UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

あなたはどのような時代に生まれ育ちましたか?

2016-05-16 00:16:29 | 日記

先日ひょんなことからGGIは大歌人とされている斎藤茂吉についての本をちょっと読んでみてほしいと某知人からたのまれてしまいました。茂吉氏の息子である北杜夫氏が著した茂吉の作歌についてのエッセー《青年茂吉―「赤光」「あらたま」時代》と題された本です(岩波現代新書)。

GGIは和歌や短歌、俳句などとはまったく縁無き衆生、けれどもパラパラと茂吉の句があちこちに引用されているこの本を眺めるともなく眺めていて、やっぱりなあ・・・・といまは亡き作家、堀田善衛氏が書いていたことを思いだしてしまいました

堀田氏、藤原定家の和歌について、その著作「方丈記私記」や「明月記私妙」でおおよそ次にように述べております

《戦乱、大地震、大飢饉、大火、大風の打ち続く時代に、「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」とうそぶき、下々の苦しみも我がことにあらずとばかり、世界に稀に見る技巧、表現術を駆使して、繊細にして優美、幽玄なる「夢の浮橋」とも言うべき和歌の世界を築いた》と藤原定家を高く評しつつも、堀田氏は定家の和歌の表現内容については、たとえば「有明の富士の高嶺に降る雪の・・・」かあ、まことに繊細にして幽玄、でもそれがどうした、と言われればまったく答に窮してしまうのだが、それが和歌というものである、と記しています。

まあ、茂吉氏の短歌も、GGIがごとき無教養な人間が何を言うか!とお叱りを受けそうではありますが、やはり表現の技巧は巧みであるものの、その表現内容は定家の句と同様、おもわず「それがどうした」とつぶやきたくなるようなものが大半ではないか、というのがGGIの偽らざる感想であります

 などともっともらしいことを書きましたが、でも今日の本題は和歌や短歌ではございませぬ。この北杜夫の本を眺めていてGGIは少なからず驚いたことがあるのです。と申しますのは、先の大戦、その敗戦の日、八月十五日についての北氏の記述であります。偶然この敗戦の日に旧制松本高校に入学した1927年生まれの彼は以下のように記しているのです。

《実際に入学式は形式だけのものであって、校長が一場の訓辞をし、そのあとすぐ私たちは大町の昭和電工に動員された。そこで終戦の詔勅を聞いた。涙が滂沱として流れた。朝鮮人労働者は「万歳!」と唱える中を、彼らも日本人と同じく米兵撃滅のために働いていたと教育されてきた私は、その抑圧された「万歳」の声に、なお悔しくてあふれる涙を手で拭いつつ、石ころだらけの道をうつむいて歩いた。・・・》

またこの本の別の箇所では《東京の空襲のとき、いくらB29が二百何十機もやってきて、そこらじゅう火災に包まれても、およそ恐怖という念に囚われたことはなかった》とも記しています。

北氏は敗戦当時18歳、おそらく当時の日本のどこにでもいた「軍国少年」「愛国少年」の一人であったのでありませう。今、この一文を読みますと、そうとは言え、この記述にGGIは驚きを禁じ得ません。

一方、先に引用しました堀田善衛氏は1918年生まれ、敗戦当時は北杜夫より十歳ばかり上の27歳。1945年3月の東京大空襲で帝都が灰燼に帰した数日後に、焼け跡の視察に訪れた天皇の一行に偶然遭遇するという稀なる体験の持ち主である堀田氏、そのときのことを、天皇が視察に来ているのに気づいて、近くで焼け跡の後始末などをしていた人々が近くに寄り集まってきたときの様子を、以下のようにその著作「方丈記私記」で記しています。

《私が歩きながら考えていたことは、天皇自体についてではなかった。そうではなく廃墟でのこの奇妙な儀式のようなものが開始されたときに、あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まってきて、それが集まってみると実はかなりの人数になり・・・その人たちの口から出た言葉であった・・・・

私は方々に穴のあいたコンクリート塀の陰にしゃがんでいたのだが、これらの人々はほんとうに土下座して、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申訳ない次第でございます、命をささげまして、といったことを、口々に呟いていたのだ。

 私はほんとうにおどろいてしまった。私はピカピカ光る小豆色の自動車と長靴とをちらちら眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。こいつらぜーんぶを海に放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまり焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった方にあることになる!そんな法外なことがどこにある!こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こり得るのか!

