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東三条殿の隣・高松殿を寓居とした明子

2010年06月16日 | 平安時代

  この一月後に土御門邸では道長の娘・彰子の3歳の祝賀が行われ、71歳になる源雅信を呆れた顔で穆子は見ていた。続々と訪れる客に挨拶をする源雅信は大忙しであるが来客の姿に藤原実資を見出せなかったのは、時を同じくして女子の成人の祝いをしていた邸がほかにあったからである。 そこは小一条邸といって忠平の五男・師尹(モロタダ)系の邸である。師伊は明子の父・源高明が左大臣であったときに右大臣の地位にあった(村上崩御後冷泉が即位したとき)が、実頼とはかって源高明を謀反の罪で追いやった張本人である。 その師伊の息子で小一条大将といわれた済時の娘の成人の祝いに藤原実資は出席していた。 済時の長女の名は娍子という。東宮居貞親王妃としての入内の準備ともいえる裳着は次期天皇の周囲を狙う儀ともいえる。居貞親王は今はなき道長の姉・超子の長男で現幼帝よりも4歳年上であり、既に道長の異母妹の綏子が入っている。後に居貞の寵愛を受けた娍子は敦明親王をはじめとして敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王といった多くの子に恵まれるが、綏子は渡りも少なく子供には恵まれなかった。

藤原道兼・道長に退けられた花山天皇 紙屋川上陵

 

 翌年992年、道長は娘の存在感を思い知らされながら新年を迎えた。その点、兄・道兼は娘に恵まれていない。前年父・兼家が亡くなった時は、花山帝引きおろしに貢献した自分をないがしろにしたと不満を漏らし、また兄・道隆が定子の立后を果たすと愚痴を漏らし・・・毒舌はとどまるところを知らない。 その頃明子は詮子の許を離れて東三条邸に隣接する高松殿に住んでいる。東三条邸は中宮定子の里下りに使われるので、隣の高松殿が新築同然に手入れされている。 その明子が身篭ったという噂に倫子は「男子であったら・・・」などと気を揉んだのであるが、やがて懐妊の噂が根も葉もないこととわかったとき、今度は倫子が身篭るのである。 倫子がさまざまに思い乱れている間に世の中は大きく動いている。 まず、円融帝が亡くなると大掛かりな人事異動となる。右大臣・為光が太政大臣、源雅信の弟・源重信が大納言から右大臣となり、内大臣には道長の兄・道兼がついた。道長も上席を飛び越えて権大納言となった。 ところが道長は浮かない顔をしている。 というのも道隆の息子道頼・伊周が若輩ながら権中納言となり、じわじわと道長に迫っていたからである。
 しばらくして詮子は重病に陥った。当時最高の特効薬は出家することであるが、詮子も先例に違わず落飾することとなった。何故か現代からみれば不思議ではあるが、落飾後、詮子の容態はめきめき良くなり、長谷寺などの参詣するほど回復している。 そして源倫子の申し出により道長は詮子に土御門邸に迎えることを提案したのは、東三条邸の方角が良くないということも理由のひとつである。倫子の生み月が近づいていることを考えると容易なことではないが、女院と道長との結びつきを深める結果にもなる。そして道長と倫子の引越し先は土御門邸の西北にある穆子と雅信の住む一条邸ときまった。そして慌しく引越しが終わった頃、いよいよ済時の娘・娍子が東宮に入内することとなり、翌年993年に倫子は男子・頼通を産んだ。

道長妻・明子が住んだ高松殿跡

 

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