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怨霊と鎮魂の能

2007年12月26日 | 鎌倉・室町時代

怨霊と鎮魂の能

 能は狂言とともに南北朝時代から演じ継がれた怨霊と鎮魂をテーマにしたものである。ほとんどの主人公は亡霊であり古跡・古戦場といった場所が舞台になる。能を大成したのは世阿弥1363-1443年であるが、創始した父・観阿弥と出資した足利義満の功績は大きい。将軍義満と最も下級の役者・観阿弥の出会いは京都の新熊野神社であるという。1374年当時17歳の将軍義満はこの地で初めて世阿弥の舞を見た。 絶世の美男子・世阿弥は能面を外して「翁」という演目を舞ったが、以来魅了された義満は関白・二条良基を世阿弥につけて教育し、「藤若」という名も授けている。

将軍義満と役者・観阿弥が出会った京都の新熊野神社(撮影:クロウ)

  

 世阿弥は、60歳になって修羅(恨み、妬み、業)について深く考えたといいます。能の優雅さ・幽玄を追求した彼が、何故その境地に立ったのか・・。修羅と鬼は表裏一体だそうです。安達が原の鬼婆は自分の娘・恋衣を食ろうたがために、業により鬼と化しました。能の演目で有名です。 世阿弥は室町時代初期の猿楽役者であり、作者。 父・観阿弥とともに猿楽(現在の能)を大成し、観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基(南北朝時代の公卿、足利尊氏・義満に深く接し4度にわたって摂政・関白の座に就く)から藤若の名を賜る。 世阿弥は、40代以降に名乗った芸名である世阿弥陀仏が略されて世阿弥となったものである。  観阿弥31歳のとき生まれ、母は播磨国揖保庄の永富左衛門六郎の娘とか・・・不詳。 観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。 観阿弥が今熊野で催した猿楽能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまり、庇護されるようになった。 1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐことになる。

  当時の貴族・武家社会には、幽玄(微かに暗い、という仏教概念が美しく柔和な優雅さという実践的な概念に変化) を尊ぶ気風がありました。 世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。 世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。  義満の死後、将軍が足利義持(田楽の増阿弥の冷えに冷えた芸を愛好した)の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』『至花道』(必ず散るからこそ咲いているときが見事である花を喩えた花のある芸を記載した) が著されたのもこのころである。 義持は猿楽よりも田楽好みであったため、次第に恩恵を受けられなくなり、足利義教の代になると弾圧が加えられるようになります。 1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。この時に「初心忘るべからず」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」の言葉を残しています。  しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用するようになり、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていきます。 義教は兄弟の義嗣と仲が悪く、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、また能役者も世阿弥よりも音阿見を好んでいたので、世阿弥に露骨な迫害を加え始めていくのです。

 66歳、世阿弥親子は突然御所への出入りを禁じられ、翌年には元雅が猿楽主催権を奪われ、義教はそれを音阿弥に与えます。 未来に希望を失った次男は猿楽師を辞めて出家します。 1432年(69歳)、元雅は都での仕事がなくなり地方巡業先(伊勢)にて32歳の若さで病没します。 元雅の遺児はまだ幼児で観世家を継げず、観世座は崩壊したのです。 しかも義教は世阿弥に後継者がいなくなったことを理由に、音阿弥に観世4世家元を継がせることを強要してきました。 世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹(28歳)に4世を譲るつもりでこれに抵抗したところ、将軍に謀反した重罪人として逮捕され、実に71歳という高齢で佐渡に流されてしまいます。1436年には『金島書』を著す。  1441年、暴政を行なった義教が守護大名の反乱で暗殺されると、一休和尚の尽力で78歳になっていた世阿弥の配流も解かれ、娘夫婦の元に身を寄せ80歳で亡くなりました。 

 豊臣秀吉は大の能ファンであり役者を養い、徳川幕府は能を幕府の公式式楽とした。(撮影:クロウ)

彦根城の能楽堂

 

亡霊からの憑依を防ぐ能面

 

厳島神社の国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台

姫路城で行われる薪能

 

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