 ということが私の考えていたことの中枢であった。ただ一夜の空襲で十万人を超える死傷者を出しながら、それでいてなお生きる方のことを考えないで、死ぬことばかり考え、死の方へのみ傾いて行こうとするのは、これはいったいどういうことなのか・・・・なぜいったい、死が生の中軸でなければならないようなふうに政治は事を運ぶのか?

 とはいうものの、実は私自身の内部においても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、そのころのことばでいわゆる大義に生きることの、戦慄をともなった、ある種のさわやかさというものもまた、同じく私自身のなかにあったのであって、この二つのものが私自身のなかで戦っていた。せめぎ合っていたのである》

 北杜夫氏と堀田善衛氏、生まれ育った時代がわずか十年異なるだけですが、敗戦あるいは終戦についの記憶や思いはこのように大きく異なっているのです。

いつであったか記憶は定かではないのですが、ある人物が「作家の資質を左右する大きな要因は、どのような時代に育ったのか、どのような場所で育ったのか、どのような家庭環境で育ったのかの三つである」という意味のことをどこかに書いていました。これは作家に限らず、誰にとっても、その人生に影響を与える大きな要因であるといえるのでありませう。家庭環境や育った場所の影響の度合いはその後の人生によって人様々であると思われますが、育った時代の影響は、誰にとっても決して免れることのできない、人生に終生決定的ともいうべき影響を及ぼす要因であるでありませう。

ところで、GGIの長兄は、1936年(昭和11年)生まれ、北杜夫氏よりはさらに十年後に生まれているのですが、あるとき、と申しましてもほんの数年前のことでありますが、我が庵にやってきて突然終戦の日の想い出を語りはじめました、当時九歳、「国民学校」と称されていた小学校の三年生か四年生でした

《あのなあ、天皇の終戦の詔勅はラジオで聞いた、でも雑音が多く、そのうえムズカシイ言葉使いだったので分からなかった。でもまわりにいた大人たちの雰囲気で日本が負けたことは分かった。大人たちは「やれやれ、これで今夜からは灯火管制はなし、自由に電燈をつけて明るい夜を過ごせる」などと口にしており、夜になって電燈の光の下で大人たちはニコニコと談笑なんかしているのや、敗けたくせにうれしそうにノンキに笑っているなんて許せん!、そのとき以来、オレは国家なんか決して信じないと堅く決意したんや、それでずっと生きてきた、あのなあ、軍国少年なんて五年もあれば簡単に育つんや・・・》

冗談とも本気とも分りかねましたが、その口調は思いのほか激しく、GGIはいささか意外な展開に驚かざるを得ませんでした。

《それになあ、ちかごろ、何のために生きるのか、などということを口にしたり、そんな本を読んだりする人間がオレと同年配の連中のなかにもいる、そやけどなあ、何をアホなこと言うてるんや、生きる意味なんかあるはずないやろ!》

と長兄はさらに言葉を加えました。あの敗戦の日、国家を信じ切ってそれまで生きてきたわずか9歳の少年は、自分の全存在を否定されたと思ったのかもしれませぬ。

えっ、GGIは敗戦のときどうたったのかとおっしゃるのですか、GGIは敗戦のとき御年わすか4歳、岐阜県の大垣で空襲に逃げ惑った記憶はわずかにあるのですが、敗けてしまったからどうのこうのということはまったくありませぬ、ただぼんやりした幼児に過ぎなかったからです。したがいまして、その後も、学校にあがってからも学校におさらばして社会生活のようなものをするようになってからも、この幼児体験の影響を受けて、ただぼんやりと生きてきたに過ぎませぬ

ところで、あなたはどんな時代に生まれ育ちましたか?

今日の写真は先日の日記で書きました自衛隊の観閲式で撮った写真の一枚です、思いっきり大きくしてご覧になりますと見物客の人垣の向こうにカーキ色の戦闘服に身を固めた自衛官諸氏の隊列が見えます。ちなみに陸上自衛隊の隊旗はあの旧陸軍の軍旗と同じデザイン、すなわち旭日旗です。中央の日の丸から赤い太い光線が放射状に広がっています。自衛艦の旗も旭日旗です。

グッドナイト・グッドラック!