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嵯峨・亀山殿

2009年08月08日 | 鎌倉・室町時代

 二尊院近くに群在する墓には角倉了以1554-1614が眠っている。 了以といえば高瀬舟であるが、美作の和気川で、丹波から嵯峨まで舟を通すことを思いついたという。 和気川がある和気郡は和気清麻呂の本貫のある地で、奥嵯峨の高尾にある神護寺が清麻呂に縁のある地であることを考えると了以と清麻呂には深い関係があったと推測される。  武士、公家、僧侶としてのいきかたには眼もくれず、町人・商人として財を築き、嵯峨の財力となった。 角倉はもともと吉田姓であったが、近江の吉田から嵯峨へ移住し、角倉姓となった。 吉田家は近江の古墳群があるなどの土地の豪族で源氏の佐々木氏の支流といわれ、 この湖東の地には古代の秦氏のなかでも勢力を誇った愛智 秦公がいたところでもある。 了以の先祖は嵯峨で土倉や酒屋を営み膨大な富を築いた。了以の父・宗桂は天竜寺の僧侶・策彦周良とともに明に渡ったこともある医者でもあり、了以は家業の土倉、酒屋に専念し関ヶ原の合戦の翌年には貿易船の派遣でも頭角を現した。 この貿易船は角倉船と呼ばれ幕府が鎖国政策をとるまで続いたという。 この貿易船、明の時代にだされたものを遣明船といい副使となったのは天竜寺の僧・策彦周良であるが、周防の大名・大内義隆が幕府の承認のもとにだしたもので、1539年と1547年の二回だけではあるが、多くの絵画、陶磁器をもたらし、天竜寺に伝えられている。 天竜寺に縁のあるのは 失意のうちに逃避先の吉野で亡くなった後醍醐天皇である。 建武の新政よりも前に後醍醐天皇より信頼されていた夢窓疎石という高僧は、後醍醐天皇の死の直後に、菩提を弔うために足利尊氏と弟の直義に寺の建立を進言した。 北朝の光厳上皇から亀山殿を頂き、夢窓を開山として建立した。

 足利尊氏はもともと高氏といって、鎌倉幕府を倒した功績により後醍醐天皇の尊治の一字をもらって尊氏とするほどの仲で、一時的には手を結んでいたが、尊氏は新政権に対して謀反を起こした。 京都を追われて吉野に去った後醍醐天皇にとっては尊氏は許しがたい存在であり、その鎮魂のために尊氏は天竜寺を菩提としたのである。 天竜寺の前身である亀山殿は亀山天皇の子の後宇多天皇、孫の後醍醐天皇が親王時代に過ごした場所である。 弘安の役を切り抜けた亀山天皇は亀山陵、文永の役を切り抜けた後嵯峨天皇は嵯峨南陵と呼ばれるこの地に葬られた。 この亀山殿は嵯峨殿よも呼ばれ、後嵯峨上皇の仙洞(院の御所)となったのであるが、 その前身は壇林寺で、秦忌寸家継や安麻呂の協力を得て嵯峨天皇の皇后・嘉智子が建立したものである。 当時の建物はすでに現存せず、大堰川の水を庭園に引いていたという記事が徒然草に残るのみである。

天竜寺にある後嵯峨・亀山天皇陵と夢窓疎石の石碑

 

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