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幕末198 鳥羽伏見の戦い-1

2018年01月04日 | 幕末

 1867年12月9日、京の都では西郷率いる薩摩兵が御所を封鎖、王政復古のクーデターを起こした。これにより徳川幕府は廃せられ、雄藩を京に集めて天皇の名のもとに政治を行うことが決まった。かくして徳川慶喜は新政府からはじき出された。岩倉具視の指導のもと大久保利通、西郷隆盛が実行。薩摩に続いて長州も入京して新体制の維持をはかるべく三条実美ら五卿を政界に復帰させるというものである。龍馬暗殺の三日後に薩長両藩に倒幕の密勅が下されたからこそ、この軍事行動が可能となった。岩倉は芸州浅野家と尾張徳川家を味方に引き入れていた。一方明治天皇の側近は外祖父中山忠能を中心にすべてが倒幕派である。岩倉から文書を受け取った天皇はただちに小御所にはいり、王政復古の大号令を発した。つまり摂政、関白、幕府を廃止し、総裁、議定、参与の三職を置き、天下の政治を行うということである。これにより総裁には有栖川熾仁親王、議定には仁和寺宮嘉章親王と山階宮晃親王が選ばれた。

 これに対して徳川慶喜は大坂に戻ったことによって鳥羽伏見の戦いへと進んでいった。新政府軍は兵力4000、ところが旧幕府軍は会津藩など合わせて兵力は15000、また、慶喜は各国とは外交での代表と通告したから、倒幕派にしてみればピンチである。西郷は江戸で騒乱を起こして慶喜を挑発して戦端を開かせようとした。指令を受けたのはかつて清河八郎が結成した攘夷集団・虎尾の会メンバーで山岡鉄舟らとは同志である。かくして江戸警備にあたっていた庄内藩士、これに呼応した幕府の伝習隊、旗本有志ら数千人が薩摩藩邸を囲んだ。12月25日のことである。西郷の命を受けて江戸攪乱を実行した益満休之助の挑発は成功したが、薩摩藩邸は消失、このとき勝海舟は止めきれなかったという。幕臣たちは京で新政府を操る薩摩を討つように大坂の慶喜に遣いを送ったのは1868年1月1日。幕府側主役は勘定奉行・小栗忠順と大目付・滝川具挙、滝川は織田信長に仕えた滝川一益の末裔である。薩摩藩邸焼き討ちの後、兵を率いて順動丸にて大坂城に向かった。大坂城の旧幕府将兵がこれに呼応した。滝川具挙は討薩表を新政府に届けるため、軍勢をひきいて京へむかったのは1月2日。

 一方西郷たちは新政府の中に問題を抱えていた。反薩摩の諸侯たち、つまり徳川家との関係が深い尾張の徳川慶勝、越前松平春嶽、土佐山内容堂である。もしも徳川軍が入京すれば天皇は徳川軍に薩摩討伐の勅許を出すかもしれない。かくして西郷は自信を喪失していた。この時大久保利通は岩倉と西郷に書状を送り戦に臨むべしと進言している。西郷は徳川の進軍ルートを予測して鳥羽・伏見に兵を置いた。総大将・滝川は翌3日に大軍を率いて鳥羽街道から京へ入ろうとしたが、街道を封鎖していた薩摩軍にと衝突する。これにより七日間に及ぶ鳥羽伏見の戦いが始まったのである。結果は徳川の敗北、武器が旧式で士気が低く、勝ち目のない戦いであったと伝わっているが実はそうではない。徳川軍が装備していた銃はフランス製のシャスポー銃、海では海陽丸など無敵の艦隊を有し、軍事力は薩摩を圧倒していた。

 薩摩軍は椎原小弥太率いる兵800、徳川軍は大目付・滝川具挙率いる兵2000。薩摩軍が陣をとったのは城南宮で、兵を隠すには格好の場所であった。また城南宮から200mほど離れた秋の山という竹林がうっそうと茂った場所でも身を潜めたようである。戦が始まったのは夕刻5時、慶喜が朝敵になるのを恐れた滝川は戦準備もせずに進軍した。戊辰戦記絵巻には、準備不足の旧幕府軍は薩摩の砲撃に耐え切れずに敗走した様子が描かれている。実は滝川は鳥羽方面の指揮官であり、本当の総大将は竹中重固といって竹中半兵衛重治の子孫にあたる。3日の午後竹中重固のいる伏見奉行所を包囲した薩摩軍は大砲中心の攻撃に対して、伏見奉行所の外郭に配備されていた新選組が薩摩陣地に斬りこもうとした。第二次長州征伐で敗れた幕府軍と同じ状況であるとの説もあるが、今回の旧政府軍はフランスから新制元込めシャスポー銃を使用していたから、旧幕府軍のほうが優位といえる。では何故大敗したのかというと薩摩の反撃がここまでとは思わなかった滝川の油断である。銃に弾を装備していなかったのである。総大将が竹中半兵衛であればこんなミスはしない。徳川・薩摩最初の激突はこのようにして始まった。

 鳥羽から3㎞ほど離れた伏見でも戦いは始まっていた。ここでは細い路地での市街戦となった。薩摩は同盟を結んでいた長州や土佐の兵など総勢1000、一方の幕府側が会津藩や新選組など2500の兵を動員した。伏見奉行所を本拠地とした徳川は狭い路地で攻防を開始した。薩摩軍は突撃してくる徳川軍を武器・ミニエー銃で迎え撃った。これはライフリングが施された銃で命中精度は、ゲベール銃の100mに対して300mある。この時会津の駐屯兵・白井隊は敵との遭遇をさけて京を目指した。ところが竹田街道で待ち構えていたのは新政府側の土佐兵、別のルートでの入京を許可してきた。これを罠だと考えた白井隊は入京をあきらめて引き返したのである。これは入京して薩摩を朝敵にするチャンスを逃したともいえる。御所には何ら報告が届かずに公家、諸侯間には疑心暗鬼が漂う。土佐、越前は身を引いたことで尚更不安は広がったが、この夜、徳川軍は伏見奉行所を奪われて敗北したことで、徳川は朝敵となった。激戦となった伏見では新選組も薩摩と戦ったが敗れ、土方はもはや刀の時代ではなくなったと痛感したという。

城南宮にある鳥羽伏見戦いの跡

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