くさぶえの道

身辺雑記 思い出の記

高校吹奏楽ジョイントコンサート

2008-08-25 23:59:10 | 聞く
  高校一年生の孫娘は中学から引き続き、学校の吹奏楽部に属している。持ち場はパーカッション。高校に入ってから初めての発表会があるというので、みなとみらいホールへ息子夫婦と一緒に聴きに行った。ジョイント・コンサートと題して、四つの高校が一緒に行う恒例のものらしい。最初は一校が別々に2,3曲を演奏して、四校それぞれが終わると次に合同で各学年別の演奏があり、最後は三年生の演奏で盛り上げて終わり、という形になっていた。
  
  最近は中高生でも相当なレベルとは知っていたが、それでも所詮は学校のクラブ活動の積りで行ったのだが、予想を遥かに上回るものだった。どの高校の演奏もその素晴らしい出来にまず驚き、部員の数の多さにも驚いた。200人近い出演のあった学校もあり、その迫力は凄い。選曲も随分高度なのではないかと思った。「こうもり序曲」や「JUPITER」があり、連邦ビル爆弾テロの犠牲者に捧げる「暗闇に射す一筋のひかり」というのもあったし、「YMCA」や日本のスポーツ漫画テーマ曲のメドレーなどはとても楽しい演出だった。孫の学校は四校目のいわばトリだったが、最初の「マダムバタフライ」などは、フルオーケストラを聴くような演奏で本当に素晴らしいと思った。夫も‘無いはずの弦楽器の音まで聴こえる気がした’と褒めた。聞けば高校吹奏楽の全国大会で「銅賞」を取ったことがあるそうだ。こんなに上手なのにそれでも銅賞とは、どうしよう!?
 
  何しろ3階席なので顔も余りはっきり見えないくらいだったが、孫はディズニーメドレーでは踊りながらのパーカッションを、ジョイントステージではティンパニーを受け持ってちゃんと仕事をしていた。ステージをこのような上から見るのは壮観だったし、音もよく広がって聞こえるので本当に楽しかった。今の学生達はなんと恵まれていることか、よい時代になったものだと感動すると同時に、金銀に光る美しい楽器を見てちょっと涙が出そうになったのは、敗戦の直後で日本全体がまだ貧しく、全く何も無かった自分の高校時代を思い出したからだ。戦前はピアノが7台もあったという学校だったが、空襲で楽器どころか校舎さえ失い、あちこち転々と間借りをしながら、時には音楽授業は青空教室だったりしたけれど、それでもあの年頃はそれなりに楽しかったな、など昔の思い出にも浸ってしまった。
  
  オリンピックの閉会式は見られなかったが、今日のコンサートがあまりにも好かったので大満足でした。
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「偽善エコロジー」

2008-08-15 15:32:18 | 読む
  最近エコロジーの偽りに関する本を読んだ。始めに出た「環境問題は何故ウソが罷り通るのか」は横書きでグラフなども沢山入り、やや専門的に見えたので、興味を引いた箇所だけザッと目を通しただけだったが、最近同じ人の書いた「偽善エコロジー」が幻冬舎から出ているのを書店で見つけた。こちらの方がより読みやすかったので前の方とつき合わせて読み直した。著者は工学博士である武田邦彦という人で色々肩書きのある中で、現在は文科省の科学技術審議会専門委員だそうだ。
  
  さて読んでみて驚いた。今まで経典のように信じて実践に心がけてきたエコロジーの中にはその意味が怪しかったり、間違っていたり、それどころか逆にエコロジーを妨げているものまであると、その例がいくつも挙げられている。

  何例もあるその筆頭はレジ袋のこと。買い物にはスーパーのレジ袋を断って自分の袋を持参するというのは今や半ば常識として一般に実施され始めている。私などはこれが推奨されはじめる何十年も前から、単に勿体無いからという気持ちで、なるべくレジ袋は貰わないようにしていたくらいだ。ところが「レジ袋を追放すると石油の消費量が増える」という。そして、レジ袋は石油の不必要な成分を活用した優れものだった!とは誰も教えてはくれなかった。何故それの追放が逆効果になるかという三つの理由も説明されていた。

  このように、良い事と信じていたペットボトルや食品トレーなどのリサイクルがアルミ缶以外は殆どが良くない、あるいは意味がないとされ、その理由も勿論大変分り易く説明されている。また生ゴミを堆肥にするのは「畑の栄養になるどころか却って危険」という驚きの判定が下されている。エコの問題だけでなく、ダイオキシンや地球温暖化に関しても一般に流布されている説の間違っている点や、日本で今盛んに叫ばれているCO2削減努力の非現実性が述べられている等、全く目からウロコの話が多かった。

