日常

福島泰樹x田口ランディx月乃光司 ジョイント朗読会 「言葉の場数」

2008-10-22 22:41:29 | 芸術
■福島泰樹x田口ランディx月乃光司 ジョイント朗読会 「言葉の場数」

先週の土曜日、上のタイトルの詩の朗読会が、東中野のポレポレ坐というところであり、ちょうど当直がずらせたので行ってきました。

このポレポレ坐ってとこは、普段は喫茶店をやってて、時々こういう色んなイベントもやっているようでした。地下にはポレポレ東中野という、あまり大手映画館ではやらない映画館があって、そこも扱っているテーマが非常に興味深く、別用でそれだけで行きたいって思いました。
地道にコツコツとやってるのっていいですよね。口で偉そうなことを言うのは誰でもできますが、そういう自分にとって大切な思いや考えをずっと保ちつつ、何らかの形で少しずつ具現化して行くっていうプロセスは、尊いと思います。
あと、カフェの雑誌の中に、ちょい前にこのブログでもとりあげた「風の旅人」もさりげなく置いてあって、嬉しかったなぁ。

では、詩を朗読された順番に簡単に感想を。

■月乃光司さん

自分が把握した範囲で簡単に。
月乃光司さんは、高校入学時から対人恐怖症で不登校→引きこもりとなり、4年間の引きこもりの後にアルコール依存症で精神科病棟に入院。そして、アルコール依存症の自助グループから社会復帰を経て、詩の朗読をするようになり、心身障害者のパフォーマンス集団「こわれ者の祭典」を主催しておられるとのこと。
今は会社員として働きながら執筆、イベント主催など様々な表現活動を行っておられます。詳細は御本人のブログ・HPをご参照ください。

なかなか言葉で説明するのが困難ですので、youtubeにUPされている月乃さん御本人の動画を見て頂ければ早いかと思います。

自分が引きこもっていたころのパジャマを着ながら朗読しています。
職場で彼をいじめている人の実名が出ていたりなかなか強烈です。
詩の内容も、どん底を見た人間の、心からの叫びやおたけび。絶望や希望。

月乃さんの朗読を聴いていて、人間が外界と交信する手段って何なのだろうかと、ふと考えてしまいました。

自分と自分以外はどこで境界されているかというのは難しい問題ですが、自分のノッペリした肌一枚で外界と境されているとしましょう。
自分の肌から外を外界(他者)として、その他者も、人間である他者と人間ではない他者(自然、世界、機械・・様々なもの)に大きく分けます。今回は人間の他者だけをとりあえず問題にします。

月乃さんはひきもりという辛い生活を4年間続けました。
引きこもり。一般的には単なる怠け者とか言われるでしょう。自立してないとか、甘えとかね、
でも、それは強者の論理です。それは強いものが弱いものを見下す論理。実情を反映していない成功者の論理。非常に一方的なレッテル。

引きこもりの本質は、やはり他者との関係性という問題に集約されるんじゃないかと思うんです。
それは、信頼した人から裏切られた経験。周り誰もが自分を蔑み攻撃してくる経験。自分以外を包み込む他者全てが自分を否定した時、そこで襲ってくるのは絶望。
人間は、そんなに強いものではなくて、自分という存在は他者によって初めて輝きを増し、生命感を得れるものなのだと思うのです。
人とは一人では存在しえないもの。

最近、個人主義の風潮がもてはやされています。
個性が大事!自分が大事!努力で自己実現を!みたいな。僕はこの風潮には異を唱えるものの1人。そんなに個人や自分が大事だとは思いません。自分は、他者や自然や世界に生かされているし、逆に殺されもする存在です。
そんなに、自我っていう個は強靭ではないと思うのですよね。脆く儚いと思うのですよ。 あまり自我を溺愛しすぎると、その自我は肥大し、果てには他者を攻撃しだす。肥大した自我って、自動的に他者を排除しだすし、その排除の手段は暴力性を帯びてくる。こういう構図を何度も見聞きしております。

月乃さん、そして引きこもりの方々。
わしは、そういう悪しき構図の偶然なる被害者の方々だと思うのです。それは偶然です。
自分も同じ状況になる可能性はあった。落とし穴はいっぱいあった。
ただ、色んな偶然で運よく引きこもりにならず過ごしてきただけなんじゃないだろうか。 
他者からの極限の攻撃性に囲まれると、自分の肌一枚で外界と境されている自分を守る為、引き込まざるを得ない。自分に大切なものを持っていた人こそ、それを守るためにね。
今はゲーム、インターネット、雑誌・・いろんなもので間接的に外界と接触を保てます。引きこもりになったとしても、そういう他者との関係性に一度絶望した人でも、他者との関係性を保つ希望を失っていない限り、何らかの手段で無意識にも希望を見出すのだと思います。それは希望の一つなのです。

