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貞慶と興福寺

2012年06月15日 | 鎌倉・室町時代

 奈良・興福寺といえば藤原氏の祖・ 藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。710年が実質的な興福寺の創建年というから、まさに藤原不比等全盛の頃の創建なのである。興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれその都度再建を繰り返してきた。中でも1180年、源平合戦での平重衡の南都焼討による被害は甚大であり、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのが解脱上人貞慶であった。 記事に記載の戦乱により生家の藤原南家が没落して・・・の戦乱というのは平治の乱をいう。没落というのはもちろん信西と息子・貞憲たちの配流を意味している。また、南家の没落については、既に没落していて記事の表現は正確ではない。信西の俗名は藤原通憲といい、祖父の代から大学者の家系であったが、1112年に父・実兼が急死したことで、通憲は縁戚であった高階経敏の養子となっており、没落したのは高階家というのが正しい。しかし貞慶にとっては藤原氏の氏寺である興福寺は特別な存在であったのは確かだろう。平家による南都焼き討ちに対して復興のための勧進状をしたためたという。貞慶がなくなったのは1213年であるから今年が800年遠忌にあたる。

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