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小松帯刀寓居跡

2010年01月22日 | 幕末

 小松帯刀は、その功績の割には知名度が低く、一昨年の大河ドラマで脚本家の意図があって、篤姫の幼き頃の家庭教師役として登場し、一気に知名度が高まったお方です。 その小松帯刀の寓居跡が京都にありそこには長州藩・桂小五郎なども出入りしていたと知って「京都市上京区堀川一条東入ル南側」へ行ってみた。 なんとこの場所は帯刀寓居跡であると同時に、応仁の乱最初の戦闘地であり、藤原道綱母子や源頼光の一条邸跡であり、近衛堀川屋敷跡でもあるという。 一挙に数多くの歴史に触れることができた思いで少し興奮してしまった。 この石碑は、京都女子大や同志社大学で先生をしておられる歴史地理研究者・中村武生先生によるものだそうです。

 さて、この場所は平安京の頃の地名でいうと、左京北辺二坊五町にあたり、「蜻蛉日記」の著者・藤原道綱の母が住み、後に藤原道長に仕えた武将・源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。 ここで少し蜻蛉日記と藤原道綱母について紹介です。 

 蜻蛉日記は974年頃の作で、 作者・藤原道綱母の本名は不明です。 世の中の物語は嘘ばかり・・・私は蜻蛉日記で本当のことを書きます・・・との出だしで始まり、かなり過激な日記で、今で言う暴露本形式である。 さて、そのお相手はというと、かの有名な藤原兼家(道長の父)ですから、道長と道綱は異母兄弟になります。 序盤では、藤原兼家と結婚した15年間の出来事、つまり父の陸奥赴任、道綱誕生、町の小路の女への嫉妬、母の死などが書かれている。 中盤では兼家と結婚し、道綱が生まれるが、兼家が「町の小路の女」という愛人を作り、その嫉妬に苦しむ。 作者の病気、賭弓での道綱の勝利、唐崎の祓え、石山詣でなど、兼家とはますます疎遠になり、出家を決意する。  終盤では自己を内省する澄んだ境地で、兼家を客観的に眺める心境が記されている。 兼家も訪れなくなり、愛情を一子道綱にそそぐという内容である。 藤原道綱母は藤原倫寧の娘で、歌人としても名高い。  兼家の正室は時姫で、藤原道長の母にあたり、藤原道綱母は時姫と同格の妻であった。 また蜻蛉日記に登場する 町小路女も 兼家の妻の1人である。 時の権力者、藤原兼家を相手に嫉妬にまみれた感情を赤裸々に綴るが、当時は一夫多妻の世の中であり、たとえ藤原道綱母が当時王朝三美人のひとりといわれたお方であっても、藤原家の繁栄の為の犠牲者ともいえます。

 次に、付近一帯は応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもあると記載あります。応仁元年の1467年5月26日、東軍・細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。 以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅することとなります。応仁の乱についての紹介です。 

 山名宗全は京都に大きな権力を打ち立てる。足利義視(室町8代将軍足利義政の弟)が細川勝元を後見としたように、富子(室町8代将軍足利義政の妻)はさらに大きな義尚(義政の子で9代将軍)の後見として、山名宗全を選んだ。 足利義視を推す細川勝元と義尚を押す山名宗全が真っ向から対することとなった。 結果、この対立抗争は富子の予想に反して11年もの長い期間にわたって続いた。これが応仁の乱である。

 応仁の乱によって京都のほとんどは焼き尽くされ多くの文化遺産が失われた。すべての発端は足利代8代将軍義政の後継者争いによるものである。 足利義政は銀閣寺で代表される東山文化を大成させた文化功労者ではあったが、ほとんど政治に関与することはなく、その結果起こったのが応仁の乱であるから将軍としての罪は大きい。

 義視勢は16万、義尚勢は9万と細川勝元が有利であったが、途中で山名宗全は大大名大内政弘を迎え入れ、形勢は逆転し、義視は伊勢へ逃げて北畠氏を頼った。花の御所のすぐ近くに相国寺があり東軍義視側の本拠地であったが義視逃亡のあとに優勢となった西軍は一気に東軍を攻めた。これを相国寺合戦という。 義政は自分の室町殿へ降りかかる火の粉を眺めて宴会をしていたという・・・。 応仁の乱勃発6年後に義政の御父・伊勢貞親が死亡し、その数ヵ月後に山名宗全、細川勝元と相次いで死亡している。 動揺する義視をしりめに、義尚が征夷大将軍に任命された。 翌年の1474年にいよいよ富子は義尚の後見人として政治の舞台に登場するのである。そして小河の新邸が完成すると義政は政治を放棄して、移っていく。 その頃、山名宗全の後継者としての政豊が西軍の大将として、細川勝元の後継者の政元が東軍の大将として室町殿で会見し、講和を成立させた。ただ、東軍の赤松政則、畠山政長 西軍の大内政弘、畠山義就などは講和を認めていない。 世の中落ち着いたようには見えたが、幕府の財政は苦しく、徴税が思うようにいかず、義政の浪費に富子の苦労は並大抵ではなかった。1476年に内大臣であった富子の兄・日野勝光は左大臣となるが病魔に襲われてあっけなく死亡した。義政の義弟という地位を利用して辣腕をふるい、秘計を巡らすところにはいつも多額の金が動いたのは事実で、毒殺されたという説もある。しかし、勝光の死後、和平の機運は高まった。 1477年大内政弘の仲介で義政、義視の和解が成立し、富子から1千貫を受け取った畠山義就は京都から立ち去った。そして義視は大内政弘の斡旋により美濃の土岐成頼(斉藤道三に滅ぼされた土岐頼芸の祖父)のもとに身を寄せ、京都から立ち退いた。こうして11年に続く応仁の乱はやっと終わることになる。 系図を見てみると争乱に関わった両者とその背後がよくわかるので面白い。

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄ヨシヒテ1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

 また、江戸時代には筑前福岡・黒田家邸となり、同家御用達商人だった古高俊太郎、別名・桝屋喜右衛門も出入りしたと推定される。 1864年6月5日、古高の政治活動を怪しんだ新選組は彼を逮捕し後に惨殺するが、これが池田屋事件に発展することとなる。 尚、この地の向かいは、五摂家筆頭・近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」があったという。 薩摩島津家の家老・小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされていることから、当邸が有力候補地となっている。 1866年1月、小松帯刀寓居には長州毛利家の桂小五郎が出入りし、薩長同盟が締結された可能性がある。 寺田屋事件直後に龍馬がお龍と結婚したときに、小松帯刀の誘いで温泉旅行を楽しんたともいわれている。 小松帯刀は小松家当主から薩摩藩家老となり、1862年3月には、島津久光、大久保利通らとともに兵1000を率いて上京し、これを機会に関白九条や所司代酒井を襲撃しようとする有馬新七ら諸藩の尊王攘夷派が伏見の寺田屋で蜂起計画が時期尚早として制圧している。 後に土佐藩を取り込むために、京都の料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛、土佐の後藤象二郎・乾退助・中岡慎太郎・坂本龍馬との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。 この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展する。 これらの慎太郎・龍馬による軍事同盟は、土佐藩内においては戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力とし、 土佐出身者は薩摩・長州・肥前出身者同様に幕末・明治をリードする主要政治勢力となっていった。 

 このように、当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であったことを思いながら一人で興奮していたのでした。                                               

 

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