  それでは何故このようにいい加減な話がまかり通っているかという理由の一つが、家電リサイクルに関して言えばそれが‘善’という前提があるので、それで儲ける業者がいて、その実態が分っている自治体も自分達の利益になるし、損するのは国民だけ。‘日本の官庁も自治体もこんなことも処理できないほど、システムも意志も弱っている’と言う。

  環境問題を弄び、利益に繋げる人がいるからといって、環境問題は現実に在る。地球上の石油が枯渇しかかっているのは事実。だから人間は何をしなければいけないかというと、まだ石油が残っているこの10~20年の間に住居とか都市計画を変えて、市民の生活システム自体を変えていく必要があると著者は説いている。このように著者は科学者として一つ一つ理由を挙げて誤りを正すだけでなく、それならどうしたらよいかと言う指針も与えてくれている。非科学的である上に、権威が言う事ならと疑わない私のような人間にとってこれは何よりの警告本であったし、だからこそまたもっと違う意見もあったら参考にしなければいけないと思った。それにしても明日からスパーでレジ袋はどうしよう、少しは貰う事にしようかな?折角のマイバッグだって用意してある以上は使うのが当たり前だし。兎に角このことで、頭をガチガチに決め付けてしまわないことだ。
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ナショナリズム

2008-08-14 19:13:04 | 聞く
 オリンピックの競技も今日でほぼ半分まで進み、現在日本は5つの金メダルを獲得している。普段はスポーツには殆ど興味がない私のような人間でも日本が勝った、負けたと一喜一憂する。水泳などのように速さを競う試合ならいざ知らず、柔道や球技などルールが分らないものを観戦しても試合運びなどを楽しむというより、成績ばかりが気になる単なるナショナリストに化してしまう自分を発見。

  どの国にも同じような人が沢山いるだろうし、それが人情というものかもしれない。特にこの期間は。故にオリンピックはやはり国威発揚の場にもなるのは当然で、ましてや中国が競技だけでなく、主催国(本当は都市)として千載一遇のチャンスとばかりに開会式にあれほどのエネルギーを費やした訳だ。華麗ではあったが同時に過剰と感じたのは私だけではなかったようだ。見ていて一番気になったのは長い間待たされることになった選手団だ。始まる前から疲れてしまっただろうと。パフォ-マンスに一生懸命でそんな配慮は全くなかったのかもしれない。

  私がショーの中で特に気に入ったのは花火だったが、あの花火もあれだけ整然としていたのは、一部グラフィック映像だったと聞いて少々興醒めした。また紅い服で、独唱した少女は声だけ別人の‘くちパク’だったとも聞いて、何でそこまで体裁にこだわるのか?と更なる減点。あのようなタイプの子供が今の中国の趣味なのだろうが、本当に歌った子供(映像も見た)を何故そのまま出さなかったのかがサッパリ分らない。両方の子供に対しても本当に失礼な話だと思う。

  オリンピックもそろそろ原点に返った方がいいと思うけれど、人間というものは行き着くところまで行ってしまって、もう素朴な形には戻りようもないか。

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親類の葬儀へ

2008-08-12 12:45:05 | 聞く
  先週金曜日に夫の兄が亡くなったので、お葬式のため名古屋まで出かけ、一泊して昨夜晩く帰宅した。享年88歳、亡くなった日も2008年8月8日と珍しい8の符合だった。入院したのは亡くなる前の割合短期間のことでそれまでは寝付くこともなく比較的元気でしっかりとした方だったが、自分から「老人ホーム」の入居を希望して間もなく食が急に細くなり、入居後一月も経たずに亡くなったとの事。音楽とカメラと仕事が大好きという穏やかな人柄で、葬儀場では生前好んだという「美しく青きドナウのさざなみ」などのクラシック曲が流れた。お通夜、告別式と集まってきた親類縁者とは久しぶりに語り合い、また次の世代の中には殆ど初対面の若い人たちもいて、その人たちとも親しく話し合う機会になったのでこれは何よりの事だった。

