くさぶえの道

身辺雑記 思い出の記

食べる話

2015-04-26 21:15:04 | 参加する
この住宅にも自治会がある。会長以下4名の役員が毎年交代で任に当たる。入居4年目の私にもその番が回ってきた。曲がりなりにも体が動ける間に引受けておかないと、来年はもう危ない。幸い私以外は元気そうな人揃いで、私は食事係と言う多分一番やり易い役を仰せつかった。

この係りは食堂利用者の意見を吸い上げ、シェフさんと相談して食材、味付けなどより良い食事を目指すのが役目だ。毎年の役員のお蔭もあって、最近は全体的に以前よりかなり美味しい食事が出るようになっているので、私もそれを引き継がねばならない。

それで今迄殆ど利用しなかった朝食も時々は出てみることにして、寝坊の夫には構わず、早速サンドイッチの日に試しに出かけた。成程以前の同じメニューに比べて格段に良くなっているのに驚いた。翌日の卵焼きメインの和食もとても良かった。これが後戻りしないようにと言うのもお目付け役の仕事だ。ただ出不精の(と言っても食堂はたった一階下なのだが)夫を今までより頻繁に連れ出さねばならないのがちょっと面倒。自分一人で行っても良いのだが、あとの一人はどうする?主婦に定年はないのだ。

一人で行って好いことは、普段相席になることが殆どなかった女性群とゆっくり話し合えるのが楽しい。今日のように大体同年輩の人たちと話しをすると、、話がつい戦中、戦後の食糧難の頃に及んだりする。配給が極端に少なくなった頃、親がリュックをしょって、近隣の農家で食料を分けてもらいに行くのだが、その都度母親の着物が少しずつずつ箪笥から消えていった話など。程度の差こそあれ、都会っこは皆一様にいつもお腹を空かせていた、それぞれの思い出話に共感するのだ。

時々観るTVの「徹子の部屋」でもゲストによってそんな話がよく出る。先日のペギー葉山さんは学童疎開の話だったが、疎開先でも食料不足で、画面に写し出された当時の写真の中の彼女の頬が膨れているのは栄養失調によるものだったと語った。逆に徹子さんの方はがりがりに痩せた栄養失調で、体中の吹き出物が治らなかったとか。その辺りになると同じ経験があった私は涙が止まらなくなった。大分前になるが、ゲストの三条美紀さんの少女時代の飢え話はその中でも特に凄まじいもので、聞くも
語るも涙だった。私は幸い父の故郷に疎開してから、疎開先の親類のお蔭で快復したが、飢餓感と言うものから完全に抜けきれるまでは暫く時間がかかった。

今現在、世界では至る所で沢山の飢餓に苦しむ人たちの姿をテレビなどで見るのだが、とても他人事とは思えない。やはり身をもって其の辛差を知っているだけに。それなのに一方身の回りでは食べる番組の何と多い事か、時々空恐ろしい気がするほどだ。あの飢餓の時代から長い年月を経て、飽食の時代を迎えた今のこの国の姿を当時誰が想像出来ただろう。でもこれから先のことは判らない。

 ダグラス・マッカーサーの反省の弁

2015-04-08 23:51:36 | 聞く
戦後八紘一宇をマッカーサーが禁じたと言う話から、彼が日本での役目を終え,退役後アメリカの上院の或る公聴会で行った演説のあったことを思い出した。そのyoutubeを探して出して聴いてみたのだが、彼は在任中に色々の事実に思い当り考えることがあったのだろう、このような反省にまで至ったのだ。私自身の感想で言えば、これは果たして全く意訳などを含まないありのままの演説だったのか?と驚くほど日本に寄り添ったものだ。もし日本人が(本当に言いたかったことばかりだが)此処まで言ったら一体どんなことになるだろう。

さて、その公聴会でマッカーサーが真っ先に言った言葉は、先の大戦は日本の自衛戦争だったと。続いて言ったことは、此処まで詳細には知らなかったのだが、英国のチャーチルに頼まれて対独参戦の口実として日本を対米戦争に追い込んだと言う事。「アメリカは日本を戦争に誘い込むために、石油を輸入させないとか中国大陸から出ていけとか、アメリカに何の権利があったと言うのだろう。当時アジアのほとんどの国が白人の植民地だったと言うのに、白人はよくて、日本は許さないとは?」と彼は述懐している。

そのようにして日本を苛め抜いた揚句突きつけたのがハルノートで、それを日本は勝敗を度外視しても戦争を選ばざるを得ない最後通告と受け取ったのだった。彼はあのようなものを付き付けられたらどんな小さな国でも戦争に立ち上がるだろう、だから開戦を選ぶように仕向けた責任は米国にあったと言っている。

