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京都 嵯峨落柿舎と有智子内親王墓

2009年08月04日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 平安時代に興味のあるわたしは、嵯峨にある歴史的な遺産・落柿舎よりも おとなりの有智子内親王の墓にめがいった。 従って何年か前、落柿舎の中には入らず外側から趣きを楽しみ、時間を節約した。 今から思えば惜しいことをしたと後悔している。 落柿舎は向井去来と松尾芭蕉で有名な場所である。 ここは向井去来が古家を購入して庵としたもので、1691年に松尾芭蕉が滞在して「嵯峨日記」を残したという。芭蕉が滞在したときは庵は荒れていて蚊帳に上下して5人で雑魚寝をしたらしい。 四畳半の狭い部屋で5人はなかなか寝ることができずに、菓子と杯で話し明かしたと日記にはかいているらしい。 この滞在期間中に嵐山、松尾などを訪れ ほかはずっと落柿舎に篭っていた。というのは落柿舎にいた芭蕉を訪れた客が多くて、芭蕉は人の訪問を愉しんでいたのである。 芭蕉が奥の細道の旅行を終えた1689年から2年後に、ここに滞在しその3年後に、臨終を見届けた向井去来は芭蕉の遺骸を遺言によって木曾義仲の墓がある義仲寺に葬った。 向井去来は長崎でうまれ医者の家業は兄にまかせて、8歳のときに京都に移った。生涯定職にはつかず芭蕉の弟子となって俳諧に人生を投入した。 芭蕉の死後去来が詠んだ句がつぎである。

放すかと とはるる家や 冬ごもり

やがて散る 柿の紅葉の 寝間の跡

 さて、落柿舎のすぐ西隣には有智子内親王の墓があり、姥目樫の垣に囲まれて佇んでいる。 嵯峨天皇が即位した直後に平城上皇、長岡京の造成に尽力する途中に暗殺された藤原種継の子・薬子、仲成によって平城京復活事件に巻き込まれる。 このとき嵯峨天皇は賀茂社に必勝を祈願して平定の際には皇女を賀茂の斎院の斎王にすることを約束した。 初めて斎院として役目を務めたのが有智子内親王である。 内親王は漢詩の才女として、自分の住居を「寂しい幽荘は森の中にある」と記しているらしい。 内親王は晩年嵯峨の西院にすみ、亡くなっている。 落柿舎のごく近くである。 

斎院は伊勢斎宮と同様に、賀茂斎院に入る前には「野宮」と呼ばれる潔斎所で禊ぎを行い、3年間の潔斎を経て斎院へ移ったのです。  「延喜式」巻五・斎宮によれば、卜定によって選ばれた斎王は、まず宮城内の初斎院にて1年間を過ごし、翌年8月上旬に初斎院から野宮に入り、野宮でさらに1年間、翌年9月の伊勢群行/賀茂斎院入院までの期間を精進潔斎します。 天皇が在位している間、斎院は賀茂神社で居住し、退下は天皇の譲位か肉親の喪による時なのは、伊勢斎王と同じである。 野宮は斎王が選ばれる毎に占定によって造られ、伊勢斎宮の場合は嵯峨野に、賀茂斎院の場合は紫野・有栖川に作られたが、必ずしも一定した場所が定まっていたわけではないようである。 賀茂斎院の場所は、一条大路の北方、紫野に所在したため紫野斎院とか、略して紫野院とも呼ばれ単に野宮とも称していた。 今日の京都市上京区の七野(ななの)神社がその跡といわれている。斎院にも伊勢斎宮同様に斎院司という役所があり、長官以下の官人や多くの女官たちが働いていたことが源氏物語にも記されている。 また野間での内親王の生活をうかがわせる記事は古今著文集の草木の項にでているらしく、歌合せでは和漢に通じた当時の公卿・学者などが通っていたから決して男子禁制ではなかったから 斎王もそれなりに生活を愉しんでいたことになる。 因みに花山天皇の頃斎宮となった済子女王が野間で禊の生活をしていたときに警護の滝口(内裏の警護を行う武士)・平致光と密会を重ね、伊勢への下向が取りやめになり野間での役目も取りやめになったという。 済子内親王は嵯峨天皇の孫にあたると、森浩一先生は書かれているが、醍醐天皇の皇子・章明親王(母は更衣・藤原桑子)と藤原敦敏娘との間に設けた娘・済子女王のことだと思う。

 

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