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幕末188 1877年 西南戦争-5

2017年04月22日 | 幕末

 西郷軍が本格的に熊本城を攻めたのは2月22日、この夜乃木少佐は軍旗を奪われて敗走したが、第二旅団として体制を立て直して再び田原坂を越えて熊本に入ろうとした。第二旅団の総員は6300名、実は6400名で構成されていた第一旅団は福岡に到着していた。そして中央の山県有朋は第三旅団の編成を検討していた。この西南戦争、政府軍は6万人、西郷軍は3万人で戦われ、戦死者は双方合わせて14000人に上るが、田原坂での戦死者が25%を占めることからいかに激戦であったかがわかる。西郷軍の大将格の篠原国幹が戦死したものの、戦意は旺盛で日本刀による白兵戦を敷いた。これに対して政府軍も警視隊の中から士族出身で剣術に優れた者で部隊を構成し白兵戦で応戦した。こうして設けられたのが抜刀隊である。るろうに剣士の抜刀術はここからきている。元会津藩士の警視隊員が13人斬りを白兵戦で成し遂げた・・・という誤報を報知新聞の若き記者・犬養毅が報じたことから広がったようである。

 抜刀隊による白兵戦について解説する。西郷軍の銃は先込め式のエンフィールド銃は雨の中では非常に使いにくい。銃口から火薬と弾丸を棒で押し込む方式は晴れの日であっても戦闘効率は悪い。一方政府軍が持つスナイドル銃は、火薬は薬莢にはいっているからなんの問題もない。西郷軍は銃性能で遅れをとったばかりか、政府軍の増援部隊の南下によって、軍を熊本城包囲軍と田原坂防衛軍に二分しなければならなかった。加藤清正が築城した強固な熊本城落城にこだわった作戦が裏目にでたのである。かくして田原坂は政府軍に突破され、西郷軍は城を包囲している本軍と合流し、体制を整えようとした。一方政府軍は福岡から第三旅団を結成し、海軍との挟み撃ちを考えていた政府軍は4月14日を総攻撃の日と決めた。

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