  故人の思い出話の合間にはやはり時節柄、太平洋戦争の話もこもごも出てきた。夫の家族は名古屋市内の家が空襲にあって全焼したものの、全員無事で、その後は郊外に持っていた土地に移り住んで、まずは幸いだったのだが、満州に住んでいた親類の一家族だけは大変な不幸に遭遇していた。夫の母の末弟、叔父に当たる人だが、引き揚げの混乱の中で自害してしまい、その幼かった末息子もその時行方不明となって、とうとう連れて帰ることが出来なかったのだ。辛うじて母と妹とともに帰国した長男が、「自分の終戦はあの8月9日から始まった。」と述懐した。まだ小学生だったが、足元間近に機銃掃射を撃ち込まれるなど、九死に一生の目に合って大変な脱出だったようだ。彼がまだ若い頃一、二度会ったことがあるが、詳しい話を聞いたのは今回初めてだった。もっと色々聞きたかったけれど、それほどの時間はなかった。 

  義兄は晩年親しいお寺で熱心に勤行(ごんぎょう)に励まれたそうで、そこの和尚さんにつけてもらった戒名は上の方が釈勤行院となっていた。夫は丁度一年前に妹を亡くしているので、これで5人兄妹が三人になってしまった。

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北京オリンピック開幕

2008-08-10 22:42:11 | 観る
  一昨夜は北京オリンピックの開会式を初めから!終わりまで!!全部観てしまった。私にしては珍しく。 過去の何処の都市のオリンピックでも開会式など全部見たことはない。それどころか後でハイライトだけを見ることの方が多かったのに。ところが今回はあまりの美の連続に目が離せなかった。聖火リレーの最終走者、李寧さんが空中を走るという奇抜な演出まで。さすが十数億の民の国を抱える大国、しかも国威発揚の一大チャンスであれば、このように素晴らしいものが作れたのだろう。中国から発祥した文化を世界に再認識させ、現在の急速な発展を様々な形で披露する、アートとしても近代技術としても大したスペクタクルだった。

  最後の花火も遠近の広範囲で上がるのが本当に美しく、もしかしたら私はこれが一番気に入ったかも。但し、すべて盛り沢山過ぎた。どの部分を取っても素晴らしいのだから、あれの三分の一でも充分過ぎる位だと思った。少ないほうが、却って印象が強くなるのに。勿体ない。やはりこれも万里の頂上や兵馬俑のお国柄か?次回の主催都市がやりにくくなるのではと余計な事も考えた。この次の主催者は初心にかえって、素朴な形にしたらどう?東京オリンピックの時のように。

  それにしても、地球上には何と沢山の人種、沢山の国家が存在するのだろう。こんな風に一堂に会して、顔と顔を直接に見合わせてお互いを見知れば、戦争などしたくなくなるのでは?と思ったが、幾ら平和の祭典とは言えオリンピックだって戦いだ。闘うのも人間の本能の一つなら、せめてスポーツだけにしてください。

  思わぬ夜更かしをしたので、朝はさぞ眠くて大変だろうと思ったのだが、それほどのこともなく、午後から地下鉄線の近隣駅の構内で行う保健活動推進員の予定の作業に出かけた。先日近隣地区センターで行ったのと同じメタボなどの検診のボランティアで、二度目のことなので、皆手馴れたものだ。「無料」の看板を大きく掲げ、椅子を沢山並べ、器械も前回より少し増やして通りがかりの人々を誘う。やはり年配者のほうが多かったけれど、若い人たちも足を留めてくれた。こんな検査は始めての人も結構いて、初めて知る自分の体の数値を見て盛り上がっていた。今回も出た数値が満足出来ないと言って二回三回とテストを受け、却って数値を悪くしている人もいた。大体のところ男性のほうがはムキになるのが見ていて面白かった。一時から3時半までで終了。前日の暑さは少し和らぎ、構内は風がよく通ったので気持ちよく仕事が出来た。
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もう一つのドキュメンタリー

2008-08-09 18:09:08 | 観る
 あれからまたNHKテレビでまたジョー・オダネルさんのドキュメンタリー番組があった。「開かれた封印」と題して同じ人の同じ話だが、先日のTBSとはまた違った切り口で、これは父亡き後その意志を継いだ息子のタイグさんを中心に作られていた。

  TBSのほうでも少しだけ触れられていたが、自分の撮った写真を公表することによって原爆反対に立ち上がった彼に対する周囲の非難、攻撃、迫害について重点を置いていた。原爆写真集を世に出そうとしたが二十数箇所の出版社に断られて断念したこと、写真の展示会を開く場所もなく、やっと許可されたスミソニアンだったか?何処かで写真の展示と講演を行ったのだが、それが共感どころか反感を買い、彼のもとに沢山の非難中傷の手紙が舞い込むようになったことなど。その差別や迫害は本人だけでなく家族にまでも及び、ついに妻は去って行く。最後まで妻の理解は得られなかったそうだ。

