(新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々

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(資料)小室哲哉の不倫報道を受けて「週刊文春」批判に切り替える大衆的なジャッジ/武田砂鉄

2018年01月23日 06時55分57秒 | 政治的なこといろいろ
小室哲哉の不倫報道を受けて「週刊文春」批判に切り替える大衆的なジャッジ http://wezz-y.com/archives/51679

 小室哲哉が『週刊文春』の不倫報道をきっかけに、引退を表明してしまった。会見で語ったところによれば、くも膜下出血に倒れた妻・KEIKOの介護を長年続け、そのストレスもあったのか、2年前にはC型肝炎に侵され、回復したと思ったら今度は「突発性の難聴に近いもの」になり、ちょうどその頃から、自身の音楽の出来にも「期待に応える音楽制作のレベルなのかな」と疑念を持ち始めていたという。このタイミングでの不倫報道を、小室は「週刊文春さんに報じられ、僕から言うと戒めみたいなことなのかな」と位置づけてしまった。「文春さんが起爆剤になっていただいた」との言葉が重い。

 不倫報道が出てから会見までには中1日ほどの時間があったが、「病と戦う妻がいるのにもかかわらず小室は……」との世間の声が、「病と戦う妻を支え続けていたのに週刊文春は!」にたちまち変容していった。どちらが正しい、とは思わない。両方間違っている、とも思わない。なぜって、「長年の介護」と「不倫」を天秤にかける行為に、外から参加できるはずもない。外から参加している人を見ると、「え、どうして参加できるの?」と思う。そんなことは本人にしか分からないし、会見を見る限りでは、本人でさえも分かっていない様子が見受けられた。あらゆる不倫について、外の人間が許容すべきでもないし、逆に、外の人間が許容しないと宣言するべきでもない。第三者が判決を下す問題ではない。

 犯罪ではない人様の不倫を吊るし上げる行為を、商売のために繰り返してきた『週刊文春』への糾弾が突如盛んになっているが、これまでの不倫報道では、雑誌に対する糾弾はここまで本格的なものにはならなかった。大きな功績のある人の歩みを止める結果を作ってしまったからと、糾弾がたちまち膨れ上がっている。人様の不倫なんてわざわざ記事にするなと思う。だから、たとえば小室の記事の前週に報じられた「フジ・秋元優里アナ『荒野のW不倫』」も糾弾すべきではないと思うし、あの報道によって全番組を降板させられた秋元アナに対しても、仕打ちが酷すぎる、との感想を持つ。がさつに比べるが、秋元に対して、小室と同じような同情を向ける人は少ない。小室はすごくて、秋元アナはすごくないから、なのか。片方は介護疲れだからしょうがなくて、片方が子供を置いて不倫しているからダメ、なのか。不倫報道を考える上で正しい尺度とは何か。そもそも、尺度などあるのか。ない、と思う。

 かつて、不倫発覚後に会見を開いたベッキーに対し、質問を一切受け付けない会見だったことも手伝い、「謝罪っぷりが足りない」「ちっとも反省していない」との声が高まり、彼女は芸能界から半ば追いやられることとなった。本来、不倫が発覚したからといって、テレビの前で国民に向けて謝罪をする必要などない(公益性のある人物はその限りではない)。ベッキー以降、不倫した事実ではなく、「ご迷惑、ご心配をおかけしたこと」を理由にテレビの前で謝ることが慣例化しているが、あれを繰り返させた結果、どうなったかといえば、人様の不倫が「付帯条件」によって判別されるようになった。つまり、不倫が発覚した後、彼・彼女の周囲にどういった要素があるのかを探り、世間がその不倫に判決を下す。

 そこで導かれるのが、

●すごい人ならば、不倫してもかまわない。
●なんかこう、最近、調子乗ってる人ならば、不倫は許さない。
●妻が許しているならば、まぁ、しょうがない。

 である。

 芸能人の不倫が発覚すると、多くの場合は男性よりも女性が成敗される。ベッキーだけではなく、自宅に男性を連れ込んだ矢口真里のことを思い出せば、彼女らは仕事をほぼ丸ごと奪われ、一度失った勢いを未だに取り戻せずにいる。その一方で、男性お笑い芸人がその手の案件に引っかかれば、彼らは「オフホワイトではなくグレー」などと、つまらないネタのひとつとして活用し、「男ってそういう生き物だから」をまぶしながらうやむやにする。伝統芸能方面ではお得意の「女遊びは芸の肥やし」とのムードにすがり、それがうまく使えなければ、謝罪会見で「拍手と笑いが起こった」ほどの話術を披露したり、「妻の神対応」で乗り切ったりする。三遊亭円楽や中村橋之助の不倫が、それである。或いは、渡辺謙の不倫が発覚すると、友人でもある小倉智昭は「世界の渡辺謙だからですよ」とかばった。女性の不倫はこうはならない。たとえば、斎藤由貴や藤吉久美子などには「色気がありすぎて」的なオヤジ目線のジャッジが顔を出すこともあるが、どんな付帯条件があっても、しょうがないよね、が顔を出しにくい。

 『週刊新潮』(2016年3月31日号)の記事「『乙武クン』5人との不倫」によって、不倫が発覚した乙武洋匡は、直ちに自身のウェブサイトに謝罪文を掲載した。なぜか、その謝罪文には、妻の謝罪文が併記されており、「このような事態を招いたことについては、妻である私にも責任の一端があると感じております」と妻に言わせていた。彼の不倫報道、そして予定していた参院選出馬を辞退するとの経緯をふまえ、テリー伊藤は「それよりも、彼の教育者としての才能を摘むほうが、日本にとって痛手だと思う。」(夕刊フジ・2016年4月13日)と擁護した。不倫の擁護として「日本にとって痛手」が出てくるのは実に奇妙だったが、今回、それに近い言葉が、少なくとも自分のTwitterのタイムラインにはたくさん流れてきた。

 このところ、不倫報道をはね除ける手段として、配偶者の理解を粗造するのがブームだった。そこに、芸事とはこういうものという“伝統芸”が抱き合わされたりすると、最終的にはその人に価値があるかどうか、で問われてしまう。この査定方法をちっとも理解しないが、こうした「すごい人」の回避方法に乗っかれば、小室自身は今回の報道を乗り越えられたはずである。だって、小室は「すごい人」だから。うやむやにして、そのままにしておけば静まった。でも彼は、そのままにせず、辞めてしまった。会見の全文を読めば、いくつもの要素が彼にのしかかっていたことがわかる。ゲスの極み乙女。の川谷絵音が今件を受けて、「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間」とツイートしているが、世間がいきなり文春を叩き出したのは、その「病的」に気づかないようにする個々の回避術の集積にも思えた。つまり、「日本にとって痛手」的な言い分に乗っかった。それはズルいと思う。


こぴーはここまで。続きは上記URLに入ってお読みください。
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