ただ、引きこもりから現実の対人世界にうつるのは飛躍もありますよね。やはりバーチャルと違い、現実世界の関係は、人の表情もあり、人の体温もあり、匂いもあり・・・・そしてその鏡のように自分の表情や体温や匂いもあり、バーチャルとは違う次元で他者との関係性を保たねばなりません。
そこはかなり飛躍するとこだし、ジャンプする勇気が必要なんでしょうね。
一瞬、理論や情緒を飛躍するジャンプ。

出会う他者次第では、意外に人は暖かい、意外に人は優しい、意外に世界は豊饒で素晴らしい・・・そういうことを見出せるはず。これは、他者がこの感覚を与えようと、上から下の構図で与えようとしてもしょうがなくて、最終的には自分が手を伸ばして掴もうとしないといけないものなんでしょう。自分が救われたいと激しく願わないと、本当の意味で自分自身が救われるのは難しい。その小さなお手伝いをするような、そういう暖かい場を作るのが他者の役目なのでしょうか。

そして、最初の問いに戻ります。
人間が外界と交信する手段とは何か。

やはり、言葉は大きい要素ですよね。他に声、表情、立ち居振る舞い・・・。言葉で表現しにくいものは、絵や写真など他の媒体に変化させる・・・・など。
他者と交信し意思を疎通させる手段って、実は意外に少ない気がするのです。

そういう意味で、自分の言葉を<詩>という形で声に出して、表情出して、身ぶり手振りで表現するって、他者と何らかの意思を伝え合う上で原点に近い部分なのかもしれないと思いましたね。
文章に書いて手渡すとか、絵に描いて表現するとか、そういうもの以上に、詩を朗読する姿って、すごく生身な感じです。人間性が生生しく出る感じ。

だからこそ、詩の朗読というスタイルは、自分の脳みそを鷲づかみにして揺らされたような気がしました。
この感覚は、田口ランディ→福島泰樹さん、更に増幅して続いたのです。

【言葉は他者との媒介】


■田口ランディ

今回、朗読したのは元オウム真理教で、現在死刑囚になっている林泰男という人の手紙。事前に、ここの田口ランディのブログで紹介されていたので、事前に少し想像しながら行きました。
死を控えた人が書く手紙とは絶望なのだろうか。希望はあるのだろうか。何を見ているのだろうか。色んなことを考えました。参加する前から、既に想像力を喚起させらてしまった。

死刑囚は、3人としか文通できないらしい。林泰男が田口ランディのファンだってところから文通は始まり、結局延々と続いているとのこと。最初は彼女もあまり死刑囚というものにリアリティーを感じられなかったと語っていましたが、あるとき、面会にいくために、綾瀬の長い長い長い長い塀の横を歩いていて、竹内まりやの元気を出してをふと口ずさみ、そのときにドスンとリアリティーをもって死刑というものを感じたと。 彼は恋だ愛だ、そういう俗世間的なことは今後一生できず、ただ死ぬことだけを待つ存在なんだ!というリアリティーが降りてきたって言っていた。

自分にリアルに感じられること。自分に実感を伴うこと。自分と強く何か結びつくチャンネルがあくこと。これは物事を深く理解するときにかなり大事な感覚ですよね。
じゃあ、いつ、どうやって、そういう感覚が降りてくるのか?それは確かによくわからん。
でも、一見無関係と思えるものでも、自分の野生の勘に従って全身で物事を感じていると、そういう感覚は勝手に降りてくるんですよね。そして、自分の身構えが自由で素直であれば、すぐにそういうものがおりてきたときにすっと手を出して掴める。そして一度掴んだら絶対に離してはならない。そういうものなんでしょうか。

愛もそういうもんかもしれませんね。
金城一紀さんの『対話篇』という本に、
『いつか、僕は大切な人に出会うだろう。そして、その人を生かし続けるために、その手を決して離しはしない。そう、たとえ、ライオンが襲いかかってきたとしても』 (恋愛小説より)
っていう一説を思い出しました。

脱線。この辺はまたいつか書きます。


田口ランディの朗読した文章に戻ります。
林泰男さんは何回も遺書を書き、その度には違うと思い書き直し・・・そういうのを繰り返して、何個目かの遺書を田口ランディに送ります。朗読した内容(受け取った手紙)は、万物に対する感謝に溢れていて。<ありがとう、全てのものよ!>みたいな、生命讃歌というか、嘘臭いくらい感謝感激の雨嵐に溢れていた。まるで、悲劇を強引にハッピーエンドに仕立て上げるみたいに。