  彼が永年封印して家族にも触ることも許さなかったあの時の写真を公開したきっかけは何か?それはある十字架にかかったキリスト像を見たからだった。そのキリスト像の体の表面は一面原爆被害者の写真で覆われていた。それを見た衝撃から彼は自分の写真を公開して原爆反対に立ち上がる決心をしたという。

  自身も辛い経験をした息子のタイグさんだが、父親のしたことを理解しようとずっと努力してきたという。終戦直後の被爆地では幼い子供達の笑顔を見ることが出来なかったので、‘今の笑っている子供の姿を撮ってきて欲しい’という父の遺言を果たすべく彼も来日し、父の足跡をたどって現在の長崎の写真を撮って歩く姿が紹介された。

  現在、アメリカ人の戦争に対する考え方も段々変ってきて、あの頃のムードとは少し違ってきているらしいが、それにしてもまだまだ前途遼遠という気がする。そしてこの番組で知った不思議な偶然。ジョー・オダネルさんが亡くなったのは去年の今日、奇しくも長崎原爆投下記念日の8月9日だったということだ。
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原爆記念日 続き

2008-08-08 19:10:40 | 観る
  もう一つの番組は暫く前の番組の再放送だったらしいが、やはりアメリカ軍の従軍カメラマンが長崎の原爆直後に自分が撮影した写真のあとをたどって、主に写真の中の当時の子供達と再会する話だった。彼は米軍カメラマンとしての規則(被災地は撮っても人間を撮ってはいけない)を破って、沢山の悲惨な被災者の姿をフィルムに残しながら、永年その公表を差し控えてきたものだそうだ。彼も前者と同じように自分のフィルムに納まっている当時の子供たちとの再会を願って来日した。

  彼は生来本当に心の優しい人らしく、原爆の直後の惨状を見た途端大変なショックを受け、自国のなした業に絶望し大きな怒りを感じただけでなく、後にアメリカでそれを実際に態度で示している。原爆投下は正しい、あるいはほかに選択はなかったと常に自己弁護を続ける、おおかたの特に米軍関係者の中にあっては珍しいことである。彼は原爆投下機が誇らしげに展示してあるところに行き、足で蹴って罵り、このような展示を繰り返したらまた同じ事をすると言ったらしい。それからトルーマン元大統領にも会う機会があって、直接面と向かって「あのようなことをしてどんな気持ちか」と詰問したというから驚いた。その時トルーマンは狼狽して顔を紅くして、「あれは前大統領が計画したことを引き継いだだけだ」と答えたという。

  62年ぶりの長崎で彼は何人かの当時の子供達と再会を果たした。子供達の一人は当時のことを憶えていたが、その時はその米軍カメラマンが自分達をこんな目に合わせた人たちと結びつけて考えもしなかったと述懐していた。

  そのカメラマン、ジョー・オダネルさんは自身も直後の爆心地の滞在で原爆症にかかり、全身に様々な症状が出て手術を繰り返すという身での訪日だったが、それまでにアメリカでもその写真の展示会を開いて沢山の人たちに見せていた。大半がが瓦礫の風景でなく、一人ひとりの人間、特に幼いこどもたちの写真が多かったことから、より訴える力が強かったのではないかと言っていた。中でも多くの目を釘付けにした一枚があった。それは10歳くらいの貧しい身なりの少年が死んだ赤ん坊を背負って直立不動の姿勢で唇を引き結び、裸足で立っている写真だ。焼き場で背中の弟を焼いてもらう順番を待っていたのだそうだ。この写真は私も以前新聞で見て感銘を受け、切り抜いてしまってある。撮影したのがこの人と判り、一層感銘深い写真となった。ジョーさんは「まるでサムライのような少年だった」と言っていたが、この少年の行方はついぞ分らず、この番組の中ではとうとう再会は適わなかった。そしてこのジョーさんも、去年の夏85歳で亡くなられたそうだ。
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63回目の原爆記念日

