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(おすすめ)衆院選 知の巨人・内田樹氏 至極真っ当な提言! 安倍独裁制 本当の正体・・・サンデー毎日

2017年11月16日 09時43分00秒 | 政治的なこといろいろ
◎すべてに同意するわけではありませんが。

衆院選 知の巨人・内田樹氏 至極真っ当な提言! 安倍独裁制 本当の正体 https://mainichi.jp/sunday/articles/20171113/org/00m/010/001000d

▼私たちを支配する特異な「民主主義」

▼日本社会全体が「株式会社化」している

 総選挙が終わって約3週間が過ぎた。当初は「安倍政権への信任投票」などと喧伝(けんでん)されたが、いつの間にか希望の党と立憲民主党ばかりが俎上(そじょう)に載せられる戦いになっていた。この総選挙は一体、何だったのか? 現代の知の巨人・内田樹氏(67)が論じる。

 総選挙の総括として本誌からかなり多めの紙数を頂いたので、この機会に言いたいことを歯に衣(きぬ)着せず全部書いてみたい。読んで怒り出す人もいると思うけれど、ご海容願いたい。

 総選挙結果を見て、まず感じたのは小選挙区制という制度の不備である。比例区得票率は自民党が33・3%。議席獲得数は284で、465議席中の61・1%だった。立憲民主・共産・社民の三野党の比例得票率は29・2%だが、獲得議席は69で14・8%にとどまった。得票率と獲得議席配分の間には明らかな不均衡が存在する。

 初期入力のわずかな違いが大きな出力の差を産み出すシステムのことを「複雑系」と呼ぶ。代表的なのは大気の運動である(「北京での一羽の蝶(ちょう)のはばたきがカリフォルニアで嵐を起こす」)。株式市場における投資家の行動も、小選挙区制度もその意味では複雑系のできごとである。現に、カナダでは1993年に行われた下院総選挙で、与党カナダ進歩保守党が改選前の169議席から2議席に転落という歴史的惨敗を喫したことがあった。

 政権交代可能な選挙制度をめざす以上、「風」のわずかな変化が議席数の巨大な差に帰結するような複雑系モデルを採用したというのは論理的には筋が通っている。私たちは「そういう制度」を採用したつもりだった。株価が乱高下するように議席数が乱高下する政治制度の方が好ましいと多くの日本人は思ったのである。だが、導入して20年経(た)ってわかったのは、小選挙区制は複雑系ではなかったということである。今の日本の小選挙区制は、わずかな変化は議席獲得数には反映せず、政権与党がつねに圧勝する仕組みだったからである。なぜ、複雑系として設計されたはずのこのシステムが決定論的なシステムとして機能するようになったのか?

 それは低投票率のせいである。有権者の選挙に対する関心が希薄で、投票率が低ければ低いほど、巨大な集票組織を持ち、既得権益の受益者たちから支持される政権与党の獲得議席は増える。そういう仕組みだということはこれまでもメディアでしばしば指摘されてきた。だが、その先のことはあまり言う人がいない。それは、そうであるとすれば、今の選挙制度下では政権与党の主たる関心はいかに無党派有権者に投票させないかにあるということである。論理的に考えれば、それが正解なのである。かつて「無党派層は寝ていて欲しい」と漏らした首相がいた。正直過ぎる発言だったが、言っていることは理にかなっている。それゆえ政権与党は久しくどうやって投票率を下げるかにさまざまな工夫を凝らしてきた。そして、彼らが発見した最も有効な方法は「議会制民主主義はもう機能していない」と有権者に信じさせることだった。

安倍政権による「印象操作」
 今回も「積極的棄権」を呼びかけた知識人がいた。彼は「議会制民主主義はもう機能していない」という痛苦な現実を広く有権者に知らしめようという教化的善意からそうしたらしいが、「議会制民主主義はもう機能していない」と有権者が信じることからも最も大きな利益を得るのが政権与党だという事実を見落としていたとしたら短見と言う他ない。