手紙を朗読した後、田口ランディはこうはき捨てた。「ふざけるんじゃない!あなたはもっと、この世界で、私たちと一緒に悩み、苦しみなさい!」と。

自分も、半分そういう感情であの朗読を聴いていて、彼の自己欺瞞のようなものを嗅ぎ取っていたので、実はその最後のはき捨てる言葉を聞いてスッキリしてしまった。

わしは、彼の手紙から、まだ《人によく思われたい》という、他者の目を露骨に意識した自意識が見え隠れしたように感じてしまったのです。
人間の悩みや苦しみって、もっとどうにもならないグチャグチャしたものでしょう。スッキリ爽やかにポジティブに表現できるものではなく、もっとヘドロのプールをグチャグチャになるながら泳ぐような感じのはず。もっと心の底からの声を聞きたい。本当のリアルな声を。せっかくだから。

ただ、手紙の朗読を聴いていたとき、自分にもその他人が憑依してくるというか、なんか脳みそが勝手に同期しちゃって、刑務所の塀の中にいるような感覚で段々聞いてしまって、自分が考えているのかよくわかんなくなった瞬間ってありました。怖いですねー。読み手や空間がなしたワザでしょう。


【言葉は呪術。言葉は呪術】


■福島泰樹さん

オオトリが福島泰樹さんという、絶叫詩人の元祖、カリスマのような方でした。
僕は元々存じ上げませんでしたが、滅茶苦茶かっこよかった!ほんとハードボイルド。ここにHPがあるので見てください。雰囲気は伝わってきます。

中原中也、寺山修司、村山槐多の詩を朗読してた。ほんと心に染みた。

福島さんは、コトダマ(言霊、言魂)というもののために詩を朗読しているようだった。
福島さん曰く「若くして死んでしまった人たち。早く死んでしまって、ほんとタマラナカッタと思うんだ。俺は、そいつらの魂を伝えたい。言葉には魂があるんだよ」と。 福島さんが言うとキザでもかっこつけでもなく、本当に心の奥底から思っていて、僕らに伝えようとしているのがビンビン伝わってきた。

福島さん曰く「生きてれば、すぐに会える。話したければ会いに行ける。キスもできる。でも、死んだら、もうできないんだよ・・」と。

彼は、そういう死者の思いを通して、時を越えて中原中也や寺山修司や村山槐多を、この場に蘇らせようとしていたんでしょうか。福島さんには、若くして、タマラナイ悔しい思いを抱えて死んでいった彼らが憑依してました。

中原中也も寺山修司も村山槐多も、きっと幸せだと思います。自分もそういう仕事がしたいもんです。

40年近く詩の朗読してるだけあって、その姿はもうジャンル指定不明な感じで完成してましたね。歌のようで、ラップのようで、前衛ダンスのようで。まあその全体なんでしょうか。部分には還元できない全体性が、そこにはありました。

【言葉は魂】

■まとめ

物凄い質感が伴う詩の朗読を連続で聴いて、自分が灰になるほど、聞いていて消耗しました。脳みそのオーバーシュート。 
あの思いを受け止めた自信はありませんが、すごい空間にいたのは実感を伴い感じていますし、多くのものを勝手に感じ、勝手に学んでしまいました。

3人とも、やっていることも人生も全然違うのに、最終的には生死や愛。こういうテーマだったのは非常に興味深かった。
そして、先人の無念であるとか、やるせない思いであるとか、そういうものを全体として次の世代に引き継いでいきたいというようなこと。これも自分のテーマに近いので、非常に共感できたし感銘した。自分とか自我とか、そんな矮小なテーマぢゃなかったから。


・・・・・・・・・・・
いやー。今回も恐ろしく長くなった。まあ、漠然と感じた巨大なるものを言葉で表現しようとすると、こんなになるんですね。
まあ、このダラダラしたブログの文章にも隠れファンが何人かいてくれるので、このまま、塊全体としてアップすることにします。

8 コメント

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Unknown (Is)
2008-10-23 00:13:12
隠れファンの一人です…って、べつに隠れてないか(笑)

真木悠介(=見田宗介)『自我の起源』で
「詩人とは…、〈自分と世界との境目がはっきりしない人間〉として定義される…
つまり、詩という現象は、性現象/宗教現象がそうであることとおなじに、〈自我〉という現象のvanishing point、あるいは地平線に立つ現象と考えられる」
…と言ってますが、最近、「詩」が気になるんですよね~。
前には、けっこう書いたりしてたんだけど、
その時期は、だんだん自我が強くなってくる時期だったからか、
次第に恥ずかしくて耐えられなくなって辞めてしまったんですよ。
最近、また恋しくなってきたのは…というか、「まあ、いいかな」と
思えてきたのは、ちょっと自我が薄まってきたかしら?

