々なのだがそれでもこんな気持ちのいい日差しの午後には家の中にいるのがもったいないような気がして歩けるだけ歩いてみようと外に出た。 運河の向う側に出てこの間歩いた丘のある公園には行かず昔ローマ人が駐屯していた砦跡が公園になっているところがありその端のグループ農園に近所の男たちがブドウの木を何本も植えて道楽でワインを作っているからその芽をみてから帰ってこようと頭の中で道順を考えデイパックを背中に家を出た。 

分厚い部屋着のカーデガンにマフラーをして喉元を締め真冬でもウォーキングに耐えられるコートを着る。 暖かいからジッパーをせず羽織るだけにして歩き始めると外気に触れ暖かそうなのでそのうちコートを脱いでカーデガンだけで歩くようになる予感があった。 運河にかかる橋を渡っていると運搬船がやってきてその後ろの方にはこの間追突されたベンツと同色の同じステーションワゴンが乗っていた。 

自分の車は先週保険会社から連絡があり全壊と決定があり70万ほどの保険金がでるとの連絡があった。 2週間ほどでどこかでまた中古を探し乗れるようにしなければならない。 車はなければないで過ごせるのだがそれでも姑の様子が振れているのでそのためにも車は必要だ。 当分の間自分は車には乗れないので息子に家人向けの車を物色してくれるよう頼んでおいた。 

1mほどのワインの木が20本ほど3列に並んでいるところに来てみるとまだ芽も出ておらず4,5人の男たちが作業を終えたところのようだ。 見知った顔はなかった。 土地の端の方に新しくもう一筋土を掘り起こし畝を作っているところだった。 ここには1年に一回か二回くるのだが前回は小さく固い青いブドウの粒が沢山できていた時で6月か7月ごろだっただろうか。 世話人のハンスから仲間にならないかと誘われたのはここを始める5年ぐらい前だっただろうか。 人夫がたりないから誰にでも声をかけていたのを知っている。 今でこそ地球温暖化の影響かこんな寒冷のオランダでもワインができるようになったといえ白はドイツでも盛んだけれど赤の美味いのを作るんだというハンスには肯首しかねて返事はしなかった。 一人の男にどんな木の種類なのか訊いても知らなかったからその男は別の男に尋ねて赤いブドウだと答えがあったけれど彼らは本当に真剣なのかどうか疑わしかった。 家から10軒ほど離れたところに住むハンスは自分の家の庭にもブドウの木を植えてあって近所のそれぞれの庭にブドウを植えてある男たちと同好会を作って秋には収穫祭をやって共同で50本ほどの壜にしている。 自分たちで凝ったラベルも作っていてコストの方が高くつくから会員とその家族でない限りは飲ませてもらえない。 だから会員になって飲もうという勧誘をするのだがそんなワインは酸っぱいに決まっていると言って無理にでも飲まない。 それはハンスの仲間の家庭ワインだけれどこの菜園のワインは別のクラブになっているから夏に砦で考古学フェスティバルなどがあった時にはここの砦の名前をつけたラベルで売っており試飲をしたことがある。 ローマ時代の赤ワインだというがその頃にはこんなところではワインなどできず南からローマ人が運んできたもので、砦の端っこで2000年後に穫れた赤の味は覚えていないから美味いとも渋いともいえないものだったのだろう。

