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幕末83 1863年5月10日攘夷決行

2013年06月01日 | 幕末

 幕府が攘夷を行えないということは明らかで、まさか幕府がこの日に攘夷を決行するなどとは誰も思っていなかった。しかし、五月十日攘夷決行という天皇との約束を守った長州藩は尊王攘夷家・久坂玄瑞が中心となって、下関海峡近くの田野浦に停泊中のアメリカ商船に砲撃した。沈めるには至らなかったが、逃げるアメリカ船を見て長州藩は皆絶叫して喜んだという。その後もフランス艦、オランダ艦にダメージを与える一方で、同じ長州藩の桂小五郎は、「攘夷」と叫ぶ過激な倒幕尊王攘夷運動を危険視し、藩の強化策に努めようとする。ちょうどこの月、桂小五郎と村田蔵六は、伊藤博文を含め、長州藩士15名をイギリスに留学させ、真の開国をめざしていた。1862年以来の尊王攘夷運動は1863年の攘夷実行にまでいきついた。高杉晋作らによるイギリス行使館焼き討ちは攘夷実行の現れである。京都の長州藩・尊攘激派の中心人物が周布の後継者・木戸孝允である。一方、長州藩の初志・開国論を曲げずにいた洋式軍政改革の中心人物・来原良蔵は責任をとって切腹した。木戸孝允の義弟である。1862年7月、江戸に入った薩摩・久光を避けて京都に入った長州藩主・毛利敬親は藩邸で御前会議を行い、ここで開国論から一変して尊王攘夷の藩是が決定される。このときの攘夷派の木戸孝允と開国派の周布政之助は既に、攘夷の方向で肝胆相照らしていたという。この決定により地元 萩で死刑・遠流覚悟で発起したのが坪井九右衛門を代表する俗論派である。俗論派というのは周布が呼んだもので、本人は正義派といっている。かくして坪井は1863年10月に萩で処刑されている。かくして5月10日攘夷は決行され、下関海峡で長州藩によるアメリカ商船への砲撃が始まったのであるが、欧米軍艦・ワイオミング号は長州藩海軍を壊滅させた。

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