そして圧倒的な武力を持つアメリカが勝つと分かっていたので、戦後日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画まで立てていたのだ。それは一国を弱体化する一番の方法は、その国の自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。日本がアジアを白人の植民地から解放しようとしたと言う本当の理由を隠すために、大東亜戦争と言う名称を禁止し、太平洋戦争と名称を変えさせた。東京裁判はお芝居だった。アメリカが作った憲法を押し付け、戦争が出来ない国にしたのだ、とも。

ここまでは大方認識の範囲内だったが、私は当時考え及ばなかったけれど、今になってその弊を実感していることは、その後に続く公職追放の話だ。それはマトモな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒いて、その教え子たちが今のマスコミ、政界で反日活動をしていると言う処だ。そこまで周到な計画を立てていたとは、これは殆ど予想以上の話だった。

また、徹底的に検閲を行い、アメリカに都合の悪い情報は知らせず、ラジオテレビを通じて戦前の日本は悪い国だったとだまし続けた。成程日本人は戦後着々とその目論見通りに自らを追い込んできたのだなと思い至った。マッカーサーは自虐史観を持つべきは日本ではなくアメリカだと言った。戦争を終結するために、不必要な原爆を二度も使って何十万と言う民間人を虐殺した・・・・・

最後に自分の生きていた時の証言を記して、謝罪の言葉とすると締めくくっていた。

以上は戦後の日本に駐留した米軍の最高司令官だった人の証言だ。そのあらましだけでもこのささやかなブログに残してておきたいと思ったのでそうした。


八紘一宇

2015-04-04 20:54:53 | 思い出
つい最近国会で三原じゅん子議員が発した「八紘一宇」の言葉が物議を醸した。何故ならこれは当時の日本がアジアに進出する時のスローガンとして、本来は「世界を一つの家となす」と言う理想だったはずが、それをアジアの侵略を正当化する口実として使われたとして、戦後マッカーサーから否定された言葉だったからだ。

大東亜戦争の頃小学生の私達には大変なじみ深い言葉だったけれど、三原議員が国会での質疑応答の際にこの言葉を引き合いに出したのは唐突で、何か場違いな感じはあったにしても、それとは別な意味で、こんな若い人の口からこの言葉を聞くのはちょっと意外だった。でも一方、戦後70年も経っているのに、それにマッカーサーから禁句とされたからと言ってこの言葉の本来の意味をそのまま受け取れば、何故そんなことでとやかく言われなければならないのだろうかと疑問に思った。怖ろしさを感じたと言う人までいた。

八紘一宇とは神武天皇が大和樫原で即位の折の詔勅が基になっていて、「天の下では全ての民族は平等である。天下を一つの家のようにしよう。」と言う意味の言葉で、そこには侵略とか差別的な意味などは皆無なのに。当時私達の小学校では明治天皇の「四方(よも)の海、皆同胞(はらから)と思う世に、など波風の立ち騒ぐらん」という御製を節をつけて斉唱させられたものだが、本当に素晴らしい御製を詠まれたものだと思っていた。また、興亜行進曲と言う歌を習ったが、その中に「興亜の使命を担う民五億」とか「協和の徴(しるし)桜よ蘭よ花牡丹、嵐に耐えて咲き香れ」などと言う箇所があった。桜は日本、蘭は朝鮮(韓国)、花牡丹は支那(中国)なのだから、これが本来の理念だったことがよく判る。しかし実際戦争に突入すればどんな理想を掲げていたとしても、軍隊のすることは畢竟人殺しには違いなく、信じられない程残酷なことを平気でするもので、中国や東南アジアに進出した日本軍も全く例外ではあり得なかった。

だからと言ってその行為を憎むあまり、この様な理想の言葉自体を貶めるのは違うだろう。
自分がまだ子供だった頃身に付いた理想の言葉であって、それを日本軍が最初から或る意図を持って悪用したとは未だに信じられない、即ち「八紘一宇」の言葉に何のトラウマも持たない程幼かったのかもしれないが。

小学校の校庭の一角にその字を刻んだ大きな石碑が建った日のことはよく覚えている。それは、その除幕式に一年生に上がったばかりの妹の名が呼ばれて驚いたこともあったからだ。戦後GHQの命令で取り壊されたのだろうと思うが、当時の卒業写真にはしっかりその姿を留めている。八紘一宇の精神はいつの世にも生きていてほしい。