終戦記念日は、父の誕生日でもある。
父は、肺がんを患い死亡しました。
愛知県のとある町の鋳物工場を経営していた父は、名古屋店でもある自宅で取引など仕事をしていた。小さな事務所なので、事務員さんは一人。事務員さんと言っても父の妹と名古屋店を仕切っていた。工場へ行くとき以外は自宅にいて、窓ガラスが黄変するほどのヘビースモーカーで、
癌が発見された。医者は三ヶ月の余命と家族に宣告。昭和63年当時は、まだ、本人には宣告されることは少なかった。治療と母の看病で一年間の延命の後帰らぬ旅に。
父は仕事以外でも、ライオンズクラブや中小企業主の仲間で、ゴルフやお酒の席に出かけ留守がちでした。
それでも、在宅の時は、母の手料理を美味しそうに食べ、鍋やすき焼きの時は自ら鍋をしきり楽しそうだった。但し、弟達が行儀悪くすれば、容赦なく叱った。
家事を手伝うことなくガスの使い方さえ知らない父で、母の外出を拒み、私が女子大付属高校から美術大学に進路を決めた時猛反対するなど、頑固親父の見本のような父でした。
そんな父も、父の日は外食の日と決まって、自ら行き付けの小料理屋に家族を連れて行ってくれた。
珍しい料理を惜しみなく家族のために注文してくれた。父は得意げに笑みを浮かべていた。
家族揃って父の笑みに答えるかのように楽しく一時を過ごすことが、父へのプレゼントと信じていた。
なぜか、ライオンズクラブの家族旅行で、おかっぱ頭の私は、父の足に両腕で巻き付いていた光景がいつも思い出される。大勢の人を前に恥ずかしく父にくっついていたのかもしれません。
大正13年生まれ、今元気な母とは二歳違い。まだまだ、元気でいて欲しかった。
娘と孫達も連れて、母のところ行ってきました。
5歳と1歳の男の子。男の子の食欲は素晴らしいわね。
食べっぷりが気持ちよかったです。母も、そんな孫達を目の当たりにして喜んでいました。
父も健在でしたら、どんなによかったでしょう。
父は、肺がんを患い死亡しました。
愛知県のとある町の鋳物工場を経営していた父は、名古屋店でもある自宅で取引など仕事をしていた。小さな事務所なので、事務員さんは一人。事務員さんと言っても父の妹と名古屋店を仕切っていた。工場へ行くとき以外は自宅にいて、窓ガラスが黄変するほどのヘビースモーカーで、
癌が発見された。医者は三ヶ月の余命と家族に宣告。昭和63年当時は、まだ、本人には宣告されることは少なかった。治療と母の看病で一年間の延命の後帰らぬ旅に。
父は仕事以外でも、ライオンズクラブや中小企業主の仲間で、ゴルフやお酒の席に出かけ留守がちでした。
それでも、在宅の時は、母の手料理を美味しそうに食べ、鍋やすき焼きの時は自ら鍋をしきり楽しそうだった。但し、弟達が行儀悪くすれば、容赦なく叱った。
家事を手伝うことなくガスの使い方さえ知らない父で、母の外出を拒み、私が女子大付属高校から美術大学に進路を決めた時猛反対するなど、頑固親父の見本のような父でした。
そんな父も、父の日は外食の日と決まって、自ら行き付けの小料理屋に家族を連れて行ってくれた。
珍しい料理を惜しみなく家族のために注文してくれた。父は得意げに笑みを浮かべていた。
家族揃って父の笑みに答えるかのように楽しく一時を過ごすことが、父へのプレゼントと信じていた。
なぜか、ライオンズクラブの家族旅行で、おかっぱ頭の私は、父の足に両腕で巻き付いていた光景がいつも思い出される。大勢の人を前に恥ずかしく父にくっついていたのかもしれません。
大正13年生まれ、今元気な母とは二歳違い。まだまだ、元気でいて欲しかった。
娘と孫達も連れて、母のところ行ってきました。
5歳と1歳の男の子。男の子の食欲は素晴らしいわね。
食べっぷりが気持ちよかったです。母も、そんな孫達を目の当たりにして喜んでいました。
父も健在でしたら、どんなによかったでしょう。
今日、山友の父上の告別式に参列しました、昭和2年のお生まれでした。 生きておられたら、この方と同じ年代でしたね。お友達とお酒を酌み交わすのがお好きだったようです。 そしてやはり肺がんで亡くなられました。
曾孫さんが男の子だから、きっと目を細めておられたことでしょうね。
難しい父でしたよ。
私が父の足にまとわりついた頃までかしらね。
後は、父が娘に対する優しさを態度出すことはありませんでした。
他所のお父様見て、いいなあって羨ましいことがよくありました。
それでも、頑固な父の姿が、家にありよかったかなあと思います。