菜園にはハーブが色々植わっていて細かなタイムを摘まんで指で擦ると甘い香りがした。 一昨年南仏プロヴァンスを歩いた時に辺り一面が野生のタイムのこんな甘い香りで一杯だったことを思い出した。 南の豊かさと北の寒冷地オランダの厳しい風土の差が歴然としている。 それでもローマ帝国の北端を北に北に推し進める前進基地の一つがここで、豊かな南のローマから来た兵士たちが何もないこんな寒冷の地で過ごした日々を想うと同情しないでもない。 3mほど土盛りをした縁に上がると息が切れた。 ほんの10歩ほどなのだが眩暈がしそうだ。 250mx150mほどの駐屯地の跡を眺めてここで2000年ほど前に500人ほどのローマ人が蛮族オランダ人を遠目に眺めながら過ごしていたのだ。 何年も前にイングランドとスコットランドの境目、湖水地方を歩いたことがあった。 その時ローマ帝国が一番膨張したときに北端だったというあたりを歩いた。 1000mほどの山脈の尾根筋を牛車が通れる石畳を作って資材運搬の補給路としていたのだそうだ。 1979年に万里の長城に立って延々と続くその規模に呆然となったことを覚えているけれどこの時もローマ帝国のほぼ北端がスコットランドの端だったことに想いが行って同様の感慨を抱いたものだ。 だからここはローマ人がイギリスに渡る前に近くを流れるライン川を帝国の北端としていた時代に築かれた砦だったのだ。 長さ6-7mほどのあまり大きくもない平底船で徐々に整備されていた運河や10kmほど離れた北海まで出て海岸沿いに物資を運搬していたというそういう原寸模型もあったがその小ささに気抜けがした。 狭い内陸部の水路を縦横に素早く移動するには最も効率がいい船でこれで数百、千に及ぶ船団を組んでの物量作戦だったと説明にあった。 これでは外海には出られないから主に内陸部の運河沿いに使われたものだろう。 ドイツ、ベルギー、フランスあたりにはもうそういう交通網が出来ていてそれはその後細かいヨーロッパ中のネットワークとなって今でも使われている。

その復元された船のそばに、ここからブロンズ製の騎馬兵の仮面が出たとのボードがあった。 何のこともない小さな溝のそばだったのだがこの仮面が出た時にはオランダ中が湧いた。 それは当時若手のオランダ流行歌の人気者、ゴードンに似ていたからでいまでもゴードンの首とも言われている。 説明によると水の神に航行の安全を祈願して投じられたものだとのことだがほぼ2000年経っても当時の輝きはそのまま残っていて印象深いものである。 我々がここに越してきた1991年にはここには3軒の農家が温室栽培の土地としてその縁を子供を自転車に載せて丘のある公園まで行くのに通過していたぐらいの田舎だったのだがそれから5年ほどしてそこに数千戸の住宅を建てる計画が出て土地を造成するときに掘り返したら地面からこれが出てきて急遽町の文化財保護委員会が大学の考古学研究室と図って地質調査をし、その結果砦の部分を公園として残すことにしたのだった。 我が家から運河越しに遺跡に続く部分には今では数千戸の住宅が完成していて景観が変わったし思ってもいなかったローマ時代の遺跡公園までできている。 古いものと新しいものが混ざる奇妙な場所ではある。

下に古地図に「マティロ」とでているこのローマ軍駐屯地のサイトを牽く。 そこにはゴードンの首も見られる

 https://nl.wikipedia.org/wiki/Matilo

公園を出て近くのスーパーに入り朝食用のジャムとローストビーフを買い、運河越しに我が家から見える老人介護施設の建物の前のベンチに来て座りジュースを飲んでいると近所の80になるヤンが何も持たず歩いて来たので話しかけた。 この5年ほど認知症が進んでいて記憶があやふやになるのだというから外に出るときは奥さんと一緒の時が多い。 去年の夏に一人でここから1kmほど離れたところを歩いているのを見て心配になり奥さんに言いに行ったことがあるのだが、ヤンはあんなだけれど慣れたルートがいくつかあってそれを辿るのには心配ないと言われていた。 だから今回もその散歩のコースを歩いているのだろう。 アジア人の顔をしているから自分が誰だか名前もどこに住んでいるのかもう憶えていないものの「知っている人」のリストに入っているようだ。 ちゃんと返事は普通にして、天気がいいから散歩しているんだと言った。 ヤンと別れて橋を渡り自宅に戻ると2kmほど歩いたことになっていた。



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