うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

チャイナ・リスクと日本外交(3)

2010-09-27 19:03:53 | 政治・行政
今次の尖閣問題の対処として、識者のあいだでは、日米同盟関係の強化が異口同音に述べられる。確かに、短期的には、それ以外に選択肢はない。

しかし、日米同盟が原理的に極めて脆弱であるのも事実であろう。日米同盟の片務性がある。アメリカは、日本防衛の義務を負うのに対し、日本はアメリカ防衛の義務を果たすことができない。国と国との関係は互恵以外の関係はありえない。アメリカの利益にならないのに、アメリカが、日本を防衛する筈がない。逆に、現にアメリカが日本の防衛に責任を持つというからには、それがアメリカの利益だからだ。

アメリカは、戦後、日本国憲法を押し付けた。憲法前文は言う。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と。しかし、尖閣で目にしたものは、強欲で脅迫的な野蛮な国際社会の姿だ。

明らかに前文は空想だ。その、空想を前提に憲法第9条がある。誰も実際には信じていない空想を糊塗するために日米安保条約が締結された。つまり、日米安保条約は、憲法第9条と対をなす隠れた憲法だ。日米安保がなくては、9条を保持することはできない。

われわれは、あたかも日本が独立国であるかのように錯覚する。錯覚が昂じて日米中の正三角形と発言する人間が現れる始末だ。しかし、実際は、アメリカの保護国といってよい。実際、日本外交は、アメリカの忠実な支援者を演じてきた。アメリカの関心事項以外に関しては、自由に振舞うことができる。しかし、死活的事項に関しては、事実上自由はない。これは冊封という言葉は使わないが事実上、日本はアメリカの冊封下にあるに等しい。これは、国際社会の本音で、北朝鮮でさえ、認識している事実だ。

つまり、憲法9条は、アメリカが日本を永続的に影響下におくことを意図して計画した「わな」だ。尖閣で日米同盟を強化するという、これはそうせざるを得ない構造がそこにあることを意味する。尖閣に限らない。北朝鮮に恫喝に対してさえ、日本はアメリカに頼らずして何もできない。

かつて、南太平洋の島嶼国に拘わったことがある。これらの国はかつて英国の植民地だった。日本からは、経済支援が行われていて、日本に対して感謝の言葉が述べられる。しかし、日本の支援は個々のプロジェクトに過ぎない。日本の金が尽きれば終わりの関係だ。これに対し、豪州は、それらの国の法制度を支配している。島嶼国は、日本との関係はいつでも終了できるが、豪州の頸木からは、永久にのがれられない。

日米同盟は、類似の支配構造を有するものだろう。日米同盟は対等ではない。これは、防衛義務が対等ではないという話ではなく、日本を属国化している関係だからだ。属国が、同盟国から尊敬されることはないし、国際社会で名誉ある地位を占めることはないであろう。アメリカと西欧が享受している関係は、日本は実現不可能であることを認識すべきである。

日本がアメリカの属国化しているからと言って、我々はアメリカを非難することはできない。日本は、占領終了後、独自憲法を制定して真に独立する機会が与えられた。しかし、我々はその機会を生かすことができなかった。空想を掲げる戦後護憲論者がのさばり、保守は、当初の自主憲法制定の理想をサボタージュし、利権あさりとアメリカに対する甘えに終始した。

識者の日米同盟強化の合唱に、朝鮮でのハングルを採用に反対した事大主義者の面影を認めるのは小生だけだろうか。今回の尖閣問題は、この日本国憲法の虚構と現実を明らかにした点で、感謝すべきであろう。

日本の将来は、我々自身が我々自身の世界認識と進むべき道を見出す努力にかかっている。福沢諭吉のいう独立自尊だ。そのスタートは、戦争前後の日本の歴史の再検討だろう。戦後、我々は、戦勝国に与えられた史観を無条件に受け入れ、自身の手で戦争責任を解明してこなかった。反省すべきは反省する。同時に、濡れ衣は晴らさなければならない。その作業の上に立って我々の将来を構想することだ。そうして初めて対等な日米同盟が可能となるだろう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