忙中閑あり

源氏物語 水彩画 写真、旅 そして時間を追いながらの毎日を書いています。

昨日のこと

2006年05月31日 15時18分43秒 | 母のこと
昨日は母の処で一日過ごした。
お昼ご飯を一緒に食べたのに、直ぐに忘れて
「あなた お昼はどうしたの?」と聞いてくる。
昨年の今頃 いえ 一昨年の今頃はこんな事は無かったのに、、
「今一緒に食べたでしょ」
「あっそう」
最近こんな会話が多くなり母の老いが坂を転がり始めたそんな気がする。
それでも 娘のお昼を心配してくれる母が有りがたいと思う
「もう帰りな タカちゃん待ってるでしょ」と夫の事を心配してくれる。

夕飯の支度をしてテーブルに出したが 食べない、
「お母さん ご飯食べないと死でしまうよ」
「もう 死んでもいいの」
今回初めてこんな会話をした。
とても寂しい気持ちで 車に乗り家路に着いたが 
母との会話が頭から離れないでいる。
母を思いながら芍薬の色を載せた。



蕾が固かったので 開くのか心配したけど綺麗に開いた。いつも思うが自然の色は絶対に出せない。
どんなに絵具を混ぜても、美しい色から離れてしまう諦めているのに又美しい
色に惑わされて色を追いかけている自分が此処に居る。    

    

       デッサンと着彩

源氏物語(桐壺)12

2006年05月28日 01時32分30秒 | 源氏物語
御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、例なきことなれば、まかでたまひなむとす。
何事かあらむともおぼしたらず、さぶらふ人々の泣きまどひ、上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれにいふかひなし。
限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、
泣きこがれたまひて、御送りの女房の車にしたひ乗りたまひて、愛宕(おたぎ)といふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはし着きたるここち、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひ
なりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人々もてわづらひきこゆ。

     

御子は親の喪中であっても、帝はお傍において置きたく思うがこうした時
宮中にいらっしゃるのは例がないことなので、御息所のお里にお遣わしに
なりました。
若宮は何が起こったのかもお分りにならず、お仕えの女房が泣きまどい
父 帝も涙をとめどなく流している様子を見て、不思議そうに御覧になって
いました。普通の場合でも幼子を手放すのは悲しい事なのに、こんな時に御子と
離れ離れになるなんて 帝のお心はどんなにか お辛いことだったか。
宮中のしきたりで 通例の火葬にしてお墓におおさめしなければならず
母君は遺骸を焼く煙と一つになって 消えてしまいたいと 泣き焦がれていた。
野辺送りに従って行く女房の車を、追いかけるようにして乗った。
愛宕というところで おごそかに儀式が行われていた そこに着いた母上の気持ちはいかばかりか。
「むなしい亡がらを目の前に見ながらも、まだ生きていらっしゃると思う」
母上は「いっそ灰になられるのを見て、今こそ本当に亡くなったのだときっぱりと
あきらめよう」と冷静に思いました。でも灰になった後も 
車から落ちそうに泣きもだえお付の女房たちは 手を焼き困り果てていました。


最愛の桐壺を亡くして
辛く悲しい時に しきたりとは言え 忘れ形見の幼い御子をも 
手もとから離さなければならず どんなにか 寂しく辛く悲しかったか
察するに余りありますね。
 
それにしても 母上の悲しみには胸を打たれます。
たった一人の娘に先立たれてしまい、
荼毘にふした娘の煙と一緒になって消えてしまいたいと泣きます
むなしい亡がらが其処に在るから悲しい まだそこに生きていると思ってしまう
いっそのこと灰になったら きっと諦められるだろうに と泣きますね
でも諦められずに車から落ちそうになって 泣き悲しみます。
落胆の様子が手に取るように書かれています。

親の心は1000年前も今も変わらない 普遍なものなんですね。
近頃、子供の事で新聞を賑わす不幸な事件が多いですが
桐壺のお母さんの様に 子に先立たれて悲しまない親はいないと信じています。
煙と共に消えて無くなりたいと思うのではないでしょうか。

煙と共に自分も消えたいなんて 紫式部は素敵な表現をしますね、
1000年も前にですよ。

私も2年前に弟を亡くしました、母はいまだにこの悲しみから立ち上がることが出来ません。
80歳を超えて子に先立たれましたからね、弟が残したムクゲの植木鉢を見ては
弟の名前を呼んでいます、そんな母を見て私も涙が出ます。