そいえば、みうらじゅん大先生も、
「自分探し」から「自分消しへ」と言ってますね。

私の方でも、似たようなテーマ、以前書いてました。
http://blog.livedoor.jp/daiyoji/archives/64993459.html
http://blog.livedoor.jp/daiyoji/archives/65046646.html

…僕も、以前、2年目の浪人時代、
別にしたいわけではないけど、(笑)
半ば引きこもり状態のように勉強してましたが、
…人としゃべらないのって、2ヶ月が限界でした。
かつて、げーじゅつかになりたい!なんて、バカな青年でしたが、
自分には、そんな孤高な生活は耐えられないことが10代で判明してしまいました!
明石家さんまほどではないけど、
しゃべってないと、息苦しいですね。
今何とかがんばってるのも、あの暗黒の(青の)時代には、
もう二度と戻りたくないという(俗な)ところから来てるのかもしれません(笑)
おじいちゃんになっても構ってもらえるように
今のうちから、蓄えをしてるのかも。

…不思議なテーマです。さらに考えてみたいと思います。

追伸:
>自分と自分以外はどこで境界されているか…肌一枚で外界と境されているとしましょう。
>自分の肌から外を外界(他者)として、…今回は人間の他者だけをとりあえず問題にします。
…の「条件付けと場合分け」のあたり、数学できる人みたいで、いいですね(笑)
返信する
コメントのくせに長い、そしてちょっと恥ずかしい。 ()
2008-10-23 13:51:27
隠れファン2号です。

>Isさん
>前には、けっこう書いたりしてたんだけど、
その時期は、だんだん自我が強くなってくる時期だったからか、
次第に恥ずかしくて耐えられなくなって辞めてしまったんですよ。
→の部分に、思わずにやりです。
なんか、超わかる!!入り込んでいた自分に、ふと気づいた瞬間ね。そういうのって誰しもあるのかしら。確かに自我が弱くなってきて(自己表現に対する欲求が薄れてきて)初めて、詩とかそういう形で本当の心の奥底を表現できるようになるものなのかもしれないですね。



…あの日、実は私も会場でその詩の朗読を、きいていたのだけど、もはや自分の前後左右に人がいるとかは意識できない状況になっており、えもいわれぬ不思議な空間に身を投じたような心持でした、正直。
ドラえもんのタイムマシンに乗っている間のぐにゃぐにゃ時計が背景にある「四次元空間」に浮かんでいるみたいなね。

家で、相も変わらず帳面に日記を書きました(ほんと、アナログ感満点ですが、それが一番私の表現法としては”しっくり”なのです)。

本当は、誰にも見せたこともないし、もちろん見せるつもりも毛頭ないけど、ちょっとリンクするところがあったから、一部書いてみます。
あ、ちなみに日記に一人登場人物がいるのだけど、一応個人情報保護ってことで、名前勝手に仮名にしてあるぞよ。
その彼は27で亡くなった私の大親友です。

--------------------
でも、今回私が聞いた朗読はどれもこれまでのものとは違っていた。
いや、聞いた、というより「聴いた」であり、「響いた」であり、何か心にずしりと「入り込んできた」、であり、そのあともこうやって長いこと私の心の中と頭の中を占拠し続け、大介のことを強烈に思い出させられ、とにかくかき乱されているわけで。
どれだけの影響力であろう。
言霊。言葉の持つ本当の意味とか、どういう気持ちでその言葉を綴ったかという当時の状況や心情を、その書き付けた時のフレッシュな情熱と興奮を、時空を超えて私の心に投影された感じ。
小学校の棒読み朗読とは「温度」が違った。
きっと朗読してくれた方々の、その豊かな表現法に心打たれた部分もあろう。
でもそれは「読み聞かせるのが上手であれば、より私に入り込んでくるか」とは、まったく別問題で。
朗読する者の”この言葉の魂をヒトに伝えたい気持ちの強さや、熱さ”の問題なんじゃないのかしら。
そして、わたしは、今日のこのお三方の共通点を垣間見た気がする。
朗読するときの、懸命な目。
朗読するときの、懸命な詩文を書きつづった人への愛。
朗読するときの、正直な想い。その声にすべての感情を注入して放出する感じ。
「朗読」だったけれども、同時にこのお三方の人となりをその言霊に乗せて、その大きくなった「魂の球」を思いっきり、投げられた。そう、まさにライナーで。そんな印象。
だから、わたしは、座ってただ聴いていただけなのに、これ以上ないぐらいに消耗した。
あまりのスピードで投げられた球をおなかの真ん中でドンと受け、あっけにとられている、、、なんて暇はなかった。衝撃が、受けた瞬間の衝撃がすぐにもう、私の血液にじわじわ入り込んで、全身に広がる、言葉が、その魂が。
何これっ?!

