公開当時は賛否両論を呼んだものの、今や映画史上のベストテンに必ず入る、殿堂入りの名作SF。人類の夜明けから月面、そして木星への旅を通し、謎の石版“モノリス”と知的生命体の接触を描く。一応のストーリーはあるが、映画はその物語性を放棄し、徹底した映像体験で構築されている。猿人の眼前に屹立するモノリス、それに触れた猿人が骨を武器として用い他の猿人を打ち殺し、空高く放り投げられた骨は一瞬にして宇宙船へと変わる--その、史上最も時空を超えたジャンプ・カットを後に、舞台は宇宙へ移行する。『美しき青きドナウ』や『ツァラトゥストラはかく語りき』といったクラシックをBGMに、悠々と描き出される未来のイメージ。そして、木星探査船ディスカバリー号での淡々とした日常業務。やがてコンピュータHAL9000に異変が起こり、ボウマン船長は光り渦巻くスターゲイトをくぐり抜けスター・チャイルドとして転生する……。訳知り顔で、作品の根底に眠る意味を解く必要はない。座して体験せよ、そういうフィルムなのだ。
以上が映画データベースの記述である。 知人に貰ったDVDをパソコンのモニターで観た。 本作を初めて映画館の大スクリーンで観てからほぼ半世紀になる。 そのときの衝撃はヨハン・シュトラウスと宇宙船の映像が甘く美しい宇宙空間遊泳幻想を掻き立てるもので、それ以後様々な映像が我々の前に現れるとシュトラウス・宇宙船の映像が必ず脳内の参照源として引き出されてくるものとなった。 当時宇宙から見た地球の映像で正確で美しいものは本作のものぐらいしかなく魅入られるように眺めたものだ。 それがこの50年で様々な実像、CG映像に慣らされた我々は改めてみる本作の画像に一種映画の看板的なブラッシュワークをみることができるもののこの50年と言う時間を考えるとそれも自分たちの眼が「すれてしまった」ものとしてその書き割り像を看過することができる。 自分たちは戦後このようなSF画像を小松崎茂のイラストで見てファンタジーを掻き立てられてきたではないか。 これから先どんな美しくリアル感を盛り立てる映像が造られていくかしれないものの本作のこの映像はどの年代にも参照先として受け継がれていくことは間違いがない。 例えば宇宙船の形にしてもこれほどクラシックなものはあるだろうか。 地球からリング状の宇宙ステーションに客を運ぶ航空機/ロケットの美しさは現実のロケットの醜さを露呈させ、こうでなければならないと諭すようでもある。
本作を封切り当時高校生の自分が観てそのファンタジーにはついて行けないものがあった。 謎の石板とされているものを地球上には存在しない金属でつくられたものだと思い込んでいた。 そしてそれが「猿の惑星」における自由の女神像と同等に見た。 つまり本作での猿「人類」たちはこの金属板モニュメントを造り消滅した前世代に次ぐ次世代の人類だと考えたのだが、そこにつけられた題の「人類の夜明け」というものをどの人類なのか、人とは何かという戸惑いに陥らせる。 そして月面に現れた同様のモノリスに対面すると、それでは月はもともと地球だったのか、それとも地球と思っていたものがどこかの星であったのか、それを解こうとあれこれ映画を見ている間に探っていたことが思い出される。 その石板が後ほど宇宙空間に漂い恒星が一直線に並ぶその構図の中に位置される図柄が現れるに及び、またボウマン飛行士の経験する今としては少々ノスタルジックではあるサイケデリックな画像が現れるに及び自分は理を追うことを放棄した。 そして本作の印象は茫洋としたもののまま残り、その後様々な「宇宙もの」に接するけれどそれらは物語として消費される種類のものだったが本作は消費されず抽象化されたままで残っていた。 今回二度目として観るに及んでほぼ50年前に観たものが自分の記憶そのままの「ストーリー」としてあったのに少々驚いた。 というのは50年も経つとストーリーの紆余曲折のプロセスが記憶を変え自分の思い込みが別のストーリーとして独り立ちすることが多いという経験によるからだ。 それだけ本作の構造がある種単純で明確だったということなのだろうか。
本作では音声・効果音・無音が本作を一級作品とするのに決定的な働きをしている。 我々は耳への直接の音の伝播には空気が必要であると知っている。 20℃であれば1秒に300mほど空気中を音が伝わり稲光がひらめいた時に数を数え始め音が聞こえた時の秒数に300をかけてその源の距離を算出して遊んだのは少年の頃のことだ。 けれど宇宙空間には空気は存在せずたとえ金属にものが衝突しても何も聞こえない。 スターウォーズの戦闘場面では花火が散るように敵の宇宙船が破壊される。 その効果音は幾らリアルに響いてもそれは我々の俗情に沿ったフィクションである。 キューブリックはその俗を排してシュトラウスを配したことが記念碑的創造であることが一つ、無音を効果的に配置したことが一つ、 宇宙飛行士の呼吸音を継続的に流すことで無限の宇宙の中の生物を象徴することからコンピュータの反乱の犠牲者となって死亡した飛行士が宇宙に漂い離れていく際の無音はリアルなものである。 ただ奇妙で不思議な宇宙空間の「音」を現すのに昔から伝統的なチューブを絞り出すような音を加えるのはすでに映画史上伝統となっているものに沿ったものだろうか。 オリヴィエ・メシアンの現代曲に現れる電子音にも似て屡々宇宙空間を表すときに用いられている宇宙の「音」である。
本作の2001年から16年経過しての現在である。 精々北朝鮮が中性子爆弾を搭載した大陸間弾道弾をどうするこうする、中国が月面に中国人を何年かまでに到達させる、いう時期でもあり慢性的な経済停滞期にあたり本作のような大型の宇宙ステーションはある種健全で楽天的なまでのファンタジーである。 もう普通になった地球上を周回する宇宙ステーションからの中継でみる機内のごてごてした狭さと本作の夢のように広くスタイリッシュなインテリアを見ると逆に今が本当に2017年なのかという想いも湧いてきそうになるだろう。 本作で近い将来のこととして1990年代のことが語られる。 1960年代からすれば当然のことではあるのだがこのことからして当時の経済成長下での予測が70年代のオイルショック、80年代の経済不況が無ければこうなるだろうという楽観的な図となっているものと見做しても差しさわりがないだろう。 技術的なことはさて置き無尽蔵に資金が使えただろう当時の夢の宇宙ステーションには60年代のヴィジョンが体現されているようでもある。
ここでの夢は白人の夢である。 有色人種はでてこない。 リング状の宇宙ステーションまで出張する研究者と機内のスチュワーデスは60年代の航空会社パンナムの未来像でありスチュワーデスの容姿は当時のヴォーグやファッション誌のグラビヤを飾る姿であり、また本作での男たちのスマートな背広姿と髪型を今では見慣れた現在の宇宙ステーションから中継される各国の研究者たちの半袖ポロシャツ姿と比べてみると2017年の垢抜けしないアメリカ的技術者たちの実像が浮かび上がる。 キューブリックが「時計仕掛けのオレンジ」でみせた別のスタイリッシュな像が思い起こされて対照的である。
見えない未来を可視化するというのは同時に現在を可視化するということでもある。 我々は1968年制作当時のファンタジーを見ることでそれからの距離と半世紀経っての現実を重ね合わせその間の時間を実感する。 そして技術的なことには測量可能だとしても地球外知的生命の存在、コンピューターの反乱については1968年当時の距離からとは未だ大して距離を隔てていないようにも感じるものだ。 それはこの50年と言うのが時間の経過が早いというのか遅いと言うのかその尺度を考える縁となるものでもある。