源氏物語は 読まず嫌いの人いる ようです 確かに大勢の登場人物ですし 
古文を現代語に訳してはいても 文章の繋がりが上手くいかないなんて事もあり
読みにくいと言えば読みにくいです。 
私の友人でかなり本好きの人が居ますが、
「あんな女たらしの本は好きではない」といいます。

大ざっぱに1000年前に書かれた作品ですが 
桐壺帝等は醍醐天皇(延喜)朱雀 村上天皇がモデルなのではないかと
言われているそうです、つまり書かれ1000年より更に50~100年前の時代の事、
背景には時の権力の争奪、登場する人物の人生(幼さから成熟)人格形成 
60年に渡る源氏の人生と、取り巻く人々の人生が書かれています。
当時の庶民のぼやき等もあります、又美しい色彩の文化 などなど、、、。
「あんな女たらし」なんて と言わないで世界に誇る日本の傑作です。
単に好色な恋愛物語ではありません。

私の拙いブログを読んでくださり どうぞ 本屋に足を運び一度挑戦して
お読みになることをお薦めします。
そして 何時の日か このブログの上で 「ねぇ夕顔ってさぁ」とか「玉葛ねぇ」
とか 「柏木ってね」なんて お話していきたいなぁと思っています。
    
   

愛宕(おたぎ)=平安時代の葬所

源氏物語(桐壺)11

2006年05月26日 23時55分17秒 | 源氏物語
いとかく思うたまへましかば」と、息も絶えつつ、聞こえまほしげ なることは ありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを 御覧じ果てむと おぼしめすに、「今日始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵より」と聞こえ急がせば、わりなく思ほしながら、まかでさせたまふ。御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使いの行きかふほどもなきに、なほいぶせさを 限りなくのたまはせつるを、「夜中うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」と泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。きこしめす御心まどひ、何ごともおぼしめし分かれず、籠りおはします。
  


こんな風になることが分かっていたなら」と帝にまだお話することが沢山ありましたのにと 
息も絶え絶えにひどく苦しそうなご様子でした。
この先どうなるにしても見届けたいと帝は思いましたが、
「今日から始める予定のご祈祷をしかるべき僧達が待っております今宵から」
と帝をおせきたてるので、たまらなく 仕方なく宮中退出のお許しを出しました。
帝は胸がいっぱいで とろとろとまどろむことも出来ず、夜を明かすことも出来なかった。
御息所(桐壺)のお里にお見舞いのお使いがまだ帰る時間でもないのに
しきりに気がかりな気持ちをもらしていた。
お里では「夜中すぎるころに絶え果ててしまった」といって、泣き騒いでいるので
お使いも、がっかりして帰って来ました。
その知らせを受けた帝のお心は、、分別もなく引き籠ってしまわれました。

宮中では死の穢れを忌むので帝と言えども桐壺の死を看取ることが出来なかったのです。
ご祈祷することがお薬の一つだったらしいですよ。
もっと早くお里に返してノンビリさせてあげたらこんな事にならなかったかも
しれません宮中退出させた後、直ぐにお使いを出して 
どんな具合か調べてきなさいと言う 帝は本当に心配だったんですね。
3歳の御子(光の君)はまだ事の次第が分からないのです。
大きくなるにつれてこの母の面影を探す人生が始まります。
3歳ですと 記憶が残らないですよね
私も3歳の時に父が戦地に行きました、最後に私を抱っこしたと
周りの人から聞きますが 何にも憶えていませんもの。
   

    


      桐の花  


淡島ホテル

2006年05月25日 14時51分31秒 | 旅行

東海道線三島駅から、ホテルのお迎えバスに乗って約40分でホテルの船着場に到着。ここはホテルの一部で既にホテルとしての接客がなされており、快適な気分のスタートでした。
今回はこのホテルの会員でいらっしゃるSさんのご招待でした。
20日の土曜日10chの「旅サラダ」で五代夏子さんが訪れていました 外国のリゾートホテルに比べたら設備の規模が違いましたが それでも出てくるお料理には季節が取り込まれた地場食材が使われいて美味しかったですよ お部屋も広くオーシャンビュウー ベランダもゆったりで 部屋のバスも海を見ながら入るものでした
大きなお風呂は 露天が二つあり 富士山を眺めながらのバスタイムが出来ます
お天気が良ければね 幸い私は翌朝富士山を見ながら朝風呂を楽しみました。
                       