って、ちょっと帰宅して落ち着いてきたなと思って。朗読会が終わった瞬間の、居ても立っても居られない感じは受けたエネルギーが大きすぎて、なんか発散しないとどうしようもない感じだったんだなあと。皆さんの前で話した感想、意味がわからないまま「このままひとりで海とかまで走って行って大きな声で叫びたい感じ」って、この居ても立っても居られない感のことだったか。ハハハ。
ストⅡの、特別な必殺技を出す時のパワーが満点のまま、必殺技を出さないでエナジーのとこがピッカンピッカンなってる様な感じ。早く繰り出せ必殺技!じゃないと自分が爆発しそうだ。

今日、私の全身をガンガン駆けずり回った、言葉たち。その詩や、手紙の内容。
御三方、まったく表題から予想されるテーマはバラバラなのに、
なのに、なんか、わたしは言葉のライナーを当てられて、生きる意味っていったい何?死ぬってどういうことなの?という考えに朗読会中ずっと、とりつかれてしまっていた。

「その人がこの世から命を失いいなくなってしまっても。言葉が、その魂が生き続ける。」

いままでは、本とかトーク番組をテレビで見たりして、↑こんな内容のことを耳にすると、なるほどな、なんて言っていたけどぜんっぜん私、分かっていなかった。
あの携帯だけは用なしだけど捨てられなかった理由が、ここにあったんだ。大介からの痛烈な感情爆発メールが入っているからだ。私は、あれを見るたびに、心底申し訳なく思い、その気持ちを今は直接伝えることもできなくて気が狂いそうなぐらい切なくて、触れることもできない大介のことをいとおしく思う。言葉の魂が、ビンビン伝わってくるから。あれをもっていると、生きている大介を意識できるから。
だからきっと私は、もう体がこの世から消えてしまった大介のことを、なるべく当時のままの新鮮さを失わないように何度でも心によみがえらせることができるように、涙を流しながらあの手紙を書いたんだろうなあ。どうしてそうしたのかが、今回この朗読会で本当によくわかった。
こんなに、大介が「生きて」いることを実感できて、今日は私、なんだかとても幸せだと思った。
亡くなった人が「心の中で生き続ける」を体感した今日。
誰にも聞かせたくないけど(恥ずかしいから)、私がもしも朗読するんなら、あの手紙だなあ。
またいずれ天国で再開する大介に、伝えなければならないことが増えた。
まってろ。

-------------------------

なんて、久々に熱くなったようです。

あ。活字にするとやっぱ、なんか違うなあ、、、
やっぱ私はいつまでも「手書き日記派」です。

コメントなのに、長々ごめんあそばし。

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一期一会 (いなば)
2008-10-23 22:06:21
>>>>>IS
見田宗介の「詩人とは…、〈自分と世界との境目がはっきりしない人間〉として定義される
というのは面白いね。医学で言う統合失調症(昔の精神分裂病)の状態に近い。

あと、『〈自我〉という現象の地平線に立つ現象。』
というのも興味深い表現方法です。

わしも「詩」は最近気になる!
自作でつくったりしたことはないんだけど、中学時代に山田かまちの詩が好きで、今思うと実家の自分の部屋の壁に書きなぐってるんだよね。それは、この前昔からの友人と話してたときにそういわれて、自分の中では完全に部屋に同化してたから指摘されるまですっかり忘れてたんです。あと、安倍公房の赤い繭も、実は部屋の壁に書いてます。

なんか、あの時期ってもがいてたんだろうなぁ。何かに。よくわからん何かにね。ああいうのって自分の原風景な気がしていて、最近は詩を好んで読んでいます。
昔は『詩人?ポエム?ださいなー、ナルシストでしょー』とか思ってたけど、あれは憧れの裏返しだったのかな?単に素直になれなかった? なんか、今はすごく詩の世界が好き。ミスチル櫻井和寿の詩の世界に感動して、そこから素直に詩を愛せるようになった。不思議ですね。完全にチャンネルが開きました。


自我が強まったり、薄まったり、あると思うよー。若さって、ほんと自我の塊だもんね。恥ずかしいくらい。自我をどんどん強くし続ける人もいるんだろうけど、俺はとにかく自我を消したくて仕方がないモードに突入してしまいました。世界と一体化して、もう自我なんてゼロにしたいんですよ。最近はそれに近い境地に突入してきたことに自覚的でもあります。

みうらじゅんも言ってるの!!驚き。俺もあの人大好きなのよー。


IS氏の以前の文章読ませてもらったけど、どちらも素晴らしい文章!いつかまとめて単行本にしてくれれば必ず買うよー。


浪人生活・・・これ、なかなか辛い体験よね。
ちなみに、コメント一緒に書いてくれた牧は、わしの大事な浪人仲間でもありますよ笑

あの浪人時代って、なんか特殊な時代だよねー。学生でも社会人でもフリーターでもニートでもないっていうか。ほんと、『浪人生』って特殊!