 事実、「立法府は機能していない」という印象操作に安倍内閣ほど熱心に取り組み、かつ成功した政権は過去にない。質問に答えず、はぐらかし、詭弁(きべん)を弄し、ヤジを飛ばし、法案内容を理解していないので野党議員の質問に答えることのできない大臣を答弁に立たせ、審議時間が足りたと思うと殴り合いと怒号の中で強行採決をした。臨時国会の召集要請に応えず、野党の質問を受けるのが嫌さに国会を解散し、選挙後の特別国会では所信表明も代表質問もなしにいきなり閉会しようとした。これらの一連の行動は与党の驕(おご)りや気の緩みによってなされたわけではない。そうではなくて、「国会は実質的にはほとんど機能していないので、あってもなくてもどうでもよい無用の機関だ(現に国会閉会中も行政機関は平常通り機能していたし、国民生活にも支障は出なかったではないか)」という印象を国民の間に浸透させるために計画的に行われているのである。

 同じ配慮はこれまでも議員の選考においても示されてきた。固有の支援組織を持ち、それなりの政治的見識を持っているので党執行部に抗(あらが)うことができるような気骨のある政治家は遠ざけられ、代わりに執行部の「面接」を受けて、その眼鏡にかなったサラリーマン議員たちが大量に採用された。彼らは執行部に選挙区を割り振られ、資金も組織も丸抱えの党営選挙で議員になった。だから、執行部に命じられるまま立ったり、座ったり、野党の質問にヤジを飛ばしたりする「ロボット」であることに特に不満を抱いていない。同じことは他の野党にも見られる。維新の会も都民ファーストも、当選した議員たちはメディアのインタビューに個別に答えることを禁じられていたが、多くの議員はそれに不満を抱いているようには見えなかった。「議員は個人の政治的意見を持つ必要はない。いかなる政策が正しいかを決定するのは上の仕事である」という採用条件を知った上で就職した政党「従業員」としては、それが当然だと彼らが信じていたからである。

 立法府の威信は、このような粘り強い掘り崩しによって著しく低下した。立法府が「国権の最高機関」としての威信を失えば、行政府の力が強まる。今、子どもたちに「国権の最高機関は?」と訊(たず)ねたら、ほとんどの子どもは「内閣」と答えるだろう。現に、安倍首相は昨年の衆院予算委員会で野党委員の質問に対して「議会についてはですね、私は立法府、立法府の長であります」と発言した。のちにこれは「行政府の長」の言い間違いであるとして、議事録から削除されたが、フロイトを引くまでもなく、こういう「言い間違い」のうちに人の隠された本心が露呈する。首相は単独過半数を擁する政党の総裁であるわけだから、通したい法案は通せる。だから彼が「自分は行政府の長であり、かつ立法府の長でもある」と内心では思っていたとしても不思議はない。しかし、それでもこの「言い間違い」が含意している政治的な意味について、日本のメディアはあまりに無頓着だったように思う。

安倍首相を「独裁」とする理由
 今さら定義を確認するまでもないが、立法府は「法律の制定者」であり、行政府は「法律の執行者」である。この二つが別の機関であるような政体を「共和制」と呼び、法律の制定者と執行者が同一である政体のことを「独裁制」と呼ぶ。安倍首相は「私は立法府の長である」と口走った時に「日本は独裁制である」と言い間違えたのである。普通なら政治生命が終わりかねないほどの失言であり、後からこっそり議事録を書き換えて済む話ではない。

 けれども、メディアも有権者もそれを咎(とが)めなかった。それは首相自身と同じように人々もまた「立法府は行政府の長が実質的には支配している」と実感していたし、「それで何が悪いのか?」と思う人さえたくさん存在していたからである。

 自民党改憲草案の「目玉」は緊急事態条項であるが、これは平たく言えば、民主的手続きによって独裁制を成立させる手順を明記したものである。

 草案によれば、内閣総理大臣は「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害」に際して緊急事態の宣言を発することができる。緊急事態が宣言されると、憲法は事実上停止され、内閣の定める政令が法律に代わる。衆院選挙は行われないので議員たちは宣言下では「終身議員」となる。つまり、発令時点で与党が過半数を占めていれば、国会が承認を繰り返す限り、宣言は半永久的に延長できるのである。そのような宣言の無制限の延長は不当だという国民の声は議会外でのデモやストで表示するしかないが、そのような行為そのものが「社会秩序の混乱」として緊急事態宣言の正当性を根拠づけることになる。


こぴーはここまで。続きは上記URLに入ってお読みください。
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