1861年、龍馬25歳のときに武市瑞山(半平太)によって結成され、血盟書が武市自身によって土佐に持ち帰られ、180人余の参加者を集めることになる。 この中にいた坂本龍馬は武市と意見が合わずに脱会している。 武市の主張する一藩勤王に対してかねてから懐疑的であった吉村虎太郎、坂本龍馬をはじめとした複数の脱藩者を出すことになる。 土佐勤王党に不利な状況ななかで、吉田東洋(土佐藩主・山内豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌って起用した革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物)の改革路線に不満に思う保守派層が存在したことは、 当時の彼らにとって有利であった。 土佐勤王党の尊王攘夷思想は過激であったが、吉田東洋に対抗するという目的の下で協力関係が樹立され、1862年武市の指令で東洋が暗殺され、東洋派の重臣は失脚を余儀なくされ、武市ら土佐勤王党は土佐藩の実権を掌握する。 藩主山内豊範を奉じて入京すると、土佐勤王党は一時的に尊王攘夷運動の中心となった。
しかし、1863年政変以降、京都で尊王攘夷派に代わって公武合体派が強くなると、安政の大獄での謹慎を解かれて藩政を掌握した土佐15代藩主・山内容堂は土佐勤王党の弾圧を行った。 武市は投獄され、切腹したことで土佐勤王党は消滅した。
土佐勤王党
┣武市瑞山 1829-1865(盟主 月形半平太のモデル)
┣坂本龍馬 1836-1867(海援隊長)
┣中岡慎太郎1838-1867(陸援隊長)
┣岡田以蔵 1838-1865(幕末四大人斬り)
┣吉村虎太郎1837-1863(土佐藩士 天誅組 )
┣中山忠光 1845-1864(公家 中山慶子は異母姉)
┣田中新兵衛1832-1863(薩摩藩士 姉小路公知暗殺)
┣沢村惣之丞1843-1863(勝海舟門下 海援隊)
┣大利鼎吉 1842-1865(禁門の変で敗走 新撰組に斬首)
┣清岡道之助1833-1864(勤王弾圧派に対する強硬派)
┣間崎哲馬 1834-1863(佐幕派に疎まれ青蓮院宮尊融親王命で切腹)
┣坂本龍馬 1836-1867
┗他