2008-08-07 19:03:28 | 観る
毎年この八月の広島長崎の原爆記念日を迎える前後はテレビ、新聞などで原爆、や太平洋戦争がらみの報道が沢山出てくる。そしてそれは既に60年以上を経ても少しも色あせることなく、毎年のように何かしら新しい事実や対象、または違った掘り下げ方が発表されて、そのような報道を見るたびにほんの昨日の事のように辛く悲しく、体が震えるほどの怒りを感じることもある。原爆を投下した側がどんなに正当性を主張しても、あれはイラクなどのようにやむを得ず一般市民を巻き添えにした(と此処でも主張しているが)戦争とも全く違う。一般市民を狙った大量殺戮だった。しかも2度も。ニューヨークの9.11事件のショックも未だに忘れられない大きなものだった。しかしあの時同時に私は広島、長崎のことを思い出さずにはいられなかった。比較するようなことではないかもしれない。でも日本人の私としてはすぐに原爆のことが脳裏を掠めたのは事実だった。

  何事も自分の身に降りかからないと痛みは本当には分らない。それと何事もやはり原因あっての結果、ということを考えるべきで、それは日本の場合も同じ。だから人は相手に対する恨みは言わず、しかし事実だけはしっかりと語り継ぎ、合わせて戦争反対と核廃絶を最後まで訴えて行くしかない。

  今年はアメリカのカメラマンが原爆投下直後の広島長崎での記録写真を撮り、そのうちの一部を今初めて公表したという番組がNHKとTBSそれぞれ違うケースの番組が放映された。前者は原爆被害者の治療に当たる米軍医療団の様子を撮ったもので、被災者達の患部の有様をはっきり映し出している記録そのものなので、余りの無残さ痛ましさに正視できない場面が多かった。これより前にも時々は小出しにされていたものもあるが、今年になって初めて公開されたものもあるという。そして今回の番組の趣旨はその映像に残っている子供達のその後をたどり、それを写したアメリカのカメラマンがそのうちの何人かと再会を果たすといったドキュメンタリーになっていた。正視に堪えぬほどの酷い傷を負いながらも一命をとりとめ、そしてその傷跡を顔や体に残しながら既に老齢を迎えている方々はそれぞれ肉体的、精神的にどれほどの苦労を重ねて今日まで来られた事か察するに余りある。
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野良猫

2008-08-06 11:23:34 | 験す
  昨夜10時も過ぎた頃玄関のチャイムが鳴った。こんな遅い時間に何事?と出てみたらお隣のご主人だ。開口一番「犯人が見つかりましたよ。今そこにいます。」と興奮気味。何のことかこっちはサッパリ分らない。「ほら、あの猫の餌やりの人」で初めて分った。

  何日も前から我が家の裏木戸の脇の草の陰に空きポリ容器が目に付くようになっていた。誰か捨てて行ったか風で飛んできたか、ゴミの日に出そうと思っていたその翌日見ると、ペット用の餌が入っている。お隣との境目にもなる場所なので、もしやお隣さんが?と思い訊いてみると、その事実さえ気付かなかったとのこと。それで私は餌やりをしている人を突き止めて、ある提案をする積りだった。

  私は猫が大嫌いというほどでもないが好きではない。ノラがたまに庭を横切るのは構わないとしても、住み着かれるのは困る。飼う気が全くないからには、どんなに子猫が可愛らしくても食べ物を与えるとかりそめの情けが仇になるのは必定なので、見かけるとシッシッと追い払う。もう何年も前からこの辺りに野良猫を時々見かけていたが、前方の公園辺りで野良はノラなりに自分の才覚で生きているものと思っていた。ところが最近は気が付くと毎日のようにうちの庭の隅にひそんでいたり、子猫連れで庭を我が物顔で歩いている。追い払うとすぐには逃げないで、じっとこちらを伺っている(そこがキライ)。何度目かの警告のあと私が飛び出すとやっと家の横手に素っ飛んで行く。そこには物置小屋があるのでその辺りをねぐらにしているらしい。道理でこの頃時々玄関や家の周りにフンなど目立つようになった。裏門にいつも餌が置いてあれば、猫はこの家の意地悪女あるじが宗旨替えをしてホトケになったかと誤解したに違いない。 そこで私は猫宛に誤解を解くべく手紙を書くことにした。但し猫宛はやめて「猫の餌やりをしていらっしゃる方へ」と丁重を心がけ、理由を述べた後に「餌は公園側の茂みのそばに移してほしい」旨を書いて畳んだメモ用紙を容器にテープで貼り付けておいた。