>>>>>牧
牧からIS氏のコメントへ、さらにわしからからませてもらうと、たとえば、夜中に熱中して書く文。後で読み返すと恥ずかしい!って文。あれも自我が肥大している文章?でも、あれも間違いなく自分だよね(この前Rym氏と会ったとき話した気が。。)。
逆に言えば、それって自我がどこまでどこまで伸縮自在なのかの一つの尺度な気もしてきました。
ビヨーーンと引き伸ばすと、あの夜中に恥ずかしいくらい自我丸出しで書いた文章の自我。そこまでは自分の自我はありますよー、みたいなね。 まあ、自我にもある程度の幅があるのもいいと思うし。


よく、『ありのままの状態が素晴らしいってよくわかるんです。でも、ありのままの状態ってどうすればなるんですか!』って発言よく聞く気がするけど、そういう自我とかエゴとか、そういうのがなくなった、自我がゼロになった状態なんでしょうな。登山してるときとか、よくそういう無の感覚ってなるよ。果てしない肉体の反復運動って、結果的に自我が消去される瞬間がある気がする。

脱線。

牧の大介(仮名)の話、隠れているストーリーをわしは少しだけ知っている分、なかなかグッとくるものがあります。こういう世界観を、いつか貴方の才能で絵本にしてくださいね。楽しみに待ってますよ。

それにしても、あの異様な場が作り出す、言霊。すごかったよね!!かなりいい体験したと思う。
ほんと、ああいうのは一期一会。

そして、IS氏、牧、あなた方とこういう会話をネット上でしているのも、一期一会。

ここに書き込みをしなくても、わしの投稿、そしてIS氏や牧の熱い書き込みの連なりを見ているそこのアナタ。そこのアナタと、わしたちの言霊との出会いも、また一期一会なのです。
二度と、この瞬間は来ないのですからね。
返信する
Unknown (Shin.K)
2008-10-23 22:59:45
すごい場を経験したんですね。ああ、ぼくもそこに居たかったな。

特に、オウム死刑囚の手紙の部分、確か田口さんは『風の旅人』でもこの問題を自分の中でずっと残り続けているテーマと書いていたよね。

朗読後の、その吐き捨てた様子が、どれほど場を震わせたか、感じたかったです。

しかし、いなば君は、強い感受性でほんとうに多様な表現に触れていて人間としての深み、そして医師としての深みをどんどん増していると思うなあ。
話しているときにも、刺激とともに癒しをもらったりしてるし。

>牧さん
コメントを読んで、激しくこころが揺さぶられました。
こころの中にしまってあることを見せてくれてありがとう。

見えなくても、自分の中にしっかりとあって力になってくれることって大切にしたい。ぼくもたとえ形が消えても、魂や感動は消えないって信じてます。
悲しくても、辛くても、しっかり自分とともに歩いていて、自分の身体の一部分になるんだよね、きっと。

文章からびんびんとしたものすごいエネルギーを感じることができました。
ほんとにありがとう。
返信する
競争から共生へ (Is)
2008-10-24 00:40:20
牧さん、こちらでは、お初です。
…ぼくにも、もう会えない友人がいます。
正直、生きてる人間は、雑事に追われ、変化し、
新しい出会いもあり、
過去はどんどん遠い過去にもなるのだけれども、
でも、時々、静かな夜など、
フト二人分を生きてるのかなと、
もう一人の、生きられなかった今をいくらか背負って
生きているのかな…など、思うときがあります。
時々ですけどね!

…自我…、
僕は、究極の目標は、もしかしたら、
友蔵じいさん(ちびまるこちゃんの)なんじゃねえかな
と思うときがあります。自我薄いですよね-。
梅佳代のじいちゃんさまもそうだし、
後、僕は幸運にも、一度だけ動く生の吉本隆明を拝見したことが昔あるんですけど、吉本もほぼ超・人間化してましたね。おさるさんみたいだった。