               




 お酒が飲めない方が三人いてボトル一本で6人が楽しむ経済的なディナーとなりました 海老 アワビ サーモン 帆立 モンゴイカの前菜から始まりました。 マウスを当ててくださいね





スケッチ

2006年05月18日 22時15分45秒 | 水彩画

昨日久しぶりで河口湖にスケッチに行きました
生憎の曇天で2時間位で中止となりました
勿論富士山も見えずでした
雨模様の絵に見えるかなぁー

それでも帰りには勝沼ワイナリーに寄り
工場見学しておみやげコーナーで凄い試飲がありましたのみ放題状態でした。
私は悪いので白ワイン一本買いました
とてもフルーティな美味しいワインです
誰と飲もうかな???
      

         {/car_pink/ 
      

源氏物語(桐壺)10

2006年05月18日 16時50分47秒 | 源氏物語
その年の夏、御息所、はかなきここちにわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇さらにゆるさせたまはず。年ごろ、常のあつしさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々におもりたまひて、ただ五六日のほどに、いと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせ たてまつりたまふ。
かかるをりにも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をばとどめたてまつりて、忍びてぞいでたまふ。限りあれば、さのみもえとどめさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを いふかたなく思ほさる。いとにほひやかに、うつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言にいでても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来しかた行く末おぼしめされず、よろづのことを、泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かのけしきにて臥したれば、いかさまにとおぼしめしまどはる。輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。「限りあらむ道にも、おくれ先立たじと契らせたまひけるを、さりともうち捨てては、え行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじと見たてまつりて、
   
     限りとて別るる道の悲しきに 
           いかまほしきは命なりけり

                           「桐壺」から帝へ


その年の夏、桐壺はふとしたことで体調を崩します お里に帰り養生したく帝に申し出ますが、帝はそれを許しません。 
ここ数年、病がちである姿を見ていてので 「しばらく様子を見よう」とおっしゃいますそうこうするうち、 
見る見る容態が悪くなりました 五、六日の間にひどく衰弱してしまいました。
御息所の母君は泣く泣く帝にお願いして 宮中を退出させ お里帰りをさせますが
こんな時でも 思いがけなく恥をかかせられる事があってはいけないと考えて
御子は宮中に置いていきました。
御息所とお忍びで退出する事になりました 何かとしきたりがあり そうそう留め置く事もできず 帝の位にあるため お見送りすることもままならずにいました つやつやと美しく可愛らしい人が 面痩せて沈み入り しみじみ悲しいのに言葉に出して何か言う事も出来ず あるかなきかの意識の状態で まなざしもだるそうでいつもより一層頼りなく臥していました。
帝は一度は車の手配などしたが また桐壺の部屋に入りどうしても手放す事が出来ませんでした。
 「死出の旅路にさえ共に行こうとお約束なさったのにいくらなんでも私を残して里へ行ってしまうのですか?」
とおっしゃる帝を、桐壺はしっかり御覧になって
  「定めある命ではありお別れしなければならないこのお里帰りは悲しくてなりません、生きていたいです!」

この頃宮中では病気になると思うように養生が出来ないので病気退出するのが慣わしだったようです 桐壺更衣も早くに退出して養生したら死ななくてすんだかも知れないけど 帝があまりに執着するので帰れず お母さんが出てきて連れ帰るんですね女の人の人権が
あまり無いようなこの時代ですが帝は桐壺に 
  “おくれ 先立たじと 契らせたまひけるを”と言います。
帝は桐壺に 後れずに 離れずにいっもご一緒に とお約束したでしょうに
といいますね。 
今なら
そういったでしょ!
約束したよね
でも当時は  契らせたまひける なんですね
有る部分 女性はとても大切に扱われているんですね。
とても美しい言葉ですね。

         
  

源氏物語(桐壺)9

2006年05月18日 14時47分43秒 | 源氏物語



この御子三つになりたまふ年、御絝着のこと、一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くして、いみじうせさせたまふ。それにつけても、世のそしりのみ多かれど、この御子のおよすけのて おはする御容貌、心ばえ、ありがたくめずらしきまで見えたまふを、え嫉みあたへたまわず。ものの心知りたまふ人は、かかる人も世にいでおはするものなりけりと、あさましきまで目をおどろかしたまふ。          