  翌日手紙はなくなっていたので読んでもらったものと思っていた。と、ここまでが長い前置きである。お隣さんを巻き込んだ覚えはなかったのだが、たまたま餌やりをしている現場を見かけたので当のご本人を「取り押さえて」連れてこられたという次第だ。その人とはちょっと予想外の勤め帰りらしい作業衣姿の中年男性だった。近くのマンション住まいの方だ。手紙は読んだが勤めの帰りが遅いのですぐに来られなかった、これからは餌入れは公園側に移す、と話は至極スムーズに進んだ。その人は何年も前からこの辺の野良猫に餌を与えるボランティアをしているとも。なるほど、外住まいの猫にしては何時までも絶え間がなかったわけも初めて分った。

 私は別に怒っていたわけではないし、話し合ってお互い納得出来たので良かったと思ったのだがお隣のご主人はかなり気色ばんで怒っている。お隣もフン害、芝生荒らしがあったらしい。だから「犯人連行」となったわけだ。ボランティアという言葉にも引っかかって、そんなものはボランティアでも何でもないと抗議。でも、家で飼うこともできない猫好きの人が野良猫を哀れんで永年餌やりを続け、少なくとも最今までは近隣に特別の迷惑もかけていなかったのだし、一度は殖えないように手術も受けさせたというのだから、非難には当たらない。その男性も謝ったことだし、お隣さんも此処であっさり引き下がって欲しいと願って私は退散。あとは猫一家がまた公園の方に住居を定めて移り住んでくれれば、「地域猫」として何らかの形で、協力も出来るかもしれない。
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下丸子へ

2008-08-05 00:24:06 | 聞く
  連続猛暑の午後、夫と下丸子まで出掛ける。今春開通したばかりの横浜市営地下鉄の乗り入れ線グリーンラインを利用すると、乗換えが3回あろうとも一度も炎天下の表に出ないで済むので、本当に便利。40分もかからなかったと思う。但しこれは乗換駅がきちんと頭に入っているお連れ様がいたからスムーズに行ったのであって、私一人だったら路線図と首っ引きで随分まごついたことだろう。下丸子は私には初めてのところ。お目当ては駅前にある大きな区民ホールで催される「レエイディエート(Radiate)・フィルハーモニック・オーケストラ」の定期演奏会だった。有難い事に最近は近場の市民ホールなどでも立派な演奏が手頃な値段で気軽に聴ける様になった。

  この楽団はバレエ音楽が中心の、アマチュアでは珍しくバレエ公演でオーケストラピットで演奏活動もしているとのこと。この日の演奏はグリークの「ホルベルク」と小鳥の囀りなどふんだんに入っていかにも森の描写といった感じの、ラヴェルの「マ・メール・ロア」とか言ういずれもバレエ音楽に引き続き、メインはムソルグスキーのお馴染み「展覧会の絵」だった。この曲は変化に富んでいて分り易く、私などでも全く退屈しない曲だ。先日ビジュアル的意味でも大感動した女性指揮者西本智実さんの演奏会は「新世界」で素晴らしかったが、あの後彼女の「展覧会の絵」のDVDも買って繰り返し楽しんでいる。同じ曲目だが素人耳にもやはり少し印象が違うものだと思った。

  終わってから、近くにお住まいの夫の友人Sさんと会う約束をしてあったので、ホールのロビーで暫く待つことにした。 殆ど人気のなくなった涼しいロビーに我々以外に中年の女性が一人(傍らの荷物であふれかえった押し車やビニール袋から見て、もしかしたらホームレスのような人か?と思われたのだが) 多分ずっと前からそこに座って涼をとっていたのかもしれない。こんな暑い日には区民ホールのロビーとは目の付け所が好い。私達も二、三十分ほど充分に涼んでから待ち人と合流して表に出ると、外は朝と変らぬ猛烈な暑さだった。

  近くの店でビールのジョッキを傾けながら三人で歓談。秋のクラス会の相談もあった。夫の大学のクラス会はスタート時から奥さん同伴の会だったので、幹事役が廻ってくると大抵夫婦してやることになる。それでこの次のクラス会の幹事三名の打ち合わせ会となったわけだ。その席でS氏のお連れ合いが永年病床にあって最近亡くなったことを告げられた。急なことではなかったので、もう家事一般にはすっかり慣れているとか、今は少数のお仲間と、観劇や映画館めぐりに旅行など気ままに過ごしていることなど語られた。夫たちのクラス会も年齢的に言って、今回でそろそろ終わりになることだろう。そんなことを笑いながら語り合って別れた。

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