今日の、ほぼ日で、
糸井さんが、いいこと言ってました。
曰く、男の子の遊びには競争の要素が多い。
大人になっても仕事の中で「競争ゲーム」を
たくさんすると。
だけど、競争ゲームではなく、楽しく遊ぶことができるはずだ!と。例えば、バンドなど。
そうした、競争とは違う方法の例をもっと知りたいですねーと。で、ヒントに、女の子の「ままごと」遊びや、
「おしゃべり」なんかがあるのではないかと。
…う~む。
まんま、見田スキームですね。
競争原理から共生原理へ。
…ぼくも、コレ、ほんと、これからの成熟社会のテーマだと思います。
だから、ちびまるこちゃんや、神戸在住や、保坂和志や、もしもツアーズや、タモリや、小田和正やほぼ日や、任天堂や…、共生原理が描かれた世界が好きなのかもしれません。
…最近、めいっ子ちゃん達と遊ぶ機会あるのですけど、
自身ちっちゃい頃を思い出します。
あー、やっぱり、ぼくは、ままごととか女々しい遊び
好きだったな~と。
ギリギリ、のっぽさんの「できるかな」くらいが
男の子的?
ちっちゃいころ、女の子遊びばっかりしてて、
それで、年長組の時の先生の影響で、
ちょっと、アウトドアのやんちゃな影響とか受けて
少しは男の子的になったのを思い出します。

…男的な、競争主義世界では、「個」を尖らせることが合理的なので、
 自我が強い主体が優位になる。
 女的な、共生主義世界では、「個」を変幻自在に操る
 (あたかもジャズのように)自律性が合理的なので、
 自我はヴァルネラブル(もろさ、なめらかさ?)なものが優位になる。

…というような話を無邪気に女子達に話すと
「女の世界は女の世界でで大変なのよ」と一喝されますね。
男なんて気楽でウキャキャッです。

どうでもいい追伸:アメトーク…
徳井は、ハンサムでかつ、面白いところがすごいなー!
(来週、笑い飯特集!ヤッタ!)
返信する
老い (いなば)
2008-10-25 06:59:14
>>>>>>>>>>Shin.K
一を聞いて百を感じてくれるShin.Kも積極的に誘えばよかった!!俺もどんなのか全く想像できなかったから周りにあまり強く声かけなかったんだけど、ほんと素晴らしい場だったのよ。今度、こういう異空間の場があるときは必ず声かけますね!

『魂や感動は消えないって信じてます』
って書いてたけど、この感覚の重要さに早く気づけば気づくほど、人生はすごく豊かになる。
今は目に見えるものとか、数字に還元しやすいものを求める風潮にあるけど、人生で大切なものは断じてそういうものじゃない!って思ってる。

あるものがあったら、それが平等に、ドラクエの『経験値10獲得→レベルがイチ上がった』みたいにデジタルに感じ取れるわけではないからね。
勿論、このドラクエ的な、ファミコンのRPGは新しい感覚だから当時は大きな意義があったと思う。経験を数値化する、そして自分が『レベル25とか、体力40・攻撃力50』とか数値化されるっていうのは相当画期的で、しかも分かりやすかった。

名作を読んだときとか名作を見たときとかも同じ。『なんかどんな内容だったか全然覚えてないなー。でも、すごく濃厚な読書体感をしたというのだけははっきり覚えてる』ってこと、あると思うんです。

そういう感動とかは数値化できないし、言語化しにくいんだけど、確実にコツコツとその人に蓄積されてるのよね。そして、それを大切に思ったり、愛おしく思うこと、それは内的には自分の深みとして醸成されていくし、外的には磁場のように惹きつけることもある魅力として無条件に放出されてしまうのだと思うのですよ。


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Is
>>>>>>>>>>『競争から共生へ』
ShinK→牧
Is→牧
こんな感じで勝手にクロストークが始まるのは嬉しい!わしを無視してがんがんクロストークしてください!!笑
ブログはなかなかこのクロストークしにくいんだよねー。なんかいい形態がないのか模索中。(【私信】このジャンルに詳しいShinK氏、なんかいいアイディアないかな~?この前はなしたutifの今後の進み方にも応用できると思うんだよねー。)

わしはブログという場を作り出しているだけなので、こうやって各々が呼応して化学反応起こすのは嬉しいね。
そして、いつか実際リアルに会うときに、そういう化学反応をさらに強固なものにできると思うな。
奇しくも、この面子は今度開かれる『詩のボクシング』を見に行く面子の方々だしね。『詩の場』で再度邂逅してください!!


会えない人。

それは家族、友人や愛する人、親戚、恩人、自分に影響を与えた人、自分と何らかの接点を持った人・・・・・ それぞれ自分が受ける感覚は違うんだろうけど、死んでしまった人に感じる、あの喪失感とか悲しさとか切なさとか、千差万別だよね。

わしも、医者として死に行く人に接しているので、日々そういうものを感じたりしてるのですよ。

『先生!何とかして!』『先生!死にたくない!』『先生!もういつ死んでもいい。私は満足!』『先生!ありがとう!』『先生!もうどうしようもないの?治らないの?』・・・・

死を思うとき、人の思いは揺らぎ、それに呼応して自分のココロも揺らぎます。

この辺は色々書きたいことあるんですよ!
よしもとばななに自分が感銘した点もそうなんだけど、やはり『死を想え メメント・モリ』って、間違いなく自分を形成する根本概念なんですよね。そこから他者への優しさとか愛とかって自然な形で伸びると思うのよ。
どっちが先かとか、そういうのはよくわからんしあまり本質的ではないと思うんだけどねー。


>>>>>>>自我…究極の目標は友蔵じいさん(ちびまるこちゃん)

この感覚はすごく近い!
というのは、わしは『お年寄り』『老化』『老い』・・などだと思ってるからなのです!