若宮三歳のとき 始めて絝を付ける儀式がありました
一の宮さまの時と同じように内蔵寮 納殿 にある古くからの宝物を用いて
立派に行われました
なにかと 世のそしりの多いことではありましたが この御子の大きくなるにつれ
お姿 お顔 お知恵つき ご性質の良さなど世にも稀なるを見聞きした人たちは憎むことが出来なくなりました 
心ある人たちは この様な方が世の中にいらっしゃることに呆れるおもいで
目を見張りました。


兎に角可愛かったらしいですし 賢かったと書かれています きっとお行儀も良くて
帝がそれぞれの御殿にこの御子を連れていき 可愛らしさを 見せたのしょうね
今までに お母様の桐壺を憎んでいた妃や 女房達などはこの御子を憎む
ことは出来なかったと書かれています 
                 


源氏物語(桐壺)8

2006年05月03日 00時28分59秒 | 源氏物語



かしこきお蔭をば 頼みきこえながらむ、おとしめ疵(きず)を求めたまふ人は多く、わが身は、か弱くものはかなき、ありさまにて、なかなかなるもの 思ひをぞしたまふ。
御局は桐壺なり。あまたの御かたがたを過ぎさせたまひて、ひまなき御前わたりに、人の御心をつくしたまふも、げにことわりと見えたり。まうのぼりたまふにも、あまりうちしきるをりをりは、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎えの人の衣の裾、堪えがたく、まさなきこともあり。またある時には、えさらむ馬道の戸をさしこめ、こなたかなた、心をあわせて、はしたなめわづらわせたまふ時も多かり。事にふれて、数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあわれと御覧じて、後涼殿に もとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を、ほかに移させたまひて、上局に賜わす。その恨みましてやらむかたなし 

            

 父もなく頼りになる人のいない更衣は帝を頼りにしか生きられないのでした。 そんな更衣に何か落ち度がないか等とあら捜しをして貶めようとしたり 蔑んだりする女御、更衣、女房達の中で 更衣自身は「いつまで生きられるか分からないわ」と考え 帝の過分なる寵愛が気苦労の種でした。
更衣の局は桐壺である。
大勢の更衣、女御の局を素通りして ひっきりなしに桐壺(淑景舎しげいしゃ)に通う帝にお妃たちは気をもまれて嫉妬にくれていました。
更衣が帝の御殿に参上する回数が多い時等 打橋(建物と建物の間に仮に渡す板の橋)、渡殿(建物から建物に渡る屋根付の廊下)のあちらこちらにけしからぬことをしては送り迎えの供をする女房達のお召し物の裾を汚すことなどあったのです。
又あるときは、どうしても通らなければならない廊下の戸に、鍵をかけて閉めてしまい戻ることも進むことも出来なくなる有様でした。
更衣がひどく苦労しているの見て帝は 一層いとおしく 可哀想に思い 後涼殿に住んでいる更衣を他の局に移してしまい その後涼殿に桐壺を住まわせるなどしたので後涼殿に住んでいた更衣の怒りは晴らしようがありませんでした。

桐壺は淑景舎の別名で帝のいる御殿(清涼殿)からは一番遠くにあり(東北の隅)帝は桐壺に行くときは大勢の女御、更衣の 住んでいる局の前を通るわけですから 中にいる人は御簾の陰から息を殺して「又桐壺にいくわ!」と言って嫉妬に苦しんだのね
打橋 渡殿に怪しいものとあるのは どうも汚物をまいたらしいですよ。
怖ーい!ですね 女の嫉妬って 
女御 更衣だけでなくて その妃に仕える女房達も一緒になって
嫉妬してるんです 当時は妃に仕える女房は妃と運命共同体で生活しているので 汚物を撒くなんてこともしたらしいですよ 
それと廊下と廊下の間に戸が有ってその戸を前と後ろを閉めてしまうと
袋小路になってしまうんですね 前に住んでいる妃と
後ろに住んでいる妃が申し合わせしたんでしょうね。
可哀想なのは桐壺の更衣ですね。
又帝はそんな更衣が一層不憫で可哀想でねぇ 
後涼殿は帝の住む清涼殿にとても近いところなんです 
すでに住んでいた更衣を他所に移してしまいます 命令なんですよ
その後涼殿に桐壺の更衣を住まわせたのですから
そこに住んでいた更衣 女房の恨みはいかばかりでしたかねぇー。
       


馬道=建物の真ん中を突き抜ける廊下