御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、例なきことなれば、まかでたまひなむとす。
何事かあらむともおぼしたらず、さぶらふ人々の泣きまどひ、上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれにいふかひなし。
限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、
泣きこがれたまひて、御送りの女房の車にしたひ乗りたまひて、愛宕(おたぎ)といふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはし着きたるここち、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひ
なりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人々もてわづらひきこゆ。
御子は親の喪中であっても、帝はお傍において置きたく思うがこうした時
宮中にいらっしゃるのは例がないことなので、御息所のお里にお遣わしに
なりました。
若宮は何が起こったのかもお分りにならず、お仕えの女房が泣きまどい
父 帝も涙をとめどなく流している様子を見て、不思議そうに御覧になって
いました。普通の場合でも幼子を手放すのは悲しい事なのに、こんな時に御子と
離れ離れになるなんて 帝のお心はどんなにか お辛いことだったか。
宮中のしきたりで 通例の火葬にしてお墓におおさめしなければならず
母君は遺骸を焼く煙と一つになって 消えてしまいたいと 泣き焦がれていた。
野辺送りに従って行く女房の車を、追いかけるようにして乗った。
愛宕というところで おごそかに儀式が行われていた そこに着いた母上の気持ちはいかばかりか。
「むなしい亡がらを目の前に見ながらも、まだ生きていらっしゃると思う」
母上は「いっそ灰になられるのを見て、今こそ本当に亡くなったのだときっぱりと
あきらめよう」と冷静に思いました。でも灰になった後も
車から落ちそうに泣きもだえお付の女房たちは 手を焼き困り果てていました。
最愛の桐壺を亡くして
辛く悲しい時に しきたりとは言え 忘れ形見の幼い御子をも
手もとから離さなければならず どんなにか 寂しく辛く悲しかったか
察するに余りありますね。
それにしても 母上の悲しみには胸を打たれます。
たった一人の娘に先立たれてしまい、
荼毘にふした娘の煙と一緒になって消えてしまいたいと泣きます
むなしい亡がらが其処に在るから悲しい まだそこに生きていると思ってしまう
いっそのこと灰になったら きっと諦められるだろうに と泣きますね
でも諦められずに車から落ちそうになって 泣き悲しみます。
落胆の様子が手に取るように書かれています。
親の心は1000年前も今も変わらない 普遍なものなんですね。
近頃、子供の事で新聞を賑わす不幸な事件が多いですが
桐壺のお母さんの様に 子に先立たれて悲しまない親はいないと信じています。
煙と共に消えて無くなりたいと思うのではないでしょうか。
煙と共に自分も消えたいなんて 紫式部は素敵な表現をしますね、
1000年も前にですよ。
私も2年前に弟を亡くしました、母はいまだにこの悲しみから立ち上がることが出来ません。
80歳を超えて子に先立たれましたからね、弟が残したムクゲの植木鉢を見ては
弟の名前を呼んでいます、そんな母を見て私も涙が出ます。
源氏物語は 読まず嫌いの人いる ようです 確かに大勢の登場人物ですし
古文を現代語に訳してはいても 文章の繋がりが上手くいかないなんて事もあり
読みにくいと言えば読みにくいです。
私の友人でかなり本好きの人が居ますが、
「あんな女たらしの本は好きではない」といいます。
大ざっぱに1000年前に書かれた作品ですが
桐壺帝等は醍醐天皇(延喜)朱雀 村上天皇がモデルなのではないかと
言われているそうです、つまり書かれ1000年より更に50~100年前の時代の事、
背景には時の権力の争奪、登場する人物の人生(幼さから成熟)人格形成
60年に渡る源氏の人生と、取り巻く人々の人生が書かれています。
当時の庶民のぼやき等もあります、又美しい色彩の文化 などなど、、、。
「あんな女たらし」なんて と言わないで世界に誇る日本の傑作です。
単に好色な恋愛物語ではありません。
私の拙いブログを読んでくださり どうぞ 本屋に足を運び一度挑戦して
お読みになることをお薦めします。
そして 何時の日か このブログの上で 「ねぇ夕顔ってさぁ」とか「玉葛ねぇ」
とか 「柏木ってね」なんて お話していきたいなぁと思っています。
愛宕(おたぎ)=平安時代の葬所