あの姿、人間が年老いた姿って、自分の未来論。人間誰もが年をとり、時間は常に進んでいる。これは平等におきる。
不老不死をテーマにした作品なんて数知れずありますよね!漫画ですきなのだと『火の鳥(手塚治虫)』『14歳(楳図かずお)』・・・とかね!


でも、老いって、自我が本当のところ、居心地がいいとこに戻っていく最終形態なのではないだろうか。
それは、老いて死に行く人を多数見てきた、医者という仕事の特権かも。老いていく人、死んでいく人、見れば見るほど、人間って生き仏みたいになっていくのよ。あんなに憎まれ口叩いていたのに!!
丸く丸くなるのよ。ざらざら、ゴツゴツしていた自我の毛羽立ちが消えていく!!

それを早く悟った人は、生きながらにして友蔵じいさんみたいな状態に早くなって、孫や周囲から愛される存在になるんでしょう。
人間にとって救いなのは、どんなに極悪人でも、死ぬ間際にはすごく丸くなって死ぬ光景が多いって事!これはすごく救いだと思います。

この辺の『老い』と言うことに関しては、前々から色々まとめたて書きたいとこいっぱいある。自分の中で何らかの必然性が生まれれば、またブログに書く予定。
みんな、老いとか老化とか、負の感情も含め、それぞれ思うとこあると思うのよね。

だから、『自分は自分が老いた姿を見たくない!美しいまま死にたい!』って言って自殺するタレントとかいますが、自我が強すぎて、自分の自我で内部から食い潰された状態なんでしょうね。

>>>>>>>>>ほぼ日
俺もその回丁度読んだよ。

男子遊び「競争ゲーム」の対立概念として、女子の「ままごと」遊びや、「おしゃべり」。
やっぱ彼は鋭いなー。

俺もしゃべるの好きだし、タダでできる最高に楽しい時間の使い方と思うのよね。

競争原理から共生原理へ。

俺も今後の成熟社会のテーマだと思う。
競争はもういいよね!笑 おなかいっぱい。

男的な競争主義世界と、女的な共生主義世界の調和。こういうのこそ、本当の意味での男女平等?(平等って言葉をあてた自体、スタートからなんか違う気もするし)

本当に女性の価値や素晴らしさを認めていくってこと、そしてそういう社会を作っていくということ、すごいヒントが隠されている気がしますね。それこそ22世紀のあり方!?
まあ、この辺はみなさん。共にあと10年とか20年とかかけてじっくり考えていきましょうね。わしは諦めませんよ!

>>>>>>アメトーク
ほんと大好きなんだよねー。くだらなくて笑
徳井の下敷きハンサムとか面白かった。麒麟川島の注意ハンサムとかね。笑い飯特集も面白そうだねー。楽しみ!
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はじめまして! (雨音)
2009-03-05 00:43:58
いなばさんのブログへ初おじゃまします。
圧倒的な文章力に脱帽しながら、ブログを読む楽しみをいただいたことに感謝です。

Isさんのコメント【僕は幸運にも、一度だけ動く生の吉本隆明を拝見したことが昔あるんですけど、吉本もほぼ超・人間化してましたね。おさるさんみたいだった。】に笑ってしまいました。
的を得ている!
吉本隆明氏を最近テレビで見ましたが、もう、超越したところで生きている凄みがありました。

いなばさん、「ガキの使い」も面白いですよ。
では、また~
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久しぶりの懐かしいトピック (いなば)
2009-03-05 13:33:20
>>>>>>>>雨音様
昔のトピックにコメントいただきありがとうございます。
この朗読会、ランディさんのHPをふと見たら、東京でも行う予定で打ち合わせとかしているようで、今度東京でやるときにも見に(聞きに)行きたいと思ってます。

詩の世界には全く興味なかったんですけど、この辺りの経験や体験から徐徐に詩の世界も普通に味わえるようになってきました。やっぱり、何事も自分の五感で感じてみないと分からないことって多いです。

吉本隆明氏、僕もテレビで見ましたが、なんとも表現しがたい特殊な存在感感じました。威圧感でもないし・・・あの人がよしもとばななというすごい存在もつくったんだなぁという気